第十五話 拝啓、十五分後の君へ
十月も終わりに近づくと、夜の冷え込みは一段と厳しくなった。
街灯の少ない城下町の夜道には、茜川の水音が冷たく響き、自販機の明るい光や公衆電話ボックスの黄色い電球が、暗闇の中にぽつんと浮かび上がっていた。
「・・あ、真理?」
駅前の赤い公衆電話ボックス。
健太は受話器を肩と耳ではさみ、かじかむ指先で握りしめた百円玉を投入口へ滑り込ませた。
カチャリと重い音がして、電話機の小さな表示板に数字が浮かぶ。
ガラス窓は健太の吐く白い息でうっすらと白く曇った。
外の赤いポストがぼんやりと滲んで見えた。
足元から冷気がじんわりと這い上がってくる。
『健太? どうしたの、こんな遅い時間に』
受話器の向こうから、真理の声が聞こえた。
喫茶「茜」の二階にある居間の黒電話かららしかった。
後ろでテレビのニュースの音がかすかに混ざっていた。
「いや、ちょっと・・来週のテストの範囲、どこだっけと思ってさ」
『嘘言いなさい。明日土曜日でしょ』
「あ、そっか。曜日まちがえた」
健太は空いた手で鼻の頭をこすった。
電話ボックスの中は風こそ防げるが、鉄とガラスの冷たい匂いが満ちていた。
ポケットを探ると、指に触れたのは十円玉が二枚と、ギターの三角ピックだけだった。
『なに? 用がないなら切るよ』
「待てよ! 用はあるよ」
『なにさ』
「ええと・・チェッカーズの新しいアルバム、買ったんだよ」
『それだけ?』
「それだけじゃない! あのさ・・真理、東京の準備とか、進んでるのか?」
『うん。まあね。アパートの資料とか、お母さんと見たりしてるよ』
真理の声は静かだった。
健太は受話器を握る手に少しだけ力を込めた。
「あのさ・・真理」
健太が息を吸い込んだ、そのときだった。
・・チャリン、チャリン、ボトン。
電話機の中で、百円玉が底へ落ちる鋭い金属音が響いた。
デジタル表示のない赤い電話機の上の小さな赤いランプが、激しくパチパチと点滅を始める。
「あ、やばい、百円が・・!」
『健太? 切れちゃうよ?』
「真理、あのさ! 俺、お前が東京行っても・・」
・・ツーツー、ツーツー。
無機質な機械音が耳の奥で途切れた。
言葉は途中で立ち消えた。
受話器を耳に当てたまま、健太はしばらく動けなかった。
冷たくなった緑色の受話器を静かにフックに戻した。
カチャン、と重い金属音が狭いボックス内に響き渡った。
言えなかった。
「好きだ」という一番言いたかった言葉。
百円玉一枚の時間の壁に阻まれ、暗い夜の空気の中に消えてしまった。
健太は曇ったガラスを上着の袖で拭き、夜の道へ歩き出した。
木枯らしが首元を吹き抜けていった。
その夜、健太は自分の部屋の学習机に向かっていた。
ナショナルの蛍光灯スタンドが、青白い光で机の上を照らしている。
壁にはチェッカーズのポスターが貼られていた。
棚には録音したカセットテープがギッシリと並んでいた。
健太は引き出しの奥から、シンプルな白い便箋と二Bの濃い鉛筆を取り出した。
妹の部屋からイチゴ柄の便箋を借りようかとも思ったが、流石に恥ずかしくてやめた。
電話じゃ駄目だ。
百円玉の落ちる音に追われる会話じゃ、本当のことは言えない。
黒電話の横でお互いの親の気配を気にしながらじゃ、声が震えて逃げてしまう。
健太は便箋に鉛筆の芯を当てた。
『真理へ』
一行書いたところで、手が止まった。
何を書いていいか分からない。
手紙なんて、武田先生に提出させられた反省文くらいしか書いたことがなかった。
「拝啓」なんて書いたら浩二の二の舞だ。
「時下ますますご清祥」なんて書いたら真理に鼻で笑われる。
健太は鉛筆を握り直し、思いつくままに文字を躍らせた。
『さっきは電話が途中で切れてごめん。百円玉がなくなった。東京に行くこと、本当はおめでとうって言わなきゃいけないのに、俺、ずっと嫌な顔しててごめん。真理が遠くに行くのが、なんかすごく嫌なんだ。茜川橋に行けばいつも真理がいて、喫茶店に行けばクリームソーダ出してくれるのが当たり前だと思ってたから。』
