第十二話 スーパーマリオと進路希望票
九月中旬。
夏祭りの喧噪が嘘のように過ぎ去り、茜川を吹き抜ける風にはっきりと秋の冷たさが混ざるようになった。
校庭の大きなイチョウの葉が少しずつ黄色味を帯び始めた。
夕方五時を回ると空はあっという間に深い茜色から群青色へと表情を変えた。
昭和六十年の九月は、新しい時代の熱気が一気に押し寄せてきた季節だった。
「Bダッシュ! Bダッシュしながらジャンプだろ!」
放課後の三年B組の教室で、健太が大声を上げていた。
机の上に広げられているのは、九月十三日に発売されたばかりの任天堂のファミコンカセット『スーパーマリオブラザーズ』の取扱説明書だった。
「健太、声が大きいっすよ! 追試の最中っすから!」
浩二が机で頭を抱えながら、英語の再テスト用紙と格闘していた。
だが、その視線はチラチラと健太の手元へ向いている。
「だってよ浩二、ワールド1-2の天井の上を走れるんだぞ? ワープゾーンがあるんだって! 3面とか5面に一気に行けるんだよ!」
「マジっすか!? 天井の上走れるんっすか!?」
「静かにしろ、小林! 再テスト中にマリオの話をするな!」
教卓で採点をしていた武田先生が、竹尺で教卓をポンと叩いた。
胸ポケットには相変わらずハイライト。
「だって先生、マリオがキノコ食べたらでかくなるんすよ! カメの甲羅蹴ったら敵が全滅するんすよ!」
「でかくなろうがカメを蹴ろうが、お前の英語の点が上がらんと二学期の単位はないぞ。ほら、ペンを動かせ」
武田先生は呆れ顔で吐き捨てた。
しかし、その視線は健太の持っている説明書のドット絵のマリオに向けられていた。
教室の窓際には、放課後の西日が長く差し込んでいる。
黒板の右端には、白いチョークで大きくこう書かれていた。
『進路希望票 提出期限:九月三十日厳守』
「進路か・・」
健太は説明書をパタンと閉じ、自分の机の引き出しから一枚のプリントを取り出した。
『進路希望調査票』と書かれた紙は、四隅が少し折れ曲がっていた。
第一希望から第三希望まで、記入欄はすべて空白だった。
「真理はもう出したのか?」
窓際で日直日誌を書いていた真理に、健太が声をかけた。
真理はペンを止め、振り向いた。
「うん。昨日、武田先生に渡したよ」
「第一希望・・例の東京の短大?」
「うん。服飾学科」
真理の返事は迷いがなかった。
夏祭りの夜、茜川橋の下で「怖くてたまらない」と漏らした真理。
あの表情はいまは影を潜め、しっかりとした目をしていた。
「健太は? まだ白紙?」
「・・まあな。『地元で何かする』って書こうとしたら、浩二に『進路の欄に「何か」って書く奴いないっすよ』って笑われた」
「当たり前でしょ」
真理は小さく笑い、日誌に視線を戻した。
となりの席でコバルト文庫を読んでいた美奈子が、静かにページを繰りながらつぶやいた。
「浩二くんは、おうちの和菓子屋さんを継ぐのかな」
「あいつ、今日武田先生に『俺、料理人になりたいかもっす』って言ったらしいぞ」と健太が言った。
「そしたら先生に『お前が包丁を持ったら食材より自分の指を切りそうだ』って言われて落ち込んでた」
美奈子がふふっと口元をゆるめた。
「浩二くんの作るお料理なら、私、食べてみたいな」
「甘やかすなよ、美奈子。あいつつけ上がるから」
会話が途切れ、教室に夕風が吹き込んできた。
達也の席は、すでに空だった。
ホームルームが終わると同時に、誰とも口をきかずに鞄を持って出ていっていた。
その夜、渡辺家は静まり返っていた。
広い食堂のテーブル。
重厚な木製の椅子に座った達也の前に、父・渡辺宗一郎が座っていた。
白衣を脱いだ父は、淡いグレーのカーディガンを羽織っていた。
老眼鏡越しに達也の進路希望票を見ていた。
何も書かれていない空白の紙を見ていた。
