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第十話 夏祭りの太鼓と夕立

 八月の終わり、町は夏祭りの熱気に包まれていた。


 郡上八幡の夜は、昼間の猛暑が嘘のように川風が吹き抜ける。

 だが、ひとたび通りへ出れば、人々の熱気と屋台の熱気が混ざり合って、むっとするほどの香気が満ちていた。

 川沿いの通りには、赤や黄色の提灯が果てしなく立ち並び、夕闇が深まるにつれて明かりがひとつずつ灯っていく。

 川の流れの音に重なって、遠くから太鼓の音が聞こえていた。

 ドンドンと低い振動が、足の裏から直接体に伝わってくるようだった。

「遅いな、浩二」

 健太は赤いウォークマンを首から下げ、電柱にもたれかかって前髪を気にしていた。

 鏡がわりに自販機のガラスに自分を映し、チェッカーズ風の垂らし前髪を指先で直す。


「すんませんっす!」

 走ってきた浩二は、紺色の男物浴衣を着ていた。

 帯の位置がやけに高くて胸の下あたりで結ばれていた。

「お前、その帯の位置、バカボンみたいだぞ」と健太が言った。

「母ちゃんに着せてもらったんっすけど、苦しくてたまらんっす」


 そこへ達也が歩いてきた。

 薄いグレーの羽織をさらりと羽織り、首にはいつものキヤノンAE-1を下げている。

「浩二、帯が上すぎる。解け」

「えっ、ここでっすか」

 達也は慣れた手つきで浩二の帯を解き、腰の低い位置でキュッと結び直した。

「おお、息ができるっす! 達也さん、なんでそんなに詳しいんっすか」

「着物は祖父によく着せられたからだ」


 三人で歩き出すと、橋のたもとの鳥居の近くに女子三人が待っていた。

 真理は紺地に白い撫子の花が散った浴衣だった。

 美奈子は生成りの落ち着いた柄。

 由香はスポーティーな私服の上に派手な羽織を羽織っていた。

 真理が振り返る。

 いつも結んでいる髪を高くまとめあげていて、白い首筋が夕闇の中に浮き立っていた。

 健太は一瞬、足を止めかけた。

「遅いよ、健太」と真理が言った。

「浩二の帯を修正してたんだよ」

「なにそれ」

 真理がふっと笑った。

「またウォークマン持ってきてるの」

「祭りにはBGMが必要だろ」

「太鼓の音が聞こえないじゃない」

「聞こえるよ、耳の隙間から重低音が入ってくる」

 由香が「浩二くん、お腹鳴ってない?」と聞いた。

「鳴ってるっす! 焼きとうもろこしの匂いがここまで届いてるっす!」

 美奈子が「ふふ、浩二くんらしいね」と微笑んだ。

 屋台の明かりが茜川の水面に反射していた。

 波立つたびに金色の帯のように揺れていた。


 人混みの中を六人で歩いた。

 金魚すくい、射的、かき氷。

 浩二はじゃがバターを両手に持ち、口のまわりをバターだらけにしながら貪り食っていた。

 由香はスマートボールの屋台で熱くなり、ガラス玉が穴に吸い込まれるたびに大声を上げていた。

 美奈子はファンシーショップの露店でイチゴ柄の巾着を眺めた。

 浩二が「それ、似合うっすよ」と言うと、少し照れたようにうつむいた。


 達也は無言で人混みをすり抜けながら、ふとした瞬間にカメラを構えた。

 金魚すくいの網が破れた瞬間の子供の顔。

 提灯を見上げる由香の横顔。