ここまで書いて、健太は鉛筆を置いた。
プラスチックの角ばった消しゴムを取り出し、後半の二行を力任せに消した。
ゴシゴシ、ゴシゴシ。
便箋の上に白い消しゴムのかすが山のように溜まった。
消した後の紙面には、黒い鉛筆の痕がうっすらと窪みとなって残っていた。
紙が少し波打っている。
消しても、書いた熱量は消えなかった。
健太は消しゴムのかすを息でフッと吹き飛ばし、新しい行に書き直した。
『東京に行っても、俺のこと忘れるなよ。真理が東京で悲しいことがあったら、俺がいつでも新幹線に乗って飛んでいくから。・・ずっとお前のことが好きだ。』
書き終えたとき、深夜の一時を過ぎていた。
健太は便箋を丁寧に四つ折りにした。
便箋の角をきっちり揃えて折る。
指先に力を込めると、紙がピシッと音を立てた。
封筒に入れ、裏の糊を指でぬらす。
手紙は、声と違って形が残る。
書いた文字の筆圧も、消しゴムで消した痕も、紙の重さも、全部がそのまま相手に届く。
携帯電話もメールもない昭和六十年の秋、一通の手紙を出すことは、自分の心の一部を切り取って相手に手渡すような重さを持っていた。
健太は机の上で、完成した封筒をしばらく見つめていた。
翌週の月曜日。
放課後。
深い茜色の夕空が、茜川橋を真っ赤に染めていた。
学校帰りの生徒たちがガタゴトと橋を渡っていく。
健太は橋のたもとの大きな柳の木の横で立っていた。
鞄の持ち手を固く握りしめ、上着のポケットの中の封筒を何度も確かめていた。
カランコロン、と下駄の音が聞こえた。
真理だった。
制服の上に紺色のカーディガンを羽織り、一人で歩いてきた。
「健太? こんなところで何してるの」
真理が立ち止まった。
健太はポケットから、白い封筒を取り出した。
切手は貼っていない。
直接渡す手紙だった。
「・・これ」
健太は手紙を差し出した。
真理の目の前に、四角い封筒が差し出された。
「なに、これ」
「手紙」
「手紙?」
真理が目を丸くした。
「この前、電話途中で切れただろ。・・だから、書いたんだよ。読むなら、家で読めよ」
健太はそれだけ一気に捲し立てると、手紙を真理の手に押し付けるようにして渡した。
真理の指先が、封筒に触れた。
「健太・・」
「じゃあな!」
健太は振り返りもせず、走って茜川橋を渡っていった。
その背中は、夕日の中に小さくなっていった。
真理は橋の上にぽつんと残され、手に握られた封筒を見つめた。
表には、健太の下手くそで太い文字で『高橋真理様』と書かれていた。
封筒から、微かに健太の部屋の匂いがした。
その夜。
喫茶「茜」の二階、真理の部屋。
スタンドライトの温かい光の下、真理はベッドの上に座っていた。
カッターナイフで丁寧に封筒の端を切った。
中から取り出した折りたたまれた便箋。
広げると、健太の素直で不器用な文字が目に飛び込んできた。
文字のあちこちに、消しゴムで強く擦った痕があった。
紙が少し破れそうなくらい薄くなっている。
健太が何度も迷い、何度も書き直した時間が、その紙面からそのまま伝わってきた。
『・・ずっとお前のことが好きだ。』
最後の行を読んだとき、真理は胸の奥がキュッと締め付けられた。
便箋をそっと胸に抱きしめた。
涙がポロリと一つ目からこぼれ、膝の上のスカートに小さな染みを作った。
机に向かい、引き出しを開けた。
イチゴ柄のレターセットと、健太からもらったカセットテープを取り出した。
インデックスカードの裏。
健太の字が書いてあるその余白に、ピンクのボールペンで小さな文字を書き始めた。
『健太へ。手紙、ありがとう。消しゴムの痕、紙が破れそうだったよ。私もね、電話が切れたあと、ずっと言いたかったことがあったの。』
手紙は、十五分後の二人をつなぐ時間だった。
投函してから届くまでの時間、手渡してから読まれるまでの時間。
そのじれったい『間』があるからこそ、言葉は温まり、心に深く刺さるのだ。
窓の外では、茜川が秋の夜の闇の中を、サラサラと音を立てて流れていた。
二人の距離は、一通の手紙によって、確かに強く引き寄せられていた。