「白紙か」
父の声は、荒立てることもなく、静かだった。
それがかえって部屋の空気を重く冷たく冷やした。
「締め切りは今月末だろう」
「はい」
「迷う理由があるのか。医学部以外の選択肢が、お前にあるのか」
達也は膝の上で両手を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込む。
「・・写真は」
小さな声だった。
「何だ」
「写真の大学へ行きたい」
父は老眼鏡を外し、ゆっくりとテーブルの上に置いた。
カチャリと静かな音が響いた。
「趣味で撮る分には何も言わん。キヤノンのカメラも貸してある。だが、それを職業にするというのは別の話だ。写真で食っていける人間が世の中に何人いると思っている」
「食っていけるかどうかじゃない」
達也は父の目をまっすぐ見据えた。
「俺は、自分の目で見たものを残したい」
「甘い」
父の言葉は一蹴だった。
「渡辺家は代々、この町で人の命を預かってきた。叔父の病院も、誰かが継がねばならん。お前にはその責任がある。くだらん写真にうつつを抜かして、現実から逃げるな」
「逃げてない!」
達也は立ち上がった。
椅子が大きな音を立てて床を滑った。
父は動じなかった。
冷ややかな目で達也を見上げ、静かに言った。
「来週の面談には、私が学校へ行く。武田先生には私から話す」
達也は何も言い返せなかった。
奥歯を噛み締め、階段を駆け上がって自分の部屋へ入ると、ドアを固く閉ざした。
部屋の隅に置かれたキヤノンAE-1。
黒い金属のボディが、月光を受けて冷たく光っていた。
夜の十時を回っていた。
達也は上着も羽織らずに外へ出た。
冷え込んできた秋の夜風が、頭に昇った血を少しずつ冷やしてくれた。
気づけば、足はいつもの場所へ向かっていた。
茜川橋。
木造の橋板に、月光が白く降り注いでいた。
昼間の川のきらめきとは違い、夜の茜川は漆黒の帯となっていた。
川はサラサラと深い音を立てて流れていた。
達也は橋の中ほどまで歩き、木の手すりに両手を預けた。
冷たい木肌の感触が、手に伝わってくる。
「夜風は体に毒だぞ、渡辺」
後ろから、がさがさとした声がした。
振り返ると、橋のたもとの街灯の影から、人影が歩いてきた。
肘当てのついたジャケットを着た武田先生だった。
胸ポケットからハイライトを取り出し、ライターの火をつけた。
カチッ、と小さな炎が夜の闇に浮かび上がり、先生のボサボサの髪と無精髭を赤く照らした。
紫煙が風に乗って漂ってくる。
「先生・・なんでこんな時間に」
「佳代に『タバコは外で吸え』と追い出されたんだよ。愛煙家の肩身は狭い」
武田先生は橋の手すりに寄りかかり、達也のとなりに立った。
缶コーヒーを二つ、上着のポケットから取り出した。
UCCの赤い缶コーヒー。
一つを達也に差し出してきた。
「ほら」
達也は無言で受け取った。
自販機から買ってきたばかりなのか、缶はまだ温かかった。
プルタブを引くと、パキッという甲高い金属音が静かな川面に響いた。
甘い缶コーヒーの匂いが立ち込める。
二人は並んで缶コーヒーを飲み、夜の川を見つめた。
「父親とやり合ったのか」
武田先生が唐突に言った。
達也は缶を持つ手に力を込めた。
「・・わかりますか」
「顔に『面白くない』と書いてある。お前は昔から、感情を顔に出さんようにしとるが、目の奥が尖るからすぐわかる」
先生はハイライトの灰を川へ落とした。
「親父さんから電話があった。『息子を説得してくれ』とな」
達也の眉がピクリと跳ねた。
「親父と同じことを言うんですか。『医者になれ』って」
武田先生は答えなかった。
ただ静かに缶コーヒーを一口飲み、空を見上げた。
九月の夜空には、満月がくっきりと浮かんでいた。
