第三節
日が傾きはじめると、街が畳まれていった。
布の店が、生地を巻いた。野菜の台から籠が下ろされる。金属を叩く音が、いつのまにか止んでいた。
誰も急いでいない。
急いでいないのに、進んでいた。どの店も、同じくらいの速さで小さくなっていく。
「戻るよ」
エルナさんが言った。
来た道を戻った。行きに人がいたところに、まだ人がいる。石段に座って喋っている人たちは、たぶん、さっきからずっとそこにいる。
「あの、聞いていいですか」
「うん」
「みんな、何時まで働くんですか」
「なんじ」
その人が繰り返した。伝わらなかったのだと思った。
「あの、いつまで」
「日が落ちるまで」
「それは、決まってるんですか」
「決まってる」
あっさりしていた。
「決まってるっていうか、暗くなったら見えないでしょ。灯りは要るし、油は高い。それに──」
エルナさんが顎で門のほうを示した。
「門が閉まる。閉まったら、外に出た人は帰れない」
「はい」
「壁の外にいたら死ぬから。だから、日が落ちる前に全員内側に入る。そのために、日が落ちる前に仕事を終える。全部そこから逆算してる」
私は、少しのあいだ考えた。
「じゃあ、危ないから、早く終わるんですか」
「そう」
その言い方が、しばらく頭の中に残った。
城の門が見えてきたところで、鐘が鳴った。
長く、二回。
音が高いところから来て、屋根の上を渡っていった。
街の音が、いっせいに減った。
荷車が止まった。桶を持っていた人が、桶を置いた。井戸のところで水を汲んでいた人が、汲むのをやめて、そのまま釣瓶を戻した。半分しか汲んでいなかった。
誰かが誰かに、また明日、と言った。
その言葉を、私は前にも聞いた。ここに来た日に、廊下で。
「あれ、何の鐘ですか」
「日没の鐘。あれで終わり」
「終わり」
「うん。──門番も交代するし、市も閉める。詰所の連中も飯食って帰る」
「騎士の人も、ですか」
「帰るよ。当直以外は」
気づいたら、足が止まっていた。
エルナさんが二歩先で振り返った。
「なに」
「あの、遠征とか、そういうときは」
「そりゃ遠征中は別。外にいるんだから帰れない。でも城にいる日は帰る。飯食って、寝る」
「毎日ですか」
「毎日」
「……その、書類とか、報告とか」
「明日やる」
言い切られた。
「でも、今日の分が」
「明日やる」
同じ言葉が返ってきた。
その人は、少し変な顔をした。何を言われているのか分からない、という顔だった。私がイルゼさんに言われたのと、たぶん同じことだった。あのときは、顔も変わらなかったけれど。
「ミオリ」
「はい」
「あんた、夜なべしてるでしょ」
返事ができなかった。
「イルゼさんが言ってた」
「……あの」
「言いつけたんじゃないよ。心配してた。あの人、そういう言い方しないから伝わらなかったかもしれないけど」
城門を抜けた。
中に入ると、音がまた減った。石畳が広くて、人がまばらで、匂いがない。
エルナさんは中庭のほうへ歩いていって、低い塀のところで座った。座って、外套の中から布包みを出した。
芋だった。冷めていた。
二つあった。
「はい」
「あ、ありがとうございます」
塀に並んで座って、皮を剥いた。皮に灰がついていて、指が黒くなった。
冷めていても甘かった。中がほくほくして、少しぱさついていて、飲み込むのに水が欲しくなる。
「水は?」
「え」
「あるよ。ほら」
革の水筒を渡された。飲んだ。ぬるかった。
「ミオリ」
「はい」
「あんた、働きすぎでしょ」
芋を持ったまま、私は止まった。
「別に怒ってない。ただ、意味が分かんないなと思って。あんた、殿下のお守りでしょ。日が落ちたら殿下は寝るんだから、あんたの仕事もそこで終わりじゃん」
「明日の準備が」
「明日の朝やれば」
「朝は、その、ティア様が起きるので」
「じゃあ準備しなきゃいい」
「準備しないと」
「しないとどうなるの」
答えられなかった。
しないと何が起きるのか、考えたことがなかった。しないという選択肢を、たぶん、一度も持ったことがない。
エルナさんが芋を齧った。大きく齧って、口をいっぱいにして、喋った。
「うちの隊、去年六人死んでる」
急に話が飛んだと思った。
「はい」
「そのうち二人は、たぶん、疲れてた。私はそう思ってる。誰もそうは言わないけど。──三日連続で出て、そのあと巡回入って、それで夜に呼ばれて」
飲み込んで、また齧った。
「疲れてるやつから死ぬ。ほんとに。剣が下手だから死ぬんじゃなくて、疲れてるから避けられない」
「はい」
「だから帰る。休むために休むんじゃない。明日死なないために休む。──あんたは死なないかもしれないけどさ、疲れてる人間が子ども見てて、いいことある?」
ない。
園でも、そうだった。
目を離した事故は、たいてい、忙しい日に起きる。私はそれを知っている。知っているのに、忙しさを減らそうとしたことがない。
「……ないです」
「でしょ」
その人は、それ以上言わなかった。
芋を食べ終えて、指を服で拭いて、水筒を振って、残りを飲んだ。
「あ、そうだ」
「はい」
「あんた、詠唱は?」
言葉の意味が、一拍遅れて届いた。
「えいしょう」
「うん。補助の。何個覚えた?」
「あの、それって」
エルナさんが、こっちを向いた。
こっちを向いて、しばらく私の顔を見て、それから、水筒の蓋を閉めるのを途中でやめた。
「……もしかして」
「はい」
「誰も、教えてない?」
私は首を振った。
その人は、少しのあいだ何も言わなかった。
塀の向こうで、当直の人が松明に火を入れていた。火が一つずつ増えていく。門のほうで、重たいものが動く音がした。
「ふざけんな」
小さい声だった。
私にではないのは、分かった。




