第十六話 先生の涙とサプライズ
十一月に入ると、城下町の秋はいよいよ深まりを見せていた。
山々の紅葉は鮮やかなピークを迎え、茜川の川面には色づいた落ち葉がいくつも浮かんで流れていた。
風は日ごとに冷たさを増し、夕暮れ時には吐く息がうっすらと白くなり始めていた。
三年B組の教室の雰囲気は、どこか重く沈んでいた。
その原因は、たぶん、担任の武田繁治だった。
「・・はい、今日の国語はここまでだ」
武田先生が出席簿を静かに閉じた。
いつもなら授業の後半に脱線して「俺の高校時代のラグビー部での伝説」や「男の生き様」について長話の説教を始めるはずの先生が、ここ一週間ほど、めっきり静かになっていた。
顔色も少し青白く、胸ポケットからハイライトを取り出す手もどこか力がない。
放課後になると、進路資料の詰まった厚いファイルを抱え、ため息をつきながら職員室へ戻っていくのだった。
「武田先生、どうしたんだろうな」
放課後の廊下で、健太が首を傾げた。
「なんか、いつもの元気が全然ないっすよ」と浩二が心配そうに言った。
「説教がないと、調子が狂うっす」
「進路指導の会議が連日あるらしいよ」と学級委員の真理が言った。
「武田先生、私たちの進路のことですごく悩んでるみたいなの。親御さんとの面談の合間に、一人で教卓で頭を抱えてるの見たよ」
達也がカメラケースを肩にかけながら、静かに言った。
「うちの親父とも電話で揉めてたらしい。俺の写真学科の件」
美奈子がコバルト文庫を胸に抱きしめた。
「自分のことみたいに、私たちの将来を心配してくれてるんだね」
「頼りないくせに、一人で抱え込んでバカだよね」と由香が笑ったが、その目は優しかった。
健太がポンと手を叩いた。
「なあ、みんな。今週の十一月十二日って、何の日か知ってるか?」
全員が健太を見た。
「学級名簿の先生の生年月日見たんだけどさ。武田先生、四十一歳の誕生日なんだよ!」
「マジで!?」と浩二が大声を上げた。
「いつも俺たちのことで悩んでる先生を、たまには俺たちで元気づけようぜ! 武田家で誕生日サプライズやるぞ!」
「賛成!」由香が即座に言った。
真理も美奈子も笑顔でうなずいた。
その日の夕方、六人は放課後にこっそり武田家へ向かった。
チャイムを押すと、エプロン姿の佳代さんが顔を出した。
「あらあら、みんな揃ってどうしたの?」
健太が声をひそめて言った。
「佳代さん! 今週の十二日、先生の誕生日ですよね? 俺たちでサプライズパーティーやりたいんです!」
佳代さんは一瞬目を丸くし、それから胸に手を当てて、ふわりと温かい笑顔を浮かべた。
「まあ・・! 繁治さんの誕生日を祝ってくれるの? 素敵ねぇ!」
「パパの誕生日!? アタシもやるー!」
奥から八歳の明日香が飛び出してきた。
「佳代さん、当日の夜、先生を驚かせたいんです。全面協力してもらえますか?」
「もちろんよ!」
「よし、作戦開始だ!」
健太が拳を突き上げた。
十一月十二日、水曜日の夜。
午後七時前。
武田先生が重い足取りで自分の家の玄関を開けた。
「ただいま・・佳代、今日の面談も長引いてな・・生徒たちの未来を預かると思うと、胃が痛くてたまらんよ・・」
先生はため息をつきながら、靴を脱いで廊下に上がった。
居間のドアを開けた、その瞬間。
バババーン!!!
