第十四話 文化祭の騒動と集合写真
十月下旬。
茜ヶ丘高校の校舎は、一年で最も華やかで騒がしい熱気に包まれていた。
年に一度の文化祭「茜祭」を翌日に控え、放課後の校舎のあちこちから、合唱の歌声や吹奏楽のチューニング音、ペンキと濡れた段ボールの甘い匂いが漂っていた。
廊下には他クラスの模擬店の巨大なベニヤ板や演劇の小道具が積み上げられ、体操服や作業着姿の生徒たちがすれ違いざまに大声を掛け合っていた。
三年B組の出し物は、教室を改造した喫茶店『喫茶3B』だった。
「健太! そっちの看板、右が下がってる!」
真理が腕組みをして指示を出していた。
頭にはカラフルなカチューシャをつけ、すでに看板娘の気合十分だった。
「分かってるよ! 浩二、もっと右持ち上げろ!」
「これ以上上げたら、天井の蛍光灯に激突するっす!」
健太と浩二が二人がかりで持ち上げているのは、コンパネ三枚分を繋ぎ合わせた巨大な木製看板だった。
赤と黄色のペンキで『喫茶3B 美味しいコーヒーとナポリタン』と書かれているが、健太が書いた文字の太さがバラバラで、どこか味があった。
「健太、ふちにチェック柄のテープ貼ろうとか言うから重くなったんじゃないの」
「チェッカーズ風でおしゃれだろ!」
「おしゃれより安全第一!」
真理が言い返したその瞬間、案の定、みしっと嫌な音が響いた。
「浩二、力入れすぎ! 木枠がメリメリ言ってる!」
「すんませんっす! 力加減がわからないっす!」
角の飾り木がポロリと取れ、床にコロコロと転がった。
「あーあ・・」と健太が天を仰いだ。
「ご、ごめんっす! 俺が手がデカくて不器用なばっかりに・・!」
浩二が大きな体を縮こまらせ、本気で落ち込んだ顔をした。
となりにいた由香が、アディダスのジャージの袖を捲り上げて木枠を引っ張った。
「はいはい、落ち込まない! 私が針金と釘で補強するから!」とハンマーを手際よく振るう。
窓際では、美奈子がテーブルクロスにするチェック柄の布を丁寧に折り畳んでいた。
その横で、達也が三脚にセットしたキヤノンAE-1のレンズを布でキュッキュと拭いていた。
「達也さ、写真展示だけじゃなくて、喫茶店の記録係もやってよ」
健太がペンキのついた手で近づいてきた。
「断る。カメラが油やケチャップで汚れる」
「ケチ! 一枚くらい撮ってくれたっていいだろ!」
「明日の本番で、気が向いたら撮る」
達也はそう言って、ファインダー越しにドタバタと看板を直す健太と浩二の姿を一度だけ覗いた。
シャッターは切らなかったが、ピントだけはぴったりと合っていた。
翌日、文化祭本番。
秋晴れの澄み渡る空の下、校内は地域の人々や他校の女子高生、近所のおじいちゃんおばあちゃんで溢れ返っていた。
『喫茶3B』は大盛況だった。
真理と美奈子が白いエプロン姿で接客し、由香が厨房で手際よくお湯を沸かし、浩二が力仕事で重いドブ漬けの氷入れやプロパンガスの調整をこなしていた。
他校の女子生徒が「あの大きな人、力持ちでかっこいい!」と噂しているのを聞いて、浩二は顔を真っ赤にして氷をぶちまけそうになっていた。
健太はといえば、BGM係を担当していた。
ソニーのダブルラジカセを教卓に置き、自慢のカセットテープコレクションを流していた。
チェッカーズ、松田聖子、中森明菜。
教室の中は昭和ヒットパレードの趣だった。
「次の曲は、真理に捧げる『ジュリアに傷心』だ!」
健太がラジカセの再生ボタンを誇らしげに押した。
・・ガチャッ。
スピーカーから流れてきたのは、チェッカーズではなく、深夜の『オールナイトニッポン』のラジオCMと、健太自身の「あ、爪折るの忘れてた!」という大声の録音だった。
『・・ライオン歯磨きがお送りする、オールナイトニッポン! あ、爪折るの忘れてた! うわあ最悪!』
教室中に響き渡る健太の悲鳴の録音。
客席からドッと大爆笑が起こった。
「健太ーーーーーっ!!!」
真理の叫び声が響いた。
真理はトレーを抱えたまま、顔を真っ赤にして健太に詰め寄った。
「な、何流してるのよバカ!」
「間違えた! A面とB面間違えた!」
健太は真っ赤になってラジカセの停止ボタンを連打した。
浩二はナポリタンの皿を持ちながら大爆笑し、由香は腹を抱えてテーブルに突っ伏した。
そこへ、武田先生が佳代さんと八歳の明日香を連れて入ってきた。
「賑やかだな、三年B組」
