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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第3章「日没の鐘」

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第四節

「ちょっと来て」


 芋の包みを外套に突っ込んで、エルナさんが立ち上がった。


「え、あの」


「詰所。すぐそこ」


 中庭の端の、低い建物だった。

 一度だけ見たことがある。あの朝、隊が戻ってきた日に、遠くから。


 扉は開いていた。中に灯りが入っている。エルナさんが先に入って、私はその後ろで止まった。

 人がいなかった。


 長い机が二つ、向かい合わせに置いてある。椅子は端に寄せられて、机の上には何も出ていない。壁際に、木の棚。武具を掛ける金具が並んでいて、半分くらい空いている。

 空いているところに、何も掛かっていない。


「ほら、帰ってるでしょ」


 エルナさんが言った。


「言ったでしょ。日が落ちたら終わり。──で、あの人だけ帰らない」


 奥の壁の下に、机がもう一つあった。

 背中が見えた。


 肩が広い。座っているのに、椅子が小さく見える。詰所の中で唯一その一角だけ灯りが集まっていて、松明が二本と、卓上に燭台が一つあった。


「団長」


 振り返らなかった。


「団長!」


「聞こえている」


 低い声だった。

 顔を上げたその人を、私は知っていた。


 あの晩、剣を抜いた形で止まって、それから鞘に戻した人。あの朝、荷を二つだけ別の場所に置かせた人。


 近くで見ると、大きかった。

 肩から腕までが厚くて、机に置いた手が、私の倍くらいある。指の関節に古い傷が何本も走っていた。


 髪が青かった。


 黒に見えていたのは灯りのせいで、松明の下では深い青だった。短い。癖があるらしくて、右側だけ跳ねている。何日も洗っていない感じの跳ね方だった。


 瞳が赤い。


 濃い赤だ。血の色ではなく、もっと沈んだ、暗いところに置かれた赤だった。その目の下が落ちくぼんでいる。


「ダール。何だ」


「三日目ですよね」


「何がだ」


「寝てないの」


 その人は答えなかった。答えずに、手元に目を戻して、ペンを持ち直した。


「団長、聞いてます?」


「聞いている。──客人か」


 私を見た。

 見て、それから、少しだけ姿勢を直した。


「レイナルド・アッシュフォードだ。騎士団を預かっている」


「あ、七瀬澪里です」


 頭を下げた。下げてから、この国では違う気がして、中途半端に戻した。

 その人は何も言わなかった。私の喉のあたりを見ることもしなかった。それに気づいて、私は少し呼吸が楽になった。


 団長さん、と心の中で呼んだ。名前で呼べる気がしなかった。


「団長。この人、詠唱を一つも教わってません」


「……何だと」


「補助持ちですよ。四十日城にいて、誰も何も教えてない」


 ペンが止まった。

 その人は、しばらくそのまま動かなかった。それから、書いていた紙を横にずらした。


「神殿は」


「書を出してません」


「魔術師塔は」


「知りません。誰も来てないみたいですよ、この人のところに」


 沈黙が長かった。

 私は、机の上を見ていた。


 紙が積んである。書き終わったのが右に、白いのが左に。真ん中に、丸めた紙がいくつも転がっていた。転がりきらずに床に落ちているのもある。


 どれにも文字が並んでいる。文字は読めない。

 数なら、数えられる。

 十一。


「明日、私が手配する」


 その人が言った。


「明日って、また明日ですか」


「今日は無理だ。塔の連中はもう戻っている」


「じゃあ団長が教えれば」


「私は補助を持っていない」


「あ」


 エルナさんが黙った。

 その人は、また紙を引き寄せた。ペンを持って、書きはじめて、三行目くらいで止まった。

 止まって、その紙を丸めた。


 十二。


「団長」


「後にしろ」


「何通あるんですか」


「六だ」


 六。


 去年、うちの隊で六人。エルナさんはそう言っていた。今年の話なのか、去年の話なのかは分からない。分からないけれど、六という数字が、私の中で二回目だった。


「一通に、どのくらいかかるんですか」


 聞いてしまってから、失礼だったかと思った。

 その人は顔を上げなかった。


「同じ文面では出せない」


 それだけだった。

 私は、机の端のほうを見た。水差しがあった。中身は空だった。木の椀が伏せてある。使った形跡がない。


「あの」


「何だ」


「お水、汲んできてもいいですか」


 その人が顔を上げた。

 初めて、まともに目が合った。

 私は自分の言ったことが変だったかと思って、続けた。


「あの、書くとき、喉が渇くので。私も、その、書きものの仕事があって、そのときいつも」


 連絡帳、と言いかけて、やめた。どうせ通じない。もう分かる。

 その人は聞き返さなかった。エルナさんも何も言わなかった。


「……ああ」


 それだけ言われたので、私は水差しを持って外に出た。

 井戸は中庭の真ん中にあった。汲むのに少し手間取った。釣瓶の紐が思ったより重くて、二回引き上げ直した。戻ってくると、エルナさんが扉のところで待っていた。


「私、隊舎行ってくる。塔に明日の話つけてくるから、あんた──」


「あ、はい」


「そこ座ってな。あの人、人がいると少しは休むから」


 言い置いて、行ってしまった。

 私は水を注いで、椀を机の端に置いた。


「どうぞ」


「すまない」


 その人は椀を取って、飲んだ。一息で飲んだ。私は水差しから注ぎ足した。それも飲んだ。

 二杯目のあと、ペンを取るまでに少し間があった。

 私は、少し離れた椅子に座った。


 することがなかった。手が空くと落ち着かないので、床に落ちていた丸めた紙を拾って、机の下の籠に入れた。全部で四つ。それが済むと、また何もなくなった。


 その人は書いていた。

 書いて、止まって、また書く。止まる場所が毎回同じだった。書き出しから少し進んだところで、ペンが浮く。浮いたまま、しばらく動かない。


 名前を書いているのだと思った。

 三日眠っていない人の背中を、私は後ろから見ていた。

 肩が上がっている。息が浅い。ペンを持っている手の甲に、筋が立っていた。

 襟の後ろが少し開いていて、首の付け根が見えた。


 そこに、濃い色の痣があった。

 人のアザを見るのは、エルナさんに続いて二人目だった。


 園で、こういう背中を見たことがある。年度末の、書類の時期の主任だった。


 私は椅子から立って、机の横まで行った。

 行って、何をするつもりだったのかは、自分でも分からない。

 その人の背中の、肩甲骨の少し下あたりに、手のひらを置いた。

 服の上からだった。厚い。分厚い上着の下に、もっと厚いものが入っている。

 叩かなかった。ただ、置いた。


 喉のところが、じんと熱くなった。


「つみきさん、おやすみ」


 声は出さなかった。口の中だった。

 つみきさん、おやすみ。くるまさん、おやすみ。

 この部屋に積み木はない。車もない。呼ぶものがないので、いつもの順番のまま呼んだ。


 ペンが、紙の上で止まった。


 私は歌うのをやめなかった。ひとつずつ、順番に名前を呼んで、そのたびに手のひらを少しだけ動かした。とん、と一度。それから、また止める。


 うさぎさん、おやすみ。


 その人の肩が、下がった。

 息が、深くなった。


 二番の途中で、ペンが指から落ちた。転がって、机の端で止まった。

 頭が、少しずつ前に傾いた。

 止まらなかった。額が紙の束につく直前で、私は反対の手を出して、その下に入れた。

 重い。


 子どもの頭とは、比べものにならない重さだった。


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