クラッカーの弾ける鋭い音が居間に響き渡った。
金テープと銀テープがパッと舞い散る。
「武田先生! 四十一歳のお誕生日おめでとうございます!!!」
六人の大歓声が響いた。
武田先生は「うわあああ!?」と声を上げて後ろにひっくり返りそうになった。
居間のローテーブルの上には、佳代さんが作ったご馳走と、手作りの大きなバースデーケーキが置かれていた。
壁には健太たちが作った『祝・武田繁治先生41歳!』の手書きの横断幕が掲げられている。
明日香が三角帽子をかぶって「パパ、おめでとうー!」と躍り出た。
「お前ら・・な、何なんだこれは!?」
武田先生は目を丸くして、呆然と居間に立ち尽くしていた。
「サプライズっすよ、先生!」
浩二が満面の笑みで言った。
「いつも俺たちのために頭痛めてる先生に、感謝のお祝いっす!」
「佳代・・お前、知ってたのか?」
佳代さんはお盆を抱えてニコニコと微笑んだ。
「当たり前じゃない。みんなで一週間前から準備してたのよ。さあ、座って座って!」
宴が始まった。
佳代さんの特製から揚げや煮物、寿司が並んでいた。
浩二が真っ先に唐揚げを頬張った。
明日香が健太の膝の上に乗って「健太お兄ちゃん、ジュース!」とはしゃいでいた。
先生は最初は戸惑っていたが、出されたお茶を飲み、ケーキの蝋燭を吹き消すうちに少しずついつもの表情を取り戻していった。
「よし、先生! プレゼントの時間っす!」
浩二が大きな箱を差し出した。
「これ、俺が昨日から作ってきた和菓子っす! スイートポテトのお饅頭っす! 見た目はアレっすけど、味は保証するっす!」
「おう・・ありがとう、小林」
次に、真理と美奈子と由香が、大きな色紙を渡した。
「クラス全員からの寄せ書きです」と真理が言った。
「先生の説教のマネとか、感謝の言葉が書いてあります。あと、これ・・」
由香がポケットから、赤いハイライトのカートンを出した。
「タバコの吸いすぎは体に悪いけど、先生にはハイライトが一番似合うから」
「お前ら・・生徒が教師にタバコを贈るやつがあるか」と言いながらも、先生は嬉しそうに受け取った。
続いて、健太が手作りのカセットテープを渡した。
「先生が好きなさだまさしと、昭和フォーク集めて録音したっす! インデックスカードも俺が手書きで曲名書いたんで!」
「ありがとう、佐藤」
最後に、達也が静かに一冊の薄いアルバムを差し出した。
「これ・・です」
武田先生がアルバムを開いた。
そこには、この半年間、達也が密かにカメラで切り取ってきた武田先生の姿が収められていた。
黒板の前で熱弁を振るう姿。
ラグビーボールを触りながら遠くを見る横顔。
武田家のコタツで生徒と一緒に笑う顔。
廊下で説教をしながらも優しい目をした顔。
どれも、ピントが完璧に合っていた。
武田繁治という一人の人間の温かさと情熱が、鮮やかに焼き付けられていた。
「渡辺・・お前、いつの間に・・」
武田先生の指が、アルバムの写真をなぞった。
居間が、静かになった。
武田先生はアルバムを見つめたまま、じっと動かなかった。
やがて、先生の肩が、ヒクッと大きく揺れた。
「・・先生?」
健太が覗き込んだ。
武田先生はボロボロと涙を流していた。
肘当てのついたジャケットの袖で、目をゴシゴシと力任せに擦った。
だが、涙は次から次へと溢れ出て、止まらなかった。
「バカ野郎・・お前ら、バカ野郎・・」
先生の声が、完全に潰れていた。
「俺はな・・毎日悩んでたんだよ。お前たちの進路希望票を見るたびに、俺みたいな頼りない教師が、お前らの大事な人生を背負っていいのかって・・不安でたまらなかったんだ・・」
先生は鼻をすすり、しゃくりあげながら言った。
「なのに・・お前らは・・こんな・・」
浩二が目頭を押さえた。
真理と美奈子が静かに涙ぐみ、由香が明後日の方向を向いて鼻を鳴らした。
達也は静かに先生を見つめていた。
佳代さんが台所の陰から、優しく微笑みながら夫の泣き顔を見つめていた。
明日香が「パパ、大人のくせに泣いてるー!」と笑いながら、先生の背中をトントンと叩いた。
先生は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。
「俺はお前たちの担任になれて・・世界一幸せだ! お前らも、絶対に幸せになれよ! 自分の決めた道を、胸張って進めよ!」
「はいっす!」
浩二が大声で返事をした。
「分かってるよ、先生!」
健太も泣き笑いで叫んだ。
夜が深まり、十時を過ぎた。
お祝いが終わり、六人は武田家の玄関で靴を履いていた。
先生は目を真っ赤にし、少し照れくさそうに照れ笑いを浮かべながら、玄関で見送ってくれた。
首には健太があげたカセットテープのインデックスカードが覗いていた。
「風邪ひくなよ。気をつけて帰れ」
「先生も、胃薬飲んで寝てくださいね」と真理が言った。
「ああ。・・ありがとうな、みんな」
玄関を出ると、十一月の夜風がひんやりと頬を撫でた。
空には満天の星が輝いていた。
六人は並んで、茜川へ続く暗い夜道を歩いた。
「武田先生、泣きすぎだよね」と由香が笑った。
「でも、すっきりした顔になってたっすね」と浩二が言った。
健太は空を見上げた。
「俺たち、いい先生に巡り会えたな」
「うん」と真理が小さくうなずいた。
遠くから、茜川の冷たく澄んだ水音が聞こえていた。
初冬の気配が城下町に忍び寄るころ、六人と一人の教師のあいだには、囲炉裏火のような絆が静かに息づいていた。




