第十三話 阪神タイガース21年ぶりの歓喜
十月中旬。
郡上八幡の町は、すっかり深まる秋の気配に包まれていた。
城山の木々には黄色や赤の斑点が日に日に増えていた。
朝晩は羽織るものが一枚欲しくなる冷え込みだった。
茜川の水は水底の丸い石まで透き通って流れていた。
夕暮れ時になると真っ赤な夕空を映して、川全体が揺れる茜色の帯のようだった。
だが、世の中の温度は秋の冷気とは裏腹に、異常な熱気を帯びていた。
「バース! また打ったぞ! 三十五号だ!」
「掛布も続いた! アベックホームランだ!」
町角の電気屋『ナショナルショップ』の店頭。
ガラス越しにズラリと並んだブラウン管テレビの前。
買い物帰りの主婦や自転車を止めた中学生、仕事帰りのサラリーマンが人だかりを作っていた。
昭和六十年十月。
首位を独走する阪神タイガースは、二十一年ぶりのセ・リーグ優勝を目前に控えていた。
日本中が空前の阪神フィーバーに沸き立っていた。
四月に阪神甲子園球場で放たれた伝説の「バックスクリーン三連発」から始まった熱狂。
秋になっても衰えるどころか、日ごとに加熱していた。
「浩二、また電気屋の前に溜まってんのか」
放課後、健太が呆れたように声をかけた。
浩二は人だかりの一番前で、ナショナルの大きなトリニトロン画面を見上げていた。
手に持ったアルマイトのドカ弁はすっかり空になっていた。
首にはどこで手に入れたのか、黄色と黒の縞模様のハチマキを巻いている。
「健太! 今日勝つか引き分ければ優勝なんっすよ! 二十一年ぶりっすよ! 俺が生まれる前っす!」
「お前、いつから阪神ファンになったんだよ。春まで巨人ファンだったろ」
「今日から虎党っす! バースの打球の飛距離を見たら、男なら誰だってファンになるっす!」
「節操がないな」
となりに立っていた達也が、首から下げたキヤノンAE-1のファインダーを覗き、テレビを見上げる浩二の鼻息荒い横顔を一度だけ切った。
カシャリ。
「何撮ってるんっすか、達也さん」
「アホの顔だ」
「アホじゃないっす! 日本一の熱気っす!」
「まだ日本一じゃない。リーグ優勝だ」と達也が冷静に訂正した。
「細かいことはいいんっすよ!」
電気屋の店主が店から出てきて、「おい、邪魔だぞー!」と言いながらも、自分もテレビの前に腕を組んで居座った。
町全体が、どこか浮き足立っていた。
その夜、十月十六日。神宮球場でのヤクルト戦。
武田家の居間には、ラジオのノイズ混じりの実況音声と、ブラウン管テレビの映像が同時に響いていた。
居間の低いテーブルの上には、佳代さんが握ってくれた大きなおにぎりと、温かいほうじ茶が置かれていた。
健太、浩二、達也の男子三人が畳に座り込み、画面を食い入るように見つめている。
「先生、阪神が優勝したら、明日の宿題免除にしてほしいっす!」
浩二がおにぎりを頬張りながら言った。
「馬鹿言え」と武田先生が胸ポケットからハイライトを取り出した。
ライターの火が揺れる。
「阪神が勝とうが負けようが、明日は国語の小テストだ。お前は漢字の練習をしろ」
「先生はどこのファンなんですか」と健太が聞いた。
「俺か? 俺は中日だ。名古屋の男だからな」
「じゃあ今夜は悔しいんじゃないっすか?」
「・・強い時の阪神は、町が明るくなって悪くない」
先生は紫煙を燻らせながら、少しだけ目を細めた。
「二十一年前の優勝の時、俺はちょうど高校生だった。あの頃の町も、こんな風に浮かれていたな」
「へえ、先生の高校時代っすか」
「余計な話だ。ほら、九回裏だぞ」
居間が静まり返った。
膝の上で寝ていた八歳の明日香が、ん、と小さく寝返りを打った。
テレビ画面の中で、阪神の投手・中西が投球フォームに入る。
『ピッチャー投げました、打ちました! 高く上がったフライ、センター下がります、下がります・・捕りました! 試合終了! 勝ちではありませんが引き分け! 阪神タイガース、二十一年ぶり、昭和四十年代以来のセ・リーグ優勝です!』
「うおーーーーーーっっっ!!!」
浩二が居間の畳の上で跳び上がった。
鴨居に頭をぶつけ、「痛たたた!」と叫びながら両手を突き上げて歓喜した。
「やったっす! 優勝っす!」
「こら浩二、家が揺れる!」と武田先生が笑いながら叱った。
佳代さんが台所から顔を出し、「あらあら、よかったわねぇ」とお茶を淹れ直してくれた。
健太も浩二とハイタッチをしながら、窓の外を見た。
静かな夜の空気に、どこからか遠くの居酒屋や民家からあがる歓声が、川風に乗って微かに聞こえてきた。
時代が、大きな音を立てて熱く動いている気がした。
翌日の放課後。
昨夜の歓喜の余韻が学校中を覆う中、浩二は手提げの紙袋を大事そうに抱えて、校舎の裏手へ歩いていた。
