第一節
詠唱は、十六個あった。
塔から来たのは、まだ若い人だった。ヴィムと名乗って、それ以外のことは何も言わなかった。三日に一度、午前中に来る。ティアが昼寝をしている時間だ。
「補助の基礎詠唱は十六。うち八つが身体、四つが感覚、四つが持続に関わります」
「はい」
「まずは全部、音として覚えてください。意味を考えないように。考えると途中で止まります」
言われた通りにした。
覚えられなかった。
音が長い。区切りが分からない。似た音が三つ並んでいるところがあって、そこで必ず間違える。ヴィムさんは怒らなかった。怒らずに、もう一度、と言う。もう一度と言われて、また同じところで間違えた。
四日目の夜に、私は歌にした。
旋律をつけると、区切りが決まる。音の高さが違えば、似た音も別のものになる。子どもに順番を覚えさせるとき、いつもこうしていた。並ぶ順番、手を洗う順番、片付ける順番。歌にすれば、覚えようとしなくても入る。
次の日、十六個のうち九個を通しで言えた。
「早いですね」
ヴィムさんが少しだけ目を上げた。
「あの、こういう覚え方でも」
「覚えていれば構いません。唱えるときは平らに言ってください。抑揚はいりませんので」
「はい」
平らに言った。
ヴィムさんが自分の腕を上げて、下ろして、また上げた。それから、手元の板に何か書きつけた。
「通っています」
「ほんとですか」
「ええ。……弱いですが」
そう言われて、なぜか私はほっとした。
強かったら、きっと困っていた。
「この数値は、上に報告します」
「上」
「私の師です。数値を集めておられるので」
それだけ言って、ヴィムさんは板をしまった。
午後は、ティアの手習いに付き合った。
この国では、五つになると文字を習いはじめる。板に蝋を引いたものに、細い棒で書く。書いて、平らな側で撫すと消える。
ティアの隣に座って、私も同じものを持った。
「みおり、それ、ちがう」
「これで合ってると思うんだけど」
「ちがう。ここ、はねる」
「はねる?」
「こう」
ティアが自分の板を見せてきた。同じ形が三つ並んでいて、三つとも違っていた。
どれが正解なのかは、二人とも分からなかった。イルゼさんを呼んだ。イルゼさんは二つ目を指した。
「殿下、こちらでございます」
「みおりのは」
「みおり様のは、ここが」
「ここが?」
「……はねておりません」
ティアが手を叩いて笑った。
自分の名前を書けるようになったのは、それから六日後だった。ナ、ナ、セ、ミ、オ、リ。六文字。この国の音に置き換えると、少し違う形になる。
書けるのは、それだけだった。ほかの字は、まだ形しか見えない。
書けた日、私はそれを紙に書いて、机の一番下に入れた。
誰かに見せるものではない。
遠征の話を聞いたのは、それから半月ほど経った日だった。
朝、ティアの部屋へ行く途中で、エルナさんに捕まった。
「ミオリ、ちょっと」
「はい」
「今日、詰所来られる? 昼過ぎ」
「あの、ティア様が」
「そこはイルゼさんに話つけた」
先に手を回されていた。
午後、詰所へ行くと、人がいた。十人くらい。前に来たときは誰もいなかったのに、今日は椅子が出ていて、みんな座っている。
入った瞬間に、全員がこっちを見た。
私は扉のところで止まった。
「あ、来た」
誰かが言った。
「その人?」
「そう。この人」
「ダール、あんた盛ってないだろうな」
「盛ってない。私が最初にかけてもらったの。あんたたち見てないだけ」
エルナさんが立ち上がって、私の腕を引いた。
引かれて、部屋の真ん中まで連れていかれた。
「みんなに一回かけて。さっきの、身体のやつ」
「え」
「大丈夫。効かなくてもいい。私は効いたから」
効かなくてもいい、という言い方が、たぶん優しさだった。優しさだと分かったので、余計に緊張した。
私は、覚えた詠唱の三つ目を唱えた。
平らに。抑揚をつけずに。喉のところが、少し温かくなった。
誰も何も言わなかった。
やっぱり駄目だったのだと思った。
「……あれ」
一人が、腕を回した。
「肩、ちょっと軽いか?」
「気のせいだろ」
「いや、そうかも」
その人は自分の肩を二回叩いて、それから、隣の人を見た。隣の人は何も感じていない顔をしていた。
「私は何もないな」
「私も」
部屋の中が、半分だけざわついた。
腕を回している人が三人。何も言わずに座り直した人が、それより多い。
「ダール、これ、弱くないか」
「弱いよ。弱いって本人も言ってる」
「じゃあ何なんだよ」
「昨日、南から戻ってきたのは誰」
腕を回していた三人が、手を上げた。
エルナさんが、それを指した。
「そういうこと」
誰も、すぐには何も言わなかった。
私は、その真ん中で立っていた。
どうしていいのか分からなくて、両手を前で組んでいた。
「あの、たぶん、疲れてるときのほうが、分かりやすいんだと」
「そりゃそうだ」
最初に腕を回した人が言った。
「疲れてないときに軽くなっても、気づかねえもんな」
言われて、私は返事に詰まった。
その通りだった。その通りなのに、私はそれを考えたことがなかった。
扉が開いた。
音が、いっぺんに引いた。
団長さんが入ってきた。外から戻ってきたところらしくて、外套が濡れていた。雨は降っていない。朝露なのだと思う。
部屋の様子を見て、それから私を見た。
「ダール」
「はい」
「何をしている」
「実演です」
「そうか」
その人は自分の机まで行って、外套を椅子に掛けた。掛けてから、こちらを向いた。
「ナナセ殿。話がある」
部屋の全員が、急に別のことを始めた。
武具を掛け直す人、椅子を戻す人、誰かの背中を押して外へ出ていく人。あっという間に、詰所には三人だけになった。エルナさんは残った。出ていけと言われなかったので、そのままいた。
「来月、南の村へ出る」
団長さんが言った。
「五日ほどの行程だ。壁の外に出る」
「はい」
「あなたを連れていけという声がある」
私は、返事をしなかった。
その人が、まだ何か言うつもりなのが分かったからだ。
「断った」
「……はい」
「理由を言う。壁の外は、人が死ぬ場所だ。私は今、この詰所で二十七人を預かっている。二十七人の位置と、退き方と、誰が誰を庇うかを頭に入れている。──そこに、庇い方の分からない人間が一人増える」
「はい」
「増えれば、そのぶん誰かが余分に振り返る。振り返った人間が死ぬ」
言い方に、迷いがなかった。
迷いがないぶん、何度も考えたのだと分かった。
「団長」
エルナさんが口を開いた。
「でも、この人がいたら」
「いたら、死者が減るかもしれん。私もそう思っている」
その人は、机の上で手を組んだ。
「思っているから、断った」
「それ、逆じゃないですか」
「逆ではない」
外の光が、詰所の床に細く入っていた。
「有用だと分かった瞬間から、私はこの人を連れ出す理由を探しはじめる。次も、その次も。──そうやって、外に出さなくていい人間を外に出すのが、私は嫌なんだ」
誰も、何も言わなかった。
私は自分の指を見ていた。詠唱の三つ目を唱えたときに組んだまま、まだ組んでいた。