 カシャリという小さなシャッター音は、太鼓の響きに掻き消された。


 健太は真理の二歩後ろを歩いていた。

 真理の下駄がカランコロンと涼しげな音を立てる。

 とき折、真理が振り向いて「健太、はぐれないでよ」と言った。

「はぐれないよ。お前がチビだから見失いそうになるけどな」

「失礼ね」

 真理は少し眉をひそめたが、すぐに通り沿いの踊りの輪に目を向けた。

 跳ねるような太鼓と三味線の音。

 踊り手たちの手が揃って空を切る。

 真理の目が、その光と熱を映してきらきらと輝いていた。


 八時を過ぎたころ、空の匂いが変わった。

 祭りのお囃子の合間に、遠くで低く重い音が響いた。

 雷だった。

 さっきまで蒸し返していた風が急に止み、冷たい風が川の上流から吹き下ろしてきた。

 土と濡れた葉の匂いが鼻をつく。

「・・雨、来るぞ」

 達也が足を止め、黒い空を見上げた。

 提灯の明かりの向こうで、さっきまで見えていた星が消え、巨大な暗雲が渦巻いていた。


 ぽつり。

 健太の鼻先に、冷たい水滴が落ちた。

「うわ」

 ポツポツ、と言った刹那、バケツをひっくり返したような土砂降りが襲いかかった。

 白く霞むほどの雨の壁だった。

「キャーッ!」

 通りの客が一斉に悲鳴を上げた。

 浴衣の袖を頭にかざして走り出す人。

 露店の雨よけのシートの下に押し寄せる人。

 石畳を叩く激しい雨音で、お囃子の音が聞こえなくなった。


「健太! こっち!」

 真理の声が叫び声にかき消されそうになる。

 健太は真理の濡れた浴衣の袖を夢中で掴んだ。

 後ろを振り返ったが、浩二も達也も人混みの波に飲まれて姿が見えない。

「引き返したら危い! 茜川橋の下へ行こう!」

 健太は真理の手首をしっかり握り直すと、土手の方へ走った。

 雨が容赦なく顔を叩き、目を開けているのもやっとだった。

 真理の下駄が滑りそうになるのを健太が支え、二人は橋の袂の斜面を駆け下りた。


 木造の橋脚の陰、水がかからない土手の窪みに、二人は滑り込んだ。

 頭上でバラバラバラと、橋板を叩く雨音が凄まじい音で響いていた。

 川の水面は雨粒で激しく泡立ち、みるみるうちに濁流となってかさを増していく。

「ハァハァ・・」

 二人は息を乱しながら、暗がりの中にうずくまった。

「大丈夫か、真理」

「うん・・びっくりした・・」

 真理は濡れた髪を手で後ろへ払った。

 紺地の浴衣は肩から背中にかけてぐっしょりと色を変え、肌に張り付いていた。

 真理は小さく身体を丸め、自分の腕を抱えた。


「寒いか?」

「・・少し」

 健太は着ていたチェック柄のシャツのボタンを外そうとした。

 だが、自分のシャツも絞れるほど濡れていることに気づいて手を止めた。

「ごめん、俺のもダメだ」

「いいよ。健太のほうが寒そう」

 真理がくすりと笑った。

 真理の手が、健太の手に触れた。

 指先が氷のように冷たかった。

 健太は思わずその手を包み込もうとしたが、真理はかすかに身を引いて、手を引っ込めた。


 ふたりの間に、小さな間が落ちた。

 雨の音だけが二人を包んでいた。橋の下は暗く、遠くの街灯の黄色い光が、雨の膜を通してぼんやりと届いているだけだった。遠くで、中断せずに続けられている太鼓の音が、地鳴りのように響いていた。


