第十一話 夏の終わりの補習と暗室
八月の最終週、茜ヶ丘高校の校舎は静まり返っていた。
グラウンドを支配していたアブラゼミの猛烈な大合唱はいつの間にか影を潜めていた。
代わりに校舎裏の雑木林からツクツクボウシの甲高い泣き声が、惜しむように響いていた。
渡り廊下に吹き抜ける風には、わずかに秋の気配が混ざっている。
だが、午後二時の三年B組の教室は、照りつける西日と打ち水のないアスファルトの熱気で、蒸し風呂のようだった。
「はい、ここテストに出るぞ。・・と言っても、お前ら半分寝とるな」
武田繁治は、手に持った竹尺で黒板をパンパンと叩いた。
肘当てのついたジャケットを脱ぎ捨て、半袖の白シャツの襟をゆるめている。
額には汗の粒が浮いていた。
「暑いっすよ、先生・・扇風機が温風機になってるっす・・」
一番後ろの席で、浩二が大きな体を丸めて机に突っ伏していた。
巨大なアルマイトのドカ弁はとうに空になり、今はアイスの棒を口にくわえている。
「文句を言うな、小林。夏休みの宿題を最終週まで溜め込んだ自業自得だ。佐藤もだ。目を開けながら寝るな」
「寝てないっす・・目を開けて未来を見てるんす・・」
健太は前髪を垂らしたまま、鉛筆を持った手がぴくりとも動いていなかった。
ソニーの赤いウォークマンは、さすがに武田先生の目の前とあって机の中に仕舞われている。
真理と美奈子は、窓際の席で静かにノートをとっていた。
真理の横顔は、夏祭りの夜からどこか一段と大人びて見える。
美奈子はノートの端に、ファンシーショップで買ったイチゴ柄の消しゴムをちょこんとおいていた。
由香はジャージの袖を捲り上げ、ポカリスエットの空き缶を指先でコロンコロンと転がしながら、窓の外の茜川を眺めていた。
「よし、今日の補習はここまでだ」
武田先生が出席簿をパチンと閉じた。
「来週からは二学期だ。進路希望票の提出期限も迫っとる。遊べる夏は今日で終わりだぞ」
教室に、小さいため息が漏れた。
補習が終わり、生徒たちがパラパラと帰り始めた。
達也は一人、黒いカメラケースを肩にかけ、誰とも群れずに校門を出た。
八月末の夕日は、四月や七月のそれとは違っていた。
空の青がどこか高く薄くなった。
茜川の川面に反射する光も、刺さるような強さから、深みのある橙色へと変わりつつあった。
茜川橋の上に、人影はない。
達也は橋のたもとで足を止めた。
一瞬だけキヤノンAE-1に手を伸ばしかけたが、そのままポケットに手を突っ込んで歩き出した。
町外れにある自宅に向かった。
達也の家は、古風な瓦屋根の大きな屋敷だった。
開業医である父の病院が隣接しており、どこか消毒液の匂いが漂う静かな敷地だった。
「ただいま」と言っても、静まり返った玄関には誰も出迎えなかった。
父は病院、母は婦人会の用事で不在だった。
達也は二階の自分の部屋へ上がると、鞄を床に置き、押し入れに向かった。
押し入れの下段。
布団が仕舞われていたはずのその空間は、黒い遮光シートで完全に覆われていた。
達也が中学生のときに自作した、手作りの暗室だった。
暗室の中に潜り込み、遮光シートの重いファスナーを閉める。
完全な闇。
カチリ、とスイッチを入れると、小さな赤い安全灯が点灯した。
狭い空間が、妖しい深紅の光で満たされる。
バットに注がれた現像液、停止液、定着液の、酸っぱくツンとする薬品の匂いが鼻をついた。
達也は静かに息を吐いた。
この赤くて狭い闇の中だけが、誰の視線も届かない、自分だけの世界だった。
父の「医学部へ行け」という圧迫も、教室の喧噪も、ここには入ってこない。
棚から、この夏に撮りためた35ミリフィルムのパトローネを取り出す。
暗袋の中で手探りでフィルムをパトローネから引き抜き、リールに巻きつけていく。
手慣れた指先の感覚だけが頼りだった。
現像タンクにフィルムをセットし、現像液を注ぎ込む。
タイマーの秒針がチクタクと音を刻む。
三十秒ごとにタンクを静かに反転させ、液を攪拌する。
液が泡立つかすかな音が、暗室内に響いた。
時間を正確に守り、停止液、定着液へと移す。
定着を終え、タンクの蓋を開けた瞬間。
水洗い用のバットの中で、現像されたフィルムが透明な帯となって現れた。
赤灯の光にかざす。
黒く反転したネガの中に、この夏の記憶が細密なコマとなって刻み込まれていた。
武田家の居間でスイカを頬張る浩二の爆笑。
