第九話 八月の青空と重いニュース
昭和六十年八月十二日。
岐阜の山あいを包む空は、憎らしいほどに澄み渡り、どこまでも高く青く晴れ渡っていた。
あまりの強烈な陽光に、町を取り囲む城山の深い緑は白く霞み、見上げれば巨大な白銀の入道雲が、まるで巨大な彫刻のように動かず夏空の頂に聳え立っていた。
古い瓦屋根が連なる路地を歩けば、打ち水がすぐに干上がるアスファルトの強い照り返しで目が眩み、どこからともなく聞こえるツクツクボウシとアブラゼミの合唱が、夏の盛りの深まりと、どこかすでに過ぎ去りつつある季節の切なさを告げていた。
武田家の居間には、その日も三年B組の六人が集まっていた。
網戸越しに入ってくるぬるい夏風の中、広げられた低いローテーブルの上には、佳代が井戸水でキンキンに冷やした大きな丸ごとのスイカがどんと置かれていた。
佳代が大きな包丁を入れた。
ザクッという心地よい手応えのある音と共に、真っ赤な果肉から甘く青臭い香りが居間全体に広がった。
「うわあ! 赤くておいしそうっす! 佳代さん、一番でかいの頂くっす!」
浩二が真っ先に大きな三角形に切り分けられたスイカに手を伸ばし、大きな口でかぶりついた。
口の端から甘い果汁が溢れる。
「浩二、種飛ばすなよ! 俺の麦茶に入るだろ!」
健太が自分の冷えたグラスを庇いながら大声で笑う。
「飛ばさないっすよ! 俺は種まで全部食べる派っすから!」
「そのうちお腹の中でスイカの芽が出て、頭から葉っぱが生えてくるよ」
由香がアディダスのジャージの袖を膝まで捲り上げ、ポカリスエットの缶をトントンと畳に叩きつけながらガハハと大声を上げて笑った。
真理と美奈子は、すり減った畳の上に膝を揃えて座り、懐紙を使って上品にスイカを口に運んでいた。
達也は居間の隅、本棚の横で座椅子に深々と背を預け、横積みにされた文庫本をパラパラとめくりながら冷えた麦茶を飲んでいた。
繁治は、鴨居の柱に背を預け、胸ポケットからハイライトを取り出してライターの火をつけた。
紫煙がゆるやかに天井へ漂っていく。
退屈で、けれど完璧な夏休みの午後の風景だった。
彼らの無邪気な笑顔はどこまでも眩しかった。
穏やかで愛おしい時間がこれからもずっと続いていくのだと、誰もが信じていた。
異変が起きたのは、夕刻の六時二十分を回った頃だった。
居間の隅に置かれた大きなブラウン管テレビでは、大相撲の熱戦か夕方のローカルニュース番組が静かに流れていた。
突然、番組の途中で画面が音もなく切り替わり、ピコン、ピコンという甲高い、耳を刺すような緊張感のある警報音が居間に響き渡った。
画面の上部に、黒枠で囲まれた白い太文字の速報テロップが打たれた。
『ニュース速報 羽田発大阪行き日本航空123便、群馬県上空付近でレーダーより消失』
「・・え?」
スイカの種を口の端から吐き出そうとしていた健太の手が、ぴたりと空中で止まった。
居間に満ちていた賑やかな笑い声と軽口が、潮が引き破られるように一瞬で途絶えた。
テレビ画面の中では、普段は落ち着いた口調でニュースを伝えるはずのアナウンサーが、硬い表情で原稿の手元を震わせ、掠れた声で速報を読み上げていた。
「ただいま入った情報によりますと、乗客乗員五百二十四人を乗せた日本航空一二三便が、レーダーから消息を絶ちました。レーダー消滅地点は、群馬・長野県境の山中と見られ、現在海上保安庁および自衛隊が確認に向かっています・・」
「五百・・二十四人?」
浩二の丸太のような大きな手が、持っていたスイカを握りしめたまま固まっていた。
果汁がポタポタと畳の上に落ちるのにも気づかない。
美奈子は膝の上に開いていたコバルト文庫をパラリと落とし、息を呑んで画面を見つめた。
真理は、何も言わずに、隣に座っていた健太の半袖シャツの袖口を、ぎゅっと強く握りしめた。
その指先が白くなり、微かに震えているのを、健太は腕の皮膚から感じていた。
繁治は、煙草を口にくわえたまま、教壇で見せることのない厳しい鋭い眼差しでテレビ画面を凝視した。
指先に挟んだハイライトの灰が、ポロリと膝の上に落ちたが、手で払おうともしなかった。
夜がふけても、テレビの特別報道番組は終わりを見せなかった。
