第二節
門は、思っていたより静かに開いた。
開いたというより、片側がもともと開いていた。人が普通に出入りしている。荷車が二台、順番待ちをしていた。
エルナさんが門番に何か紙を見せた。門番が私を見て、それからエルナさんを見た。
「連れ?」
「うん。責任は私。名前はミオリ」
「戻りは」
「日暮れまで」
それだけだった。
私は身構えていた。止められるか、聞かれるか、少なくとも何か手続きがあると思っていた。門番は私の喉のあたりを一度見て、それから、次の荷車に手を上げた。
通った。
外側の門をくぐると、匂いが変わった。
パンだ。焼いているパンの匂いが、まず来る。それから煙。獣。何かが腐っているような、酸っぱいの。全部が一度に来て、混ざって、混ざったまま鼻の奥に残った。
城の中には、匂いがなかったのだと思った。
「うるさいでしょ」
エルナさんが言った。
うるさかった。
人が喋っている。荷車の車輪が石畳で跳ねる。どこかで金属を叩いている。犬。鶏。それから、子どもの声がいくつも重なって、どこから聞こえているのか分からない。
道の両側に、店が並んでいた。板を渡しただけの台に、野菜が積んである。布。革の紐。籠。壺。看板が出ているけれど、私には読めない。読めないので、代わりに、店の人の手元を見た。
布の店の人が、客の肩に生地を当てていた。当てて、少し引いて、また当てる。
「どれ買うか、ずっと決まらないでしょ、あの人」
「見てて分かるんですか」
「うちの母親。日が傾くまで動かない」
その人は歩きながら、屋台で何か買った。
二つ。ひとつを私に押しつけてきた。熱かった。
「え、あの」
「食べて。金はいい。持ってないでしょ、あんた」
葉っぱで包んであった。開けると、湯気が出た。
薄いパンの生地に、肉と、刻んだ何かを挟んで焼いたものだった。齧った瞬間に脂が出て、口の中が熱くなって、慌てて息を吸った。
「熱っ」
「熱い」
「はい」
辛かった。塩と、それから、何か香りの強い草の味がした。城の食事より、ずっと味が濃い。
二口目を食べた。
「おいしい」
言ってから、自分の声が思ったより大きかったことに気づいた。
エルナさんが横で笑った。
「そこ、いつも並んでるから当たり。──あんた、初めてまともな顔したね」
私は口をもぐもぐさせたまま、返事ができなかった。
道が広くなって、広場に出た。
石を敷いた四角い場所で、真ん中に井戸がある。井戸の周りに石段があって、そこに人が座っていた。座って喋っている。日が高い。ちょうど昼を過ぎたころだった。
子どもがいた。
数えた。十四人。三つくらいから、七つか八つまで。走り回っているのが六人、井戸の縁で何かしているのが四人、あとは座っている。
大人が、二人。
十四人に、二人。園なら、とても足りない。
足りないのに、足りて見えた。
「あれ、預かり場」
エルナさんが言った。
「あずかり」
「うん。区画ごとにある。この区画は、あの二人が今日の当番」
「今日の」
「毎日替わる。手が空いてる人がやる。──あ、あそこの、青いの着てる人。あの人パン焼く人だから、朝は出られない。だから昼から。隣のばあさんは、ずっとここにいる。歩けるうちはやるって」
私は、二人の大人を見ていた。
一人が、転んだ子を抱き起こしていた。膝を見て、はたいて、それで終わりだった。子どもは走っていった。
もう一人は、座ったまま何もしていなかった。膝の上に赤ん坊がいた。
「あの、お母さんは」
「働いてる」
「ずっと、ですか」
「ずっとじゃない。日が落ちたら終わり。仕事によっては、もっと早い。──あ、ほら、あの人。あれ、たぶん織物のとこの。あそこ、糸が乾くまで進まないから、昼で上がる日がある」
広場の向こうから、女の人が歩いてきた。
歩いていた。
子どもが一人、その人に気づいて、駆けていった。女の人はしゃがんで、両手を広げて、受け止めて、そのまま少し揺らした。それから立ち上がって、当番の人に何か言った。当番の人が笑って、手を振った。
二人で帰っていった。
歩いていた。
私は、次の人を待った。
しばらくして、また一人来た。今度は男の人だった。その人も、歩いていた。
誰も走っていなかった。
髪を直す人がいなかった。息を整えてから入ってくる人がいなかった。すみません、と最初に言う人が、一人もいなかった。
「ミオリ?」
エルナさんが顔を覗き込んできた。
「どしたの。食べないの、それ」
手の中のものが、冷めかけていた。
「食べます」
「食べな」
私は齧った。齧って、飲み込んで、それから、うまく言えないまま口を開いた。
「あの」
「うん」
「みんな、ちゃんと、時間に」
「時間に?」
「……いえ」
言い直そうとして、言い直せなかった。
私が言いたかったことは、たぶん、質問ですらなかった。
井戸のところで、赤ん坊が泣きはじめた。
膝に乗せていた当番の人が、抱き直して、立ち上がって、歩きながら揺すった。それから、歌いはじめた。
低い声だった。あまり上手ではなかった。
言葉は、分からなかった。
この世界に来てから、分からない言葉はほとんどなかった。歌だけが違う。歌になったとたん、意味が落ちる。理由は知らない。
一つも分からなかったのに、それが何の歌なのかは、分かってしまった。
繰り返しが多くて、音の幅が狭くて、終わりに向かってゆっくり下がる。世界が違っても、同じ形をしている。子どもを寝かせるための歌は、たぶん、どこでもこの形になる。
赤ん坊の泣き声が、途切れ途切れになった。
「ばあさん、あれ下手なんだよね」
エルナさんが小声で言った。
「毎日聞いてるけど、いっつも同じところで音を外す。もう二十年やってるらしいのに」
「……はい」
「泣き止むからいいらしいけど」
「はい」
私は、自分の返事が二回とも同じだったことに気づいた。
気づいたけれど、他に何も出てこなかった。
子どもが一人、こっちへ走ってきた。四つくらい。私の前で急に止まって、見上げて、それから私の袖を掴んだ。
私の袖は、さっきの油で汚れていた。
その子は袖を掴んだまま、何か言った。早口で、舌が回っていなくて、半分も音になっていなかった。
「なに?」
「もういっかい、って言ってる」
エルナさんが言った。
「分かるんですか」
「この子いつもそれ。何やっても、もういっかい」
「もう一回」
「あんたが今、その子の後ろで何かしたでしょ」
何もしていない。
していないつもりだった。ただ、走ってきた子が止まったときに、体が勝手に前に出ていた。転ぶと思ったのだと思う。手が、その子の肩の高さで止まっていた。
「してないです」
「じゃあ何だろ。まあいいや。──ごめんね、この人これから行くとこあるから」
その子は袖を離さなかった。
離さないまま、私の手を引いて、井戸のほうへ歩き出そうとした。力が強い。指はまだうまく動かないのに、腕だけは強い。子どもはいつもそうだ。
私は、引かれるままに三歩だけ歩いた。




