第五節
動けなかった。
手を抜けば、この人の額が机に落ちる。落ちれば起きる。起きたら、また書きはじめる。
だから、そのままでいた。
左手は背中に置いたまま、右手が額の下。姿勢が中途半端で、腰が痛くなってきた。膝を曲げて、少しずつ体重を移した。動かすたびに、床が鳴る気がした。
燭台の蝋が減っていく。
どれくらい経ったのか分からない。松明が一本、消えかけて、赤くなった。
息の音がしていた。
深い。さっきまでの浅いのとは違う。喉の奥から出ている。時々止まって、それからまた続く。
扉が開いた。
「戻った。塔のやつ捕まえて──」
エルナさんの声が、途中で切れた。
私は振り向けなかった。首だけ動かして、目で合図した。何の合図なのか自分でも分からなかったけれど、伝わったらしい。
その人は扉を後ろ手に閉めて、それから、抜き足で近づいてきた。
「……嘘でしょ」
声が小さくなっていた。
「寝てる」
「はい」
「団長が」
「はい」
エルナさんは机の横まで来て、屈んで、下から顔を覗き込んだ。それからゆっくり立ち上がって、両手で口を押さえた。
押さえたまま、しばらく動かなかった。
「あの、腕が」
「あ、ごめん。ちょっと待って」
二人がかりで、体を椅子の背にもたせかけた。
重かった。エルナさんが肩を持って、私が頭を支えて、少しずつ後ろへ倒す。途中で一度、唸った。目は開かなかった。
背もたれに預けると、首が横に落ちた。口が半分開いていた。
私は自分の腕をさすった。痺れていた。
エルナさんが外套を脱いで、その人の膝の上に広げた。
「ミオリ」
「はい」
「何した」
答えられなかった。
何もしていない。水を汲んで、紙を拾って、背中に手を置いた。それだけだ。
「歌ったんですけど」
「歌?」
「はい。あの、寝かしつけの」
エルナさんが私を見た。じっと見て、それから、机の上の書き損じの山を見た。
「……あのさ」
「はい」
「あの人、三年寝てない」
三年。
言葉が、うまく入ってこなかった。
「いや、まったく寝てないわけじゃないよ。倒れるように寝るのは見たことある。でも、寝たいときに寝るってのを、私は見たことない。──三年前に色々あって、そこから」
その先を、エルナさんは言わなかった。
言わないと決めた顔だった。私が聞いていい話ではないのだと分かったので、聞かなかった。
松明がもう一本、消えた。
その人は眠っていた。
顔の力が抜けていた。目の下の落ちくぼみはそのままなのに、眉のあいだの皺だけがなくなっていて、そのせいで別人みたいに見えた。
私は椅子を引いて、少し離れたところに座った。
「あんた、部屋戻りな。もう遅い」
「あの、起きたときに、誰もいないと」
「……そうね」
エルナさんも座った。
二人で座って、しばらく何も喋らなかった。
私は眠くなって、途中から壁に頭を預けていた。何度か落ちて、そのたびに戻った。
窓が白くなりはじめたころ、その人が動いた。
息が変わった。それから、指が動いた。
目が開いた。
開いて、天井を見て、それから机を見た。
「──済まない、遅れた」
はっきりした声だった。
「今すぐ出る。門は」
「団長」
「隊は集まっているか」
「団長!」
「……ダール?」
その人は、そこで止まった。
止まって、自分の膝に外套が掛かっているのを見て、それから窓を見た。窓の外が白い。
「今は」
「夜明け前です」
「昨日の夜からか」
「はい」
その人は、自分の手のひらを見た。それから顔に持っていって、目のあたりを一度こすった。
こすってから、また手を見た。
「……七刻ほどか」
「七刻半です」
エルナさんが即答した。燭台をちらりと見てから言った。
嘘だと思った。この人は途中で寝ていた。私が起きていたときに、確かに寝ていた。
私は黙っていた。
その人が、私のほうを見た。
目が合った。まだ焦点が合いきっていない。眠っている人の目に近いところに、意識が半分残っている感じの目だった。
「あなたは」
「あ、七瀬澪里です」
「知っている」
言われて、私は口を閉じた。
「……いや、済まない。今、名前が出てこなかった」
「はい」
「そういうことがある」
その人は、机に手をついて立ち上がろうとして、途中でやめた。やめて、もう一度座り直した。
「立てん」
「え」
「体が、動かない」
真顔だった。
あまりに真顔だったので、私は口の中で息が変な音を立てた。慌てて手で押さえた。押さえたけれど、間に合わなかった。
「笑ったな」
「すみません」
「いや」
その人は、自分の膝を見ていた。
「……三年ぶりに聞いた。誰かが笑うのを、この部屋で」
言い方が、責めていなかった。
エルナさんが、横で鼻をすすった。すすってから、うるさいくらいの音を立てて椅子を引いた。
「団長、水」
「ああ」
私が水差しを取ろうとしたら、エルナさんに取られた。注いで、渡して、飲むのを見ていた。
その人は飲み終えてから、椀を置いた。
「ナナセ殿」
「はい」
「昨夜、何をした」
来た。
どう説明すればいいのか、考えていなかった。
「あの、背中に手を置いて、それで、歌を」
「歌」
「はい」
「どのような歌だ」
「……子どもを寝かせる歌です」
その人は、少し黙った。
「歌詞は」
「あの、たぶん、通じないです。歌にすると、意味が伝わらないみたいで」
「意味の分からぬものが、人を眠らせるのか」
「分からないです。私も」
園でもそうだった。ティア様にもそうだった。この人にもそうだった。
効く、というのは私の言い方だ。理由は考えたことがない。
「疲れてたからじゃないですか」
自分で言って、たぶんそれが正しいと思った。
その人は、答えなかった。
答えずに、机の上を見た。書きかけの紙。丸めた紙。積んである紙。
それから、私を見た。
「ナナセ殿」
「はい」
「頼みが」
そこで、言葉が止まった。
止まってから、その人は口を閉じた。閉じて、少し息を吸って、それから首を振った。
「いや。忘れてくれ」
「あの」
「今のは、私が言うべきことではない」
窓の外が、白から薄い青になっていた。
どこかで鳥が鳴いた。それから、朝の鐘が鳴りはじめた。三つ鳴るうちの、一つ目。
その人は鐘を聞いて、立ち上がった。
今度は立てた。
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