夜の九時、十時を過ぎても、居間の蛍光灯の下、六人の生徒たちと繁治、そして佳代は、誰一人として家に帰ろうとはせず、黙ったままブラウン管テレビの青白い光を見つめ続けていた。
画面に映し出されるのは、漆黒の闇に包まれた御巣鷹の山々のシルエット。
救援ヘリコプターの重いプロペラ音がスピーカーから重低音となって響き、画面の下を次々とスクロールしていく乗客たちの名簿。
そこには、自分たちと同じように、夏休みのお盆休みに故郷の家族のもとへ帰ろうとしていた幼い子供や、仕事帰りの父親たちの名前が白い文字で並んでいた。
「さっきまで・・」
美奈子の低く震える声が、静まり返った居間に落ちた。
「さっきまで、私たちと同じように普通に笑って、飛行機に乗ってた人たちだよね・・」
誰も答えることができなかった。
ほんの数時間前まで、自分たちがスイカを食べながらくだらない雑談で大笑いしていたのと同じ時間に、遠くの暗い空と山の中で、一瞬にして五百人以上の尊い命と日常が途絶えていた。
死や理不尽な悲劇は、遠い教科書や歴史の中だけの出来事ではない。
どんなに空が青く晴れ渡っていても、どんなに無邪気に笑っていても、当たり前の日常はある日突然、前触れもなく奪われてしまうことがある。
その恐ろしいまでの脆さと残酷さが、昭和六十年八月の湿った熱気の中に、重い鉄塊のように横たわっていた。
達也は、膝の上に置いた一眼レフの合皮ケースを、指の関節が白くなるほど固く握りしめていた。
「写真だけは、嘘をつかない」と言っていた自分の言葉の裏で、ファインダーに映るこの愛おしい日常の一瞬すら、明日には消えてしまうかもしれないという現実に、胸を詰まらせていた。
佳代は台所の柱に寄りかかり、両手を胸の前で固く組みながら、テレビに向かって静かに祈るように目をつむっていた。
その頬を、一筋の涙が静かに伝っていた。
繁治はそっと席を立ち、台所の佳代の隣に立った。
「・・佳代」
「繁治さん・・恐ろしいわね。あんなに晴れてたのに・・あの子たちの未来も、こんなふうに突然・・」
「よしなさい、佳代」
繁治は静かだが力強い声で言った。
「俺たち大人にできるのは、今を生きているあいつらを、しっかりとこの目で見つめ続けることだけだ」
夜が明け、八月十三日の朝日が茜ヶ丘の古い街並みを照らし始めた。
雲ひとつない、どこまでも透明で澄み渡った青空だった。
あまりにも美しく、そしてあまりにも無慈悲な青空だった。
繁治と六人の生徒たちは、吸い寄せられるように家を出て、茜川橋のたもとへと歩いた。
早朝の冷たい川風が、水面の清涼な匂いを運んでくる。
茜川の豊かな流れは、昨日の夜の巨大な悲劇など知る由もないかのように、いつもと変わらない豊かな音を立てて絶え間なく流れていた。
木造の茜川橋の欄干に、六人が横一列に並んだ。
誰も口を開かなかった。
だが、互いの肩が触れ合うほどの距離に立ち、川面を見つめる彼らの横顔には、昨日までの幼い無邪気さは影を潜め、どこか引き締まった大人の表情が宿っていた。
自分たちの高校生活も、この夏休みも、そして「みんなで茜川橋に集まる時間」も、永遠には続かない。
卒業すれば、健太も、真理も、達也も、浩二も、美奈子も、由香も、それぞれの道を選び、この橋のたもとから離れていく。
そして、人生のどこかで、抗えない大きな運命の波に呑み込まれる日があるのかもしれない。
だからこそ・・。
今、こうして同じ空の下で息をし、同じ川の音を聞いている。
隣に仲間たちが立って同じ川を見ている。
この事実が、涙が出るほどに尊く、奇跡的なことかもしれない、と彼らは悟っていた。
健太が、掠れた声でポツリと言った。
「・・俺たち、ずっと忘れないよな。今日の空も、みんなのことも」
誰も返事をしなかった。
真理が小さく深く頷き、達也がそっと由香の隣に一歩寄り添い、浩二が美奈子の横で大きな拳を固く握りしめた。
繁治は、橋のたもとの柳の影で、静かにハイライトの煙を吐き出した。
紫煙が早朝の青い光の中に溶けていく。
大人の役割とは、彼らの代わりに傷つくことではない。
この脆く儚い世界の中で、彼らが今日という日を、全力で生き抜く姿を見守り続けることだ。
朝の光が茜川の川面を黄金色に染め上げていた。
六人の若い影が、橋板の上に長く、強く伸びていた。




