第十七話 紅葉の茜川橋にて
十一月の終わり。
郡上八幡を包む城山の紅葉はいよいよ最後の輝きを放っていた。
茜川のせせらぎには、日増しに多くの赤や黄色の落ち葉が浮かんで流れていた。
朝の城下町は薄い霧に包まれ、古びた瓦屋根のあちこちから風呂焚きや薪ストーブの香ばしい青い煙が細く立ち上っていた。
路地の苔むした石畳を踏むと、足元からしんと冷気が靴底を通して伝わってくる。
校庭には白い霜が降り、体育の授業でグラウンドを走る生徒たちの吐く息は真っ白だった。
木造校舎の廊下の窓を開けると、北風がピシッと肌を刺す。
ガラス窓のすき間から、ツーンとする冬の匂いが入り込んでくる。
昭和六十年の秋が、静かに、そして確実に幕を閉じようとしていた。
三年B組の教室は、十月までのお祭り騒ぎのような空気から、どこか引き締まった緊張感へと変わりつつあった。
教卓の横の掲示板には、願書提出のスケジュールや、共通一次試験までのカウントダウン日めくり、各種試験の判定基準がズラリと張り出されている。
チョークの粉の匂いと、ストーブの周りに置かれた湿った木製の机の匂いが、教室を満たしていた。
「浩二くん、この計算問題はね、最初にここを括り出すと簡単になるよ」
放課後の図書室。
静まり返った閲覧席で、美奈子が浩二のとなりに座り、シャープペンシルでノートの余白に丁寧な図を書いていた。
カリカリというシャープペンの音と、古い書籍の紙の匂いが漂う。
「おお・・! わかりやすいっす美奈子ちゃん! 俺の頭のモヤモヤが一気に晴れたっす!」
浩二が大きな声を上げた。
図書委員の生徒に「シッ」と目で窘められて、大慌てで両手で口を押さえた。
大きな指の間から、ふうと白い吐息が漏れる。
巨大なアルマイトのドカ弁はかたわらに置かれていた。
太い指で合格祈願の鉛筆を力任せに握りしめていた。
「私、浩二くんが頑張ってるの見ると、すごく勇気もらえるの」
美奈子がそっと微笑み、膝の上の生成りのスカートを指先でなぞった。
「私も、家の手伝いをしながら、物語を書く勉強続けようって思えるから」
「美奈子ちゃん・・俺、絶対合格してみせるっす!」
浩二は太い眉をキュッと下げ、真剣な目で美奈子の横顔を見つめた。
一方、教職員室のとなりの相談室では、真理が武田先生と面接練習をしていた。
小さな石油ストーブがカタカタと音を立てて煮え、部屋には灯油の甘い匂いが充満していた。
「高橋、なぜ東京の服飾短大を選んだ?」
武田先生がメガネを鼻の頭に引っかけて、面接官の堅い顔を作っていた。
手元の赤ペンを指先でトントンと机に叩く。
「はい。東京で最先端の服飾デザインを学び、将来は自分の手で人を幸せにする衣服を作りたいからです」
真理の答える声には迷いがなかった。
膝の上で重ねた手の指先に、少し力が入っていた。
夏祭りの夜、茜川橋の下で「怖くてたまらない」と涙ぐんだあの弱々しい表情は消え、まっすぐ前を見据えていた。
武田先生はしばらく真理の目を見つめ、フッと目元を緩めた。
「合格だ。お前はもう大丈夫だな」
となりの教室では、達也が鞄に日本大学芸術学部写真学科の願書を丁寧に収めていた。
ジッパーを閉める静かな音が響く。
父親との激突を経て、自分で第一希望の欄に書いた文字は、もう揺らいでいなかった。
今朝の食卓。
出汁と味噌汁の湯気が立つ中で、父は何も言わずに、願書用の証明写真代として新札の千円札を二枚、黙って食卓の上に置いた。
言葉はなくても、それが父なりの不器用な承認なのだと達也は受け取っていた。
健太は自習時間に自分の机の引き出しを整理しながら、みんなの様子を交互に見ていた。
首のウォークマンは今日は静かだった。
真理が東京へ行く現実、自分がこの町に残る現実。
その二つの間にある距離の重さを、健太は静かに噛みしめていた。
「・・行かないか」
放課後、健太が図書室や相談室から戻ってきた仲間たちに声をかけた。
誰も「どこ?」とは聞かなかった。
茜ヶ丘高校の古びた門を出て、六人は並んでゆるやかな坂道を下りて行った。
落ち葉を踏みしめるカシャカシャという音が、静かな路地に響く。
十一月最後の夕暮れ。
西の空は、この一年の中で最も深い、燃えるような茜色に染まり始めていた。
道沿いの赤いポストの横にある自販機の前で立ち止まり、それぞれが温かい飲み物を買った。
100円玉をチャリンと投入口に落とす冷たい金属音。
ガコンと重い音を立てて落ちてくる缶。
達也と健太は赤と黒のUCC缶コーヒー、浩二はおしるこ缶、由香はポカリスエットの代わりに温かいほうじ茶、真理と美奈子はレモンティーの缶を買った。
「あー、温かい!」
健太が缶を両手で包み込み、冷え切った頬に当てて「はぁ」と温かい息を吐いた。
缶の温もりが伝わった。
茜川橋に着いたとき、全員が思わず足を止めた。