夏祭りの提灯の下で、アンニュイに笑う真理。
茜川橋から飛び込む健太の水飛沫。
書籍のように並ぶコマの影。
そして・・。
達也の手が、ひとつのコマの前で止まった。
トントン、と部屋のドアがノックされた。
「達也さんー! 入るっすよー!」
浩二の声だった。
達也は眉をひそめたが、暗室の遮光シートを少しだけ開けて顔を出した。
部屋の明かりの中に、浩二が汗だくの顔で立っていた。
手に何枚かのプリント用紙を持っている。
「なんだ、浩二」
「武田先生からっす! 二学期の始業式の連絡プリント、渡すの忘れたって言われて、俺が届ける係になったんっす!」
「置いておいてくれ」
「うわ、なんっすかこれ! 赤い! 秘密基地っすか!?」
浩二はズカズカと部屋に入り込み、押し入れの暗室を覗き込んだ。
「入るな、光が入る」
「す、すんませんっす! でも、これカッコいいっすね・・映画の怪しい実験室みたいっす」
浩二は狭い暗室の中に巨体を滑り込ませ、珍しそうにあたりを見回した。
薬品の匂いに「うっ、酢の物みたいな匂いがするっす」と鼻をうごめかせる。
赤い光の中、プラスチックのハンガーに吊るされて乾かされている印画紙が、何枚も揺れていた。
「へえ・・これ、達也さんが撮った写真っすか」
浩二は吊るされた写真を一枚一枚覗き込んだ。
「うわ、これ俺がカレー食ってるところじゃないっすか! 顎が出てるっす!」
「撮ったままだ」
「こっちは健太の変顔っすね。あ、真理ちゃんの浴衣・・きれいっすねぇ」
浩二は感心したように声を上げていたが、ある一枚の写真の前で、ぴたりと動きを止めた。
「あれ?」
浩二が首を傾げた。
「達也さん、この写真・・なんかボケてないっすか?」
達也の背中が、わずかに硬直した。
浩二が指さしていたのは、暗室のいちばん奥、目立たない端に吊るされた一枚の白黒写真だった。
そこに写っていたのは、由香だった。
七月の終わり。
インターハイ予選で負けた日の夕方、茜川橋のたもとで一人、膝を抱えて泣いていた由香の姿だった。
達也は遠くから、その姿を無言でレンズに収めていた。
だが、その写真の由香の輪郭は、全体にかすかにブレていた。
ピントが背景の木目や川面に合ってしまい、主役であるはずの由香の顔や髪が、ぼんやりと柔らかく滲んでいた。
「達也さんの写真って、いつも針みたいにクッキリしてるのに」
浩二は無邪気に写真を覗き込んだ。
「これ、由香ちゃんっすよね。達也さんでも、写真ブレることあるんっすね。手が滑ったんっすか?」
達也はしばらく何も言わなかった。
赤い光の下で、ピンセットを液の中に浸したまま、静かに口を開いた。
「・・光が、足りなかっただけだ」
「光っすか?」
「夕方で、シャッタースピードを落としていた。だから手ブレした」
「へえ、カメラって難しいんっすねぇ」
浩二はそれ以上突っ込まず、「じゃ、プリント置いとくっすね! 俺、腹減ったから帰るっす!」と元気に暗室を出ていった。
バタン、と部屋のドアが閉まる音が響いた。
再び、一人きりになった。
赤灯の静寂が戻ってきた。
達也は竹のピンセットで、バットの中の印画紙を静かに引き上げた。
さっきの写真だった。
ピンボケの由香。
「光が足りなかった」というのは、嘘だった。
あのとき、カメラを向けた瞬間、達也の手は確かに震えていた。
普段なら機械のように正確に合わせられるピントリングが、ファインダー越しに由香の泣き顔を見た瞬間、どうしても滑って合わせられなかった。
ファインダーの中の由香の涙が、直視できないほど眩しく、そして切しかったからだ。
「・・嘘をつかない、か」
達也はつぶやいた。
写真は嘘をつかない。
クッキリ撮れなかったという事実そのものだった。
あのときの達也の動揺と、言葉にできなかった感情を、完璧に焼き付けていた。
達也はピンボケの写真をハンガーから外し、そっとアルバムのポケットに滑り込ませた。
誰にも見せない一枚。
渡さない一枚。
カチャカチャ、カチリ。
カメラの巻き戻しクランクを回す金属音が、狭い暗室に寂しく響いた。
三十六コマのフィルムが、音を立ててパトローネの中へと戻っていく。
楽しかった昭和六十年の夏が、二度と戻らない箱の中へと仕舞われていく音のようだった。
暗室を出て窓を開けると、茜川の向こうに、深い紫色の夜が降りてきていた。
どこかで、秋の虫が鳴き始めていた。