「あ! 健太お兄ちゃん、また失敗してるー!」
明日香が指をさして笑った。
佳代さんは「あらあら、楽しそうねぇ」とお手製のエプロン姿の真理と美奈子を見て目を細めた。
「繁治さん、私たちもコーヒーいただきましょうよ」
「ああ。小林、ナポリタン大盛りで頼む」
「はいっす! 完璧なケチャップの量で作るっす!」
教室の中は、笑い声とナポリタンの香ばしい匂いに包まれていた。
午後四時。
文化祭が終わり、片付けがほぼ完了した。
教室の机と椅子は元通りに並べ直され、夕日が窓から長く差し込んでいる。
黒板には、生徒たちの落書きと『祝・文化祭成功!』の文字が残っている。
「ふう・・疲れたけど、楽しかったね」
真理がエプロンを外しながら、窓の外の茜空を見上げた。
「ねえ、記念にみんなで写真撮ろうよ」
美奈子が提案した。
「いいね!」由香が賛成した。
「達也、カメラ出せよ。今日は一枚も撮ってないだろ」
達也は黙って鞄からキヤノンAE-1と三脚を取り出した。
教卓の前に三脚を立て、カメラをセットする。
「全員、黒板の前に並べ」
健太、真理、美奈子、由香が黒板の前に並んだ。
だが、浩二だけが教室の後ろの机に座ったまま、動こうとしなかった。
「浩二、何してんだよ。早く来いよ」健太が呼んだ。
浩二は自分の大きな手を膝の上で固く握りしめ、視線を落としていた。
「・・俺は、いいっす」
「なんでだよ」
「俺・・背ばかりデカくて、角刈りで、ジャージだし・・みんなの中に混ざると、一人だけ浮いてて不格好っすから。中学の時から、集合写真見ると俺だけデカくて変だったっす。写真に残るの、なんか嫌っす」
浩二の声は低く、小さかった。
普段は明るく爆食いし、お調子者を演じている浩二が、ふと見せた強いコンプレックスだった。
自分の体の大きさ、不器用さに対する長年の引け目が、夕暮れの教室に静かに落ちた。
健太たちが息を飲んだ。
そのとき、美奈子がすっと歩み寄った。
美奈子は浩二の前の席に回ると、膝をつき、下から浩二の顔を覗き込んだ。
「浩二くん」
美奈子の声は、とても柔らかかった。
「浩二くんは、浮いてなんかいないよ」
浩二が小さく顔を上げた。
美奈子はまっすぐ浩二の目を見つめて、微笑んだ。
「大きな看板を一番に持ち上げてくれたのも、力仕事をしてくれたのも浩二くんでしょ? 浩二くんが真ん中にいてくれるから、みんな安心して笑えるんだよ。・・そのままで十分、かっこいいよ」
浩二の大きな目が、微かに揺れた。
「かっこいい・・っすか? 俺が?」
「うん。すごくかっこいい」
美奈子は優しくうなずき、浩二の手を軽く引っ張った。
「行こう、浩二くん。みんな待ってるよ」
浩二はしばらく美奈子の手を見つめていたが、やがて「・・っす」と小さく鼻を鳴らし、ゆっくりと立ち上がった。
その大きな背中が、夕日を受けて少しだけ誇らしげに見えた。
黒板の前に、六人が並んだ。
真ん中に大きな浩二。
そのとなりに美奈子。
健太と真理が並び、由香が腕を組んで立つ。
達也がセルフタイマーのレバーをカチリと下げた。
「十秒だ。変な顔するなよ」
達也が走って列の端に滑り込む。
チッチッチッチッ・・。
赤いランプが点滅し、電子音が規則正しく教室に響いた。
健太が前髪をサッと手で整えた。
真理がくすりと笑った。
浩二が胸を張り、美奈子がその横で静かに微笑んだ。
由香が健太の頭を軽く小突き、達也がいつものクールな顔で横を見た。
チチチチチ・・!
音のテンポが速くなる。
「はい、チーズ!」健太が大声を上げた。
・・パシャリ。
シャッターが落ちた。
窓から差し込む真っ赤な夕暮れの光が、六人の笑顔を鮮やかに切り取った。
「よし、撮れた」
達也が三脚からカメラを外し、裏蓋のフィルムカウンターを確認した。
二十四コマ目。
「現像したら、みんなに一枚ずつ渡す」
「楽しみにしてるっす!」浩二が元気に言った。
達也はカメラをケースに収めながら、心の中で静かに思った。
(一枚は・・渡さないで、取っておこう)
未来の自分が、どこで何をしていようとも。
この昭和六十年の十月、夕日の差す教室で、六人で笑い合ったこの瞬間。
この光だけは、絶対に失われないように。
達也はレンズの蓋をカチリと閉めた。
窓の外では、茜川が夕日を浴びて、静かに赤く燃えていた。
秋の風が、終わったばかりの文化祭の熱気を、ゆっくりと夜へ運ぼうとしていた。