「自分の道を選ぶってのはな」
先生が静かに口を開いた。
「誰かの期待を裏切る覚悟を持つってことだ。親だろうが、教師だろうが、世間だろうがな。誰かの敷いたレールを走っとる間は楽だ。失敗しても人のせいにできる。だが、自分で決めた道は、転んでも誰のせいにもできん」
「俺は・・逃げてないです」
「わかっとる」
先生の声は柔らかかった。
「お前の撮る写真を見りゃわかる。お前が真剣に世界と向き合っとることは、俺が一番よく知っとる」
達也は胸の奥が熱くなるのを感じた。
缶コーヒーを握る手が、かすかに震えた。
「・・先生」
達也は静かに武田先生の横顔を見た。
「何だ」
「先生が・・諦めた夢はなんですか」
武田先生の手が、ぴたりと止まった。
ハイライトの煙が、風にさらわれて消えていく。
先生はゆっくりと達也のほうを振り返った。
夜の闇の中で、先生の目が少しだけ泳いだ。
「なんだ突然。失礼なやつだな」
「先生はいつも『熱くなれ』とか『夢を持て』って言いますけど」
達也はまっすぐ先生の目を見つめた。
「先生自身は、どうだったんですか」
武田先生はしばらく無言だった。
ハイライトを指で揉み消し、携帯灰皿に吸い殻を収めた。
それから、缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。
「・・小説家だ」
ボソリと、小さな声が聞こえた。
「え?」
「小説家になりたかったんだよ、若い頃な」
先生は照れくさそうに頭を掻いた。ボサボサの髪がさらに乱れた。
「大学を出て、教員になりながら、夜な夜な原稿用紙に向かっとった。賞に応募しては落ち、応募しては落ちだ。・・結局、芽が出んまま三十を過ぎて、佳代と結婚して、諦めた」
達也は何も言えなかった。
武田先生が太宰治や夏目漱石を語るとき、教室にはいつも静かな熱が満ちていた。
生徒の作文にも、赤ペンで几帳面に感想とアドバイスを重ね、その一行一行に先生の誠実さがにじんでいた。
その理由が、すべて腑に落ちた気がした。
「ダサいだろ」
先生が苦笑いした。
「夢を諦めた男が、偉そうに教壇に立って『夢を持て』だの説教しとるんだからな。笑ってくれ」
「笑いません」
達也は即座に答えた。
「先生は・・後悔してますか」
先生は少し間を置いた。
川の流れの音だけが、二人の間に響いていた。
「後悔してないと言ったら嘘になる。・・だがな」
先生は達也の肩を、大きな手でぽんと叩いた。
力強い、温かい手だった。
「教え子の中に、本気で夢と戦おうとしとる奴がおる。それを見とるだけで、俺の人生も捨てたもんじゃないと思えるんだよ。・・お前らの青春が、羨ましくてたまらんのだ」
達也は息を呑んだ。
先生の目が、夜の月光を映して、静かに揺れていた。
「渡辺。親父さんと戦え。だが、憎むなよ。親父さんだってお前を愛しとるからこそ悩んどるんだ。お前が自分の足で立とうとしとる姿を、写真で見せてやれ」
武田先生はそれだけ言うと、空になった缶コーヒーをポケットに押し込んだ。
「冷えてきたな、帰るぞ」と背中を向けた。
「先生」
達也が呼び止めた。
「ありがとっす」
珍しく、浩二のような口調が口から出た。
武田先生は振り返らず、片手をひらひらと上げ、夜の道を歩いていった。
ハイライトの煙の匂いだけが、かすかに残っていた。
一人残された茜川橋。
達也は手に持った缶コーヒーを飲み干した。
もう冷めていたが、胸の奥は不思議と温かかった。
ポケットから、一枚の折りたたまれた紙を取り出した。
『進路希望調査票』。
達也はペンを取り出した。
月明かりの下で、第一希望の欄に書き込んだ。
『日本大学 芸術学部 写真学科』
迷いは消えていた。
川の流れが、秋の夜の深まりを告げるように、サラサラと音を立てて流れていた。




