第四節
「ちょっと来て」
芋の包みを外套に突っ込んで、エルナさんが立ち上がった。
「え、あの」
「詰所。すぐそこ」
中庭の端の、低い建物だった。
一度だけ見たことがある。あの朝、隊が戻ってきた日に、遠くから。
扉は開いていた。中に灯りが入っている。エルナさんが先に入って、私はその後ろで止まった。
人がいなかった。
長い机が二つ、向かい合わせに置いてある。椅子は端に寄せられて、机の上には何も出ていない。壁際に、木の棚。武具を掛ける金具が並んでいて、半分くらい空いている。
空いているところに、何も掛かっていない。
「ほら、帰ってるでしょ」
エルナさんが言った。
「言ったでしょ。日が落ちたら終わり。──で、あの人だけ帰らない」
奥の壁の下に、机がもう一つあった。
背中が見えた。
肩が広い。座っているのに、椅子が小さく見える。詰所の中で唯一その一角だけ灯りが集まっていて、松明が二本と、卓上に燭台が一つあった。
「団長」
振り返らなかった。
「団長!」
「聞こえている」
低い声だった。
顔を上げたその人を、私は知っていた。
あの晩、剣を抜いた形で止まって、それから鞘に戻した人。あの朝、荷を二つだけ別の場所に置かせた人。
近くで見ると、大きかった。
肩から腕までが厚くて、机に置いた手が、私の倍くらいある。指の関節に古い傷が何本も走っていた。
髪が青かった。
黒に見えていたのは灯りのせいで、松明の下では深い青だった。短い。癖があるらしくて、右側だけ跳ねている。何日も洗っていない感じの跳ね方だった。
瞳が赤い。
濃い赤だ。血の色ではなく、もっと沈んだ、暗いところに置かれた赤だった。その目の下が落ちくぼんでいる。
「ダール。何だ」
「三日目ですよね」
「何がだ」
「寝てないの」
その人は答えなかった。答えずに、手元に目を戻して、ペンを持ち直した。
「団長、聞いてます?」
「聞いている。──客人か」
私を見た。
見て、それから、少しだけ姿勢を直した。
「レイナルド・アッシュフォードだ。騎士団を預かっている」
「あ、七瀬澪里です」
頭を下げた。下げてから、この国では違う気がして、中途半端に戻した。
その人は何も言わなかった。私の喉のあたりを見ることもしなかった。それに気づいて、私は少し呼吸が楽になった。
団長さん、と心の中で呼んだ。名前で呼べる気がしなかった。
「団長。この人、詠唱を一つも教わってません」
「……何だと」
「補助持ちですよ。四十日城にいて、誰も何も教えてない」
ペンが止まった。
その人は、しばらくそのまま動かなかった。それから、書いていた紙を横にずらした。
「神殿は」
「書を出してません」
「魔術師塔は」
「知りません。誰も来てないみたいですよ、この人のところに」
沈黙が長かった。
私は、机の上を見ていた。
紙が積んである。書き終わったのが右に、白いのが左に。真ん中に、丸めた紙がいくつも転がっていた。転がりきらずに床に落ちているのもある。
どれにも文字が並んでいる。文字は読めない。
数なら、数えられる。
十一。
「明日、私が手配する」
その人が言った。
「明日って、また明日ですか」
「今日は無理だ。塔の連中はもう戻っている」
「じゃあ団長が教えれば」
「私は補助を持っていない」
「あ」
エルナさんが黙った。
その人は、また紙を引き寄せた。ペンを持って、書きはじめて、三行目くらいで止まった。
止まって、その紙を丸めた。
十二。
「団長」
「後にしろ」
「何通あるんですか」
「六だ」
六。
去年、うちの隊で六人。エルナさんはそう言っていた。今年の話なのか、去年の話なのかは分からない。分からないけれど、六という数字が、私の中で二回目だった。
「一通に、どのくらいかかるんですか」
聞いてしまってから、失礼だったかと思った。
その人は顔を上げなかった。
「同じ文面では出せない」
それだけだった。
私は、机の端のほうを見た。水差しがあった。中身は空だった。木の椀が伏せてある。使った形跡がない。
「あの」
「何だ」
「お水、汲んできてもいいですか」
その人が顔を上げた。
初めて、まともに目が合った。
私は自分の言ったことが変だったかと思って、続けた。
「あの、書くとき、喉が渇くので。私も、その、書きものの仕事があって、そのときいつも」
連絡帳、と言いかけて、やめた。どうせ通じない。もう分かる。
その人は聞き返さなかった。エルナさんも何も言わなかった。
「……ああ」
それだけ言われたので、私は水差しを持って外に出た。
井戸は中庭の真ん中にあった。汲むのに少し手間取った。釣瓶の紐が思ったより重くて、二回引き上げ直した。戻ってくると、エルナさんが扉のところで待っていた。
「私、隊舎行ってくる。塔に明日の話つけてくるから、あんた──」
「あ、はい」
「そこ座ってな。あの人、人がいると少しは休むから」
言い置いて、行ってしまった。
私は水を注いで、椀を机の端に置いた。
「どうぞ」
「すまない」
その人は椀を取って、飲んだ。一息で飲んだ。私は水差しから注ぎ足した。それも飲んだ。
二杯目のあと、ペンを取るまでに少し間があった。
私は、少し離れた椅子に座った。
することがなかった。手が空くと落ち着かないので、床に落ちていた丸めた紙を拾って、机の下の籠に入れた。全部で四つ。それが済むと、また何もなくなった。
その人は書いていた。
書いて、止まって、また書く。止まる場所が毎回同じだった。書き出しから少し進んだところで、ペンが浮く。浮いたまま、しばらく動かない。
名前を書いているのだと思った。
三日眠っていない人の背中を、私は後ろから見ていた。
肩が上がっている。息が浅い。ペンを持っている手の甲に、筋が立っていた。
襟の後ろが少し開いていて、首の付け根が見えた。
そこに、濃い色の痣があった。
人のアザを見るのは、エルナさんに続いて二人目だった。
園で、こういう背中を見たことがある。年度末の、書類の時期の主任だった。
私は椅子から立って、机の横まで行った。
行って、何をするつもりだったのかは、自分でも分からない。
その人の背中の、肩甲骨の少し下あたりに、手のひらを置いた。
服の上からだった。厚い。分厚い上着の下に、もっと厚いものが入っている。
叩かなかった。ただ、置いた。
喉のところが、じんと熱くなった。
「つみきさん、おやすみ」
声は出さなかった。口の中だった。
つみきさん、おやすみ。くるまさん、おやすみ。
この部屋に積み木はない。車もない。呼ぶものがないので、いつもの順番のまま呼んだ。
ペンが、紙の上で止まった。
私は歌うのをやめなかった。ひとつずつ、順番に名前を呼んで、そのたびに手のひらを少しだけ動かした。とん、と一度。それから、また止める。
うさぎさん、おやすみ。
その人の肩が、下がった。
息が、深くなった。
二番の途中で、ペンが指から落ちた。転がって、机の端で止まった。
頭が、少しずつ前に傾いた。
止まらなかった。額が紙の束につく直前で、私は反対の手を出して、その下に入れた。
重い。
子どもの頭とは、比べものにならない重さだった。




