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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第3章「日没の鐘」

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第五節

動けなかった。


 手を抜けば、この人の額が机に落ちる。落ちれば起きる。起きたら、また書きはじめる。

 だから、そのままでいた。


 左手は背中に置いたまま、右手が額の下。姿勢が中途半端で、腰が痛くなってきた。膝を曲げて、少しずつ体重を移した。動かすたびに、床が鳴る気がした。


 燭台の蝋が減っていく。

 どれくらい経ったのか分からない。松明が一本、消えかけて、赤くなった。

 息の音がしていた。

 深い。さっきまでの浅いのとは違う。喉の奥から出ている。時々止まって、それからまた続く。

 扉が開いた。


「戻った。塔のやつ捕まえて──」


 エルナさんの声が、途中で切れた。


 私は振り向けなかった。首だけ動かして、目で合図した。何の合図なのか自分でも分からなかったけれど、伝わったらしい。

 その人は扉を後ろ手に閉めて、それから、抜き足で近づいてきた。


「……嘘でしょ」


 声が小さくなっていた。


「寝てる」


「はい」


「団長が」


「はい」


 エルナさんは机の横まで来て、屈んで、下から顔を覗き込んだ。それからゆっくり立ち上がって、両手で口を押さえた。

 押さえたまま、しばらく動かなかった。


「あの、腕が」


「あ、ごめん。ちょっと待って」


 二人がかりで、体を椅子の背にもたせかけた。

 重かった。エルナさんが肩を持って、私が頭を支えて、少しずつ後ろへ倒す。途中で一度、唸った。目は開かなかった。


 背もたれに預けると、首が横に落ちた。口が半分開いていた。

 私は自分の腕をさすった。痺れていた。

 エルナさんが外套を脱いで、その人の膝の上に広げた。


「ミオリ」


「はい」


「何した」


 答えられなかった。


 何もしていない。水を汲んで、紙を拾って、背中に手を置いた。それだけだ。


「歌ったんですけど」


「歌?」


「はい。あの、寝かしつけの」


 エルナさんが私を見た。じっと見て、それから、机の上の書き損じの山を見た。


「……あのさ」


「はい」


「あの人、三年寝てない」


 三年。

 言葉が、うまく入ってこなかった。


「いや、まったく寝てないわけじゃないよ。倒れるように寝るのは見たことある。でも、寝たいときに寝るってのを、私は見たことない。──三年前に色々あって、そこから」


 その先を、エルナさんは言わなかった。

 言わないと決めた顔だった。私が聞いていい話ではないのだと分かったので、聞かなかった。

 松明がもう一本、消えた。


 その人は眠っていた。


 顔の力が抜けていた。目の下の落ちくぼみはそのままなのに、眉のあいだの皺だけがなくなっていて、そのせいで別人みたいに見えた。

 私は椅子を引いて、少し離れたところに座った。


「あんた、部屋戻りな。もう遅い」


「あの、起きたときに、誰もいないと」


「……そうね」


 エルナさんも座った。

 二人で座って、しばらく何も喋らなかった。


 私は眠くなって、途中から壁に頭を預けていた。何度か落ちて、そのたびに戻った。


 窓が白くなりはじめたころ、その人が動いた。

 息が変わった。それから、指が動いた。

 目が開いた。

 開いて、天井を見て、それから机を見た。


「──済まない、遅れた」


 はっきりした声だった。


「今すぐ出る。門は」


「団長」


「隊は集まっているか」


「団長!」


「……ダール?」


 その人は、そこで止まった。

 止まって、自分の膝に外套が掛かっているのを見て、それから窓を見た。窓の外が白い。


「今は」


「夜明け前です」


「昨日の夜からか」


「はい」


 その人は、自分の手のひらを見た。それから顔に持っていって、目のあたりを一度こすった。

 こすってから、また手を見た。


「……七刻ほどか」


「七刻半です」


 エルナさんが即答した。燭台をちらりと見てから言った。

 嘘だと思った。この人は途中で寝ていた。私が起きていたときに、確かに寝ていた。

 私は黙っていた。

 その人が、私のほうを見た。

 目が合った。まだ焦点が合いきっていない。眠っている人の目に近いところに、意識が半分残っている感じの目だった。


「あなたは」


「あ、七瀬澪里です」


「知っている」


 言われて、私は口を閉じた。


「……いや、済まない。今、名前が出てこなかった」


「はい」


「そういうことがある」


 その人は、机に手をついて立ち上がろうとして、途中でやめた。やめて、もう一度座り直した。


「立てん」


「え」


「体が、動かない」


 真顔だった。

 あまりに真顔だったので、私は口の中で息が変な音を立てた。慌てて手で押さえた。押さえたけれど、間に合わなかった。


「笑ったな」


「すみません」


「いや」


 その人は、自分の膝を見ていた。


「……三年ぶりに聞いた。誰かが笑うのを、この部屋で」


 言い方が、責めていなかった。

 エルナさんが、横で鼻をすすった。すすってから、うるさいくらいの音を立てて椅子を引いた。


「団長、水」


「ああ」


 私が水差しを取ろうとしたら、エルナさんに取られた。注いで、渡して、飲むのを見ていた。

 その人は飲み終えてから、椀を置いた。


「ナナセ殿」


「はい」


「昨夜、何をした」


 来た。

 どう説明すればいいのか、考えていなかった。


「あの、背中に手を置いて、それで、歌を」


「歌」


「はい」


「どのような歌だ」


「……子どもを寝かせる歌です」


 その人は、少し黙った。


「歌詞は」


「あの、たぶん、通じないです。歌にすると、意味が伝わらないみたいで」


「意味の分からぬものが、人を眠らせるのか」


「分からないです。私も」


 園でもそうだった。ティア様にもそうだった。この人にもそうだった。

 効く、というのは私の言い方だ。理由は考えたことがない。


「疲れてたからじゃないですか」


 自分で言って、たぶんそれが正しいと思った。

 その人は、答えなかった。

 答えずに、机の上を見た。書きかけの紙。丸めた紙。積んである紙。

 それから、私を見た。


「ナナセ殿」


「はい」


「頼みが」


 そこで、言葉が止まった。

 止まってから、その人は口を閉じた。閉じて、少し息を吸って、それから首を振った。


「いや。忘れてくれ」


「あの」


「今のは、私が言うべきことではない」


 窓の外が、白から薄い青になっていた。

 どこかで鳥が鳴いた。それから、朝の鐘が鳴りはじめた。三つ鳴るうちの、一つ目。


 その人は鐘を聞いて、立ち上がった。

 今度は立てた。

ここまで澪里たちを見守ってくださってありがとうございます。

続きも一緒に見届けていただけたら、ブックマークしてもらえると嬉しいです。

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