第五節
城には作法があった。
誰も教えてくれないので、私は毎日どれかを間違えた。
十日目に、廊下で偉い人とすれ違って、頭を下げるのが早すぎた。相手がまだ十歩も先にいるうちに下げてしまって、そのまま通り過ぎるまで下げ続けることになった。首が痛かった。
十二日目に、食べかけの皿を下げられた。
この国では、スプーンの置き方で給仕に伝えるらしい。柄を手前に揃えて置けば、まだ食べる。皿の上に斜めに渡すと、もういらない。
私は斜めに置いていた。置いた自覚もなかった。
下げられてから、そういうことかと分かった。分かっても、次から気をつけようがない。自分の手がどう動いているかを、私は見ていない。
食事も、だんだん分かってきた。
朝は固いパンと、豆と、水で割った葡萄酒。子どもには出ない。昼は野菜の煮たのが多い。夜に肉が出る。城の飯は塩気が強くて、最初の何日かは辛かったのに、いつのまにか平気になった。
運んでくれた人に、ありがとうございます、と言ってしまう癖が抜けない。最初のころ、言われた人が動きを止めた。今は止まらない。止まらないだけで、たぶん、正しくはない。
ティアは白い豆が嫌いだった。
皿の端に寄せて、そこだけ地層みたいに積み上げる。私は何も言わない。言わないでいると、三粒くらいは食べる。三粒食べたら、それでいい。
私が好きになったのは、汁物に入っている黄色い根菜だった。かぶに似ていて、甘い。名前を聞いたら、イルゼさんが教えてくれたけれど、二回聞いても覚えられなかった。
「みおり、それすき」
「うん、好き」
「わたし、きらい」
「そっか」
「みおりの、たべていい」
私の皿から取っていった。嫌いなのに。
十四日目に、ティアに直された。
「みおり」
「はい」
「それ、ちがう」
私はスプーンを持っていた。持ち方が違うらしい。ティアが自分のを持ち上げて、見せてくる。人差し指の位置が違った。
「こう」
「こう?」
「ちがう。こう」
「こう」
「……ちがう」
三回やって、直らなかった。ティアが立ち上がって、私の手まで来て、指を一本ずつ動かした。五歳の指は小さくて、力がなくて、なかなか思った位置に動かせない。
「うごかない」
「ごめん」
「みおりのゆび、おおきい」
結局、ティアが自分の手を私の手の上に重ねて、一緒に持ち上げた。スープが半分こぼれた。
「あ」
二人でこぼした。
私が布を取りに立とうとしたら、ティアが先に自分の袖でテーブルを拭こうとして、袖まで濡れた。止める間がなかった。
「ティア様」
「ふいた」
「ふいたね」
「ふいたのに、ぬれた」
真顔だった。
あまりに真顔だったので、私は笑ってしまった。
声が出た。
自分でも驚いた。ここに来てから、笑ったことがなかった。笑わないようにしていたわけではなくて、笑うようなことが起きていなかった。
ティアが私を見た。見て、それから自分も笑った。何がおかしいのか分かっていない笑い方だった。
「みおり、わらった」
「うん」
「もっかい」
「もう一回は、無理かな」
「もっかい」
ティアが袖を持ち上げて、また拭いた。今度はわざとだった。濡れた袖でテーブルを撫でて、こっちを見る。
「ふいた」
私はまた笑った。
二回目のほうが大きかった。
扉のところにイルゼさんが立っていた。布を持っていた。たぶん、こぼした音を聞いて来たのだと思う。
イルゼさんは、テーブルまで来なかった。
布を持ったまま、扉のところに立って、私たちを見ていた。私が気づいて顔を上げると、それから歩いてきて、何も言わずにテーブルを拭いた。
「お召し替えを」
「はい。あの、すみません」
「殿下の袖は、毎日濡れます」
「そうなんですか」
「今日は、みおり様の袖も濡れております」
見ると、濡れていた。いつ濡れたのか分からなかった。
イルゼさんは布を絞って、ティアの手を取って、部屋を出ていった。
出ていくときに、一度だけこっちを見た。
その顔を、私は前にも見たことがある気がした。何を言っているのかは、やっぱり分からない。
テーブルの上に、スプーンが二本残っていた。
私は自分のを持ち上げて、ティアがやった通りに指を置いてみた。人差し指を、少し前へ。
持ちにくかった。
持ちにくいけど、何度か練習した。