 湿った土の匂い。

 川の水煙の匂い。

 健太は膝を抱え、水たまりに反射する淡い光を見つめていた。

「・・真理」

「なに?」

 真理は膝に顎を乗せたまま、川の濁流を見つめて答えた。

「東京、行くんだろ」

 雨音が一段と強くなった気がした。


 真理はすぐには答えなかった。

 下駄の先で、土の上の小さな白い石をコリコリと突いた。

 何度も、何度も。

「・・うん」

 吐息のような、小さな声だった。

 健太は橋の丸太柱に後頭部を預けた。

 首にかけていたウォークマンの硬いプラスチックが、首筋に当たって痛かった。

「そっか」

「うん」

「いつ決めたの」

「夏休みに入る前。お母さんとも話して」

「・・なんで言わなかったんだよ」

「言うタイミング、なかったから。それに・・言ったら、みんな騒ぐでしょ」

 真理の声は驚くほど静かだった。

 取り乱す様子もなく、悲しむ様子もなく、ただ、もう決めたことを静かに告げる声だった。

 それが逆に、健太の胸の奥を刺した。


 健太はズボンのポケットに突っ込んだ手をギュッと握りしめた。

 手のひらに冷や汗が滲んでいた。

「東京の短大、服飾だっけ」

「うん。服の勉強したいから」

「そっか。かっこいいな」

「かっこよくなんかないよ。怖くてたまらないもん」

 真理が初めて本音を漏らした。

 声が少しだけ震えていた。

「東京なんて誰も知り合いあいないし・・電車だって乗り方わからないし。でも、ここを出ないと始められない気がして」

 真理は両手で顔を覆った。

 健太は何か言おうとして、口を開けた。

 だが、かけるべき言葉が見つからなかった。

「行くな」と言う資格も、「応援する」と格好をつける度胸も、今の健太にはなかった。

 遠くで、太鼓がドシンと強く鳴った。

 腹に響く音だった。


 健太は息を深く吸い込んだ。

「東京行っても」

 真理が手を顔から離した。

「俺のこと、忘れるなよ」

 声がかすれて、途中で裏返った。

 みっともない声だった。

 でも健太は正面から真理を見た。

 真理がゆっくりと顔を上げた。

 暗がりの中で、真理の瞳だけが湿った光を宿していた。

 真理は健太の顔を、穴があくほどじっと見つめた。

 それから、ほんの少しだけ唇をほころばせた。

 切ないような、愛おしいような、小さな微笑みだった。

「忘れるわけないじゃない」

 真理がつぶやいた。

 雨音にかき消されそうなほど小さな声だったが、健太の耳にははっきりと届いた。

「健太のこと忘れたら、誰がヘタクソなギター聴かせてくれるの」

「うぐ・・」

「誰が爪折るの忘れたテープ貸してくれるの」

 真理はくすくすと笑った。

 目元に涙なのか雨粒なのかわからない光が溜まっていた。

 健太は何も言えなくなって、ただ頭を掻いた。


 三十分ほど経つと、雨の勢いが急速に弱まってきた。

 橋を叩く激しい音が静まり、雲の切れ間から青白い月光が差し込んできた。

 増水した川面が、月光を受けて鈍く輝いていた。

「・・やんできたね」と真理が言った。

「ああ」

 二人は膝を伸ばし、立ち上がった。

 土手が雨で濡れて泥のようになっていた。

 健太が先に上の道へ登り、手を差し出した。

「ほら、つかまれ」

 真理は一瞬ためらったが、健太の手を両手でしっかりと握った。

 ぬくもりが、一瞬で掌に伝わってきた。

 冷たかった真理の手が、健太の手の熱を吸い取るように温かくなっていった。

 健太はグッと力を込めて真理を引き上げた。

 登りきると、真理は静かに手を離した。

「ありがとう・・」


 通りへ出ると、遠くから浩二の怒鳴り声が聞こえてきた。

「健太ーーっ! 真理ちゃーーんっ!」

「ここだー!」

 健太が大声で返した。

 人混みの向こうから、傘を抱えたメンバーが走ってきた。

「大丈夫?!」と由香が走り寄ってきた。

「どこ行ってたの?! 心配したんだから!」

 美奈子も息を切らせていた。

「茜川橋の下で雨宿りしてた」と健太が汗を拭きながら言った。


 達也は無言でふたりの姿を確認すると、肩から下げたカメラを構えた。

 カシャリ。

 フラッシュは焚かなかった。

 月明かりと濡れた石畳の反射だけで、ふたりの濡れた姿をフィルムに収めた。

「探したぞ」

 後ろから武田先生が、畳んだ傘を三本抱えて歩いてきた。

 先生のジャケットも肩がぐっしょり濡れていた。

「先生、どうしたの」と健太が言った。

「佳代に『傘を持っていけ』と追い出されたんだ。ほら、使え」

 先生は健太と真理、由香に傘を手渡した。

「さあ、風邪ひく前に帰るぞ。佳代が温かいお茶用意して待ってる」


 六人は先生の後に続いて、濡れた石畳を歩き始めた。

 屋台の提灯が濡れた路面に映り込み、まるで光の川の上を歩いているようだった。

 健太は傘をさしながら、ポケットの中のウォークマンのスイッチを入れた。

 イヤフォンから「涙のリクエスト」が流れる。

 祭りの太鼓の遠鳴りと、夜風の音と、チェッカーズのメロディが混ざり合っていた。

 健太は前を向いて歩いた。

 二歩先を歩く真理の浴衣の裾が、月光を浴びて揺れていた。

 昭和六十年の夏が、ゆっくりと終わりへ向かっていた。

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