木造の古びた茜川橋とその周囲を彩るモミジの木々が、沈みゆく夕日の光を真っ向から浴びていた。
橋全体が真っ赤な炎に包まれているかのように輝いていた。
川面にもその色がくっきりと映り、水流が赤く揺れていた。
春の淡いピンク混じりの茜色でもなく、夏の眩しい橙色でもない。
深みと静けさを湛えた、晩秋の茜色だった。
「すごい・・」と浩二が呟いた。
六人は橋の中ほどまで歩き、いつものように欄干に一列に並んだ。
冷たい風が川上から吹き抜けていく。
健太は上着の首元をすくめ、缶コーヒーのプルタブを開けた。
パキッという音が夜前の空気に響き、温かいコーヒーを一口飲んだ。
苦くて甘い味が喉を通る。
「もうすぐ十二月だな」と健太が言った。
「そうだね。あっという間だったね」と真理が川を見つめながら答えた。
風が吹き、真理のまとめた髪からほつれた一筋が、頬を撫でた。
「卒業まで、あと三か月ちょっと」
由香が缶おしるこのあずきを口に運びながら言った。
「早すぎるっすよ・・」浩二が寂しそうに溢した。
言葉が途切れた。
川のせせらぎの音だけが、サラサラと響いていた。
健太は缶コーヒーを握りしめたまま、横に立つ真理を見た。
夕日を浴びた真理の横顔の輪郭が、赤く美しく浮かび上がっていた。
真理の長い睫毛が、夕光を受けて黄金色に光っている。
健太の脳裏を、この一年の出来事が走馬灯のように駆け巡った。
四月の出会い。
コード三つで失敗したギター。
五月の喫茶茜での甘いクリームソーダ。
七月の川跳び込み。
八月の夏祭りの夕立と橋の下での告白。
十月の文化祭での集合写真。
十一月の武田先生の涙。
どの記憶もすごく鮮明なのに、時間は容赦なく過ぎ去っていく。
健太の胸の奥から、温かく切ないものが込み上げてきた。
「俺たち、これからもずっと・・」という言葉が、喉のすぐ下まで出かかった。
『ずっと友達でいよう』。
その言葉を口に出そうとして、健太は呑み込んだ。
喉をごくりと鳴らし、缶のフチをじっと見つめた。
となりに立つ達也も、美奈子も、由香も、浩二も、誰もその言葉を言わなかった。
言えなかったのではない。
その言葉の「重さ」を知っていたから。
春になれば、真理と達也は東京へ旅立つ。
浩二は岐阜の学校へ行き、健太や由香、美奈子もそれぞれの道を歩み始める。
お互いの生活が変わり、住む場所が離れ、連絡が少しづつ減っていく。
誰もがうすうすその現実を考えていた。
「ずっと友達」なんて簡単な言葉では言えないほど、この一年は特別で、大切なものだった。
言葉にしなくても、分かっていた。
言わないことが、お互いに対する一番の誠実さであり、優しさだった。
健太は缶コーヒーを一口含み、ゴクンと音を立てて呑み込んだ。
六人の間の静かな沈黙が、何よりも一人ひとりの心を繋いでいた。
達也が、三脚を使わずにカメラを構えた。
キヤノンAE-1の重い金属ボディを両手でしっかり固定し、ファインダーを覗く。
レンズのピント環を回す微かな触感が指先に伝わる。
真っ赤に染まる茜川橋。
欄干にもたれて、同じ夕日を見つめる五人の仲間たち。
その背中に、長く長く伸びる五つの影。
達也は息を止めた。
シャッタースピード、六十分の一秒。絞り、五・六。
・・パシャリ。
金属質な軽いシャッター音が、秋の風の中に溶けた。
ミラーが跳ね上がる感触が手に残る。
「撮ったの?」
真理が振り返った。
真理の目が、夕日を映して丸く輝いていた。
「ああ」と達也は短く答えた。
「きれいに撮れた?」と美奈子が聞いた。
「現像してみないとわからない」
達也はいつもの台詞を言ったが、その目元は柔らかかった。
「でも、悪くないと思う」
「見せてね、今度」
由香が笑った。
風が強く吹き抜け、モミジの赤い葉が一斉にハラハラと大量に舞い散った。
六人の頭や肩、川面に降りかかった。
視界全体が赤く染まる。
「うわ、寒っ!」
健太が首をすくめて跳ね上がった。
「寒がってんじゃないよ、健太」
由香が笑いながら健太の背中をバシッと叩いた。
「痛ぇな! よーし、寒くなってきたから走って帰ろうぜ!」
健太が叫び、橋の上を走り出した。
「あ、ズルいぞ健太!」
浩二が大きな体を揺らして追いかけた。
ドタバタと橋板が鳴った。
「待ちなさいよ二人とも!」
真理と由香が笑いながら走り出し、美奈子も楽しそうにその後を追った。
達也はカメラをケースに収めると、ゆっくりと走り出した五人の背中を追いかけた。
茜色に染まる橋の上を、六人の影が弾むように駆け抜けていく。
白い息をはき出しながら。
寂しさを振り払うように。
自分たちの待つ未来に向かって、一歩一歩、力強く地を踏みしめて。
昭和六十年の秋が終わりを迎えていた。
試練と別れの冬が、すぐそこまで近づいていた。