向かったのは、体育館の横にある古びた木製ベンチだった。
そこには、美奈子が一人で座っていた。
膝の上にコバルト文庫を開き、秋の風に三つ編みを揺らせている。
「・・美奈子ちゃん」
浩二が声をかけると、美奈子は本から目を上げ、ふわりと微笑んだ。
「浩二くん。昨日は阪神、優勝してよかったね」
「っす! 二十一年ぶりの歓喜っす!」
「浩二くん、昨日すごく嬉しそうな顔をしてたよ」
「見られてたっすか?」
「電気屋さんの前で、すごく目立ってたから」美奈子がクスクスと笑った。
浩二は真っ赤になってベンチの端に腰かけた。大きな体がベンチをギシッと鳴らした。
「あの・・これ」
浩二は手に持っていた紙袋から、竹の皮の包みを取り出した。
不器用に結ばれた麻紐をほどくと、中から二つの和菓子が現れた。
それは、お世辞にもきれいとは言えない代物だった。
形はいびつで、表面の皮が少し破れ、中の小豆あんがはみ出している。
大きさも左右で違っていた。
「・・これ、何っすか? って自分で言うのも変っすけど、お饅頭っす」
浩二は耳まで赤くして、頭を掻いた。
昨日の夜、阪神の試合が始まる前、家の台所で母親に「アンタ手先が不器用なんだからやめときな」と言われながら、茹でたサツマイモを潰し、小豆を練ったのだった。
「うちの畑で採れた小豆とサツマイモで、作ったんっす。阪神が優勝したら、美奈子ちゃんに渡そうと思って・・」
美奈子は目を丸くした。
それから、竹の皮の上の不格好なお饅頭を、愛おしそうに見つめた。
「浩二くんが・・自分で作ったの?」
「っす。見た目はブサイクで、店の売り物にならないっすけど・・味は、甘さ控えめにしたっす。砂糖を入れすぎないように母ちゃんに言われたっす」
美奈子はそっと手を伸ばし、崩れそうなお饅頭をひとつ、両手で包み込むように持ち上げた。
一口、小さくかじった。
もぐもぐと噛み締め、美奈子は静かに目を閉じた。
「美味しい・・」
「本当っすか?」
「うん。すごく優しい味がする。お芋の甘みと、小豆の香りがちゃんとするよ。皮もモチモチしてる」
美奈子は目を開け、浩二をまっすぐ見つめた。
「浩二くんの優しさは、日本一ね。阪神タイガースより日本一」
浩二の顔が、かーっと赤くなった。
首に巻いていた黄色と黒のハチマキをギシギシと引っ張り、「そんなことないっすよ!」と叫ぶような声を出した。
美奈子はくすくすと笑った。
秋の木漏れ日が、美奈子の頬を柔らかく照らしていた。
美奈子はスクールバッグの中から、薄い水色の封筒を取り出した。
「これね、昨日届いたの手紙」
「文通の奴っすか?」
「うん。東京の女子高生の子から」
美奈子は手紙の便箋を指先で丁寧になぞった。
「その子ね、東京の大きな高校に通ってるんだけど・・最近、すごく寂しいって書いてあったの」
「寂しい?」
「うん。『東京の地下鉄は蜘蛛の巣みたいで、人がたくさん乗っているのに、誰も私を見てくれていない気がする』って。『みんな急ぎ足で歩いていて、自分だけが透明人間になっちゃったみたいで怖くなる』って」
浩二は黙って話を聞いていた。
「真理ちゃんも、来年は東京に行くでしょう?」
美奈子が遠くの茜川のほうに目を向けた。
「東京って、そんなに人が冷たいのかな。真理ちゃん、一人で大丈夫かなって・・」
浩二は自分の大きな膝をドンと叩いた。
「大丈夫っすよ!」
「え?」
「真理ちゃんには、健太がいるっす。それに俺たちもいるっす。東京がどれだけ広くても、俺たちは真理ちゃんのこと忘れないっす」
浩二は美奈子のほうを向き、真剣な目をした。
「それに・・美奈子ちゃんがもしどこか遠くへ行っても、俺は美奈子ちゃんのこと、ずっと見てるっすから」
美奈子の息が、一瞬止まった。
風が吹き抜け、頭上のイチョウの葉がパラパラと舞い落ちた。
黄色い葉が、二人の足元に静かに降り積もる。
美奈子は手に持ったお饅頭を大切そうに握り直し、小さくうなずいた。
「・・うん。ありがとう、浩二くん」
夕方、茜川橋の上に六人が集まった。
阪神優勝の話題で持ちきりの健太と浩二、それを呆れながら聞く由香、カメラを構える達也。
真理は欄干にもたれて、赤く染まる川面を見つめていた。
美奈子は浩二の隣に立ち、空を見上げていた。
「なにニヤニヤしてんだよ、浩二」
健太が突っ込んだ。
「ニヤニヤしてないっす! 優勝の快感が残ってるだけっす!」
「嘘つけ。顔がデレデレだぞ」
「うるさいっす!」
達也がファインダーを覗き、茜川橋の上に並ぶ六人の姿をフレームに収めた。
西日が橋を真っ赤に染めていた。
二十一年ぶりの歓喜に沸く世の中の片隅で、秋は少しずつ、確実に深まっていた。
六人の影が、赤く染まった木造の橋の上に、長く伸びていた。




