第十八話 豪雪の日の補習授業
十二月中旬の朝。
目覚めた瞬間、世界から一切の音が消えていた。
健太が自分の部屋のカーテンを開けると、目に飛び込んできたのは眩しいほどの白銀の世界だった。
昨夜から降り続いた雪は、城下町の古い瓦屋根も、庭の柿の木も、静まり返った路地も、すべてを分厚い純白の綿で覆い尽くしていた。
茜川の土手はどこが岸でどこが川なのか分からなくなるほど雪が積み上がり、木造の茜川橋も白い帯となって静かに横たわっていた。
AM七時三十分。
街の防災行政無線のスピーカーから、ノイズ混じりの声が響いた。
『・・大雪警報発令のため、本日の町立・県立の小中高校は、すべて臨時休校とします。児童・生徒は外出を控え・・』
「休校だ!」
健太は思わず叫んだが、その声は部屋の壁に吸収されるように消えていった。
学校が休みになった嬉しさは一瞬で、すぐに強い手持ち無沙汰と寂しさが襲ってきた。
一次試験まであと一か月と少し。
家で一人で勉強しようとしても、机に向かうと余計に不安が膨らむだけだった。
健太は長靴を履き、分厚いジャンパーを羽織って外へ出た。
サクッ、サクッ。
誰も踏んでいない新雪を踏みしめる音が、静かな朝の空気に響く。
吐く息は真っ白で、吸い込む空気は鼻の奥がツーンと痛むほど冷たかった。
茜川橋の方へ歩いていくと、反対側の路地から、大きな黒い影が雪を掻き分けるように歩いてくるのが見えた。
「・・浩二?」
「あ、健太!」
フードをかぶった浩二が、白い息を吐きながら手を振った。
「お前も出てきたのか」
「家でじっとしていられなかったっすよ。勉強しようとすると、お腹が減って・・」
「お前らしいな」
ふたりが橋のたもとで立ち止まっていると、川沿いの道から、一眼レフを首から下げた達也が歩いてきた。
さらに、向こうの坂道から、毛糸の帽子をかぶった真理と美奈子、ジャージの上にダウンを着た由香が、肩を寄せ合うようにして歩いてくるのが見えた。
誰も連絡を取り合ったわけではなかった。
黒電話をかけることもなく、吸い寄せられるように、六人は雪の茜川橋のたもとに揃ってしまった。
「みんな、来たんだ」と真理が驚いたように言った。
白い毛糸のマフラーに顔を埋めている。
「休みになったけど、なんか家にいられなくてさ」と健太が言った。
「行き場所、ないよね」由香が笑いながら息を吐いた。
「・・行くか」達也が言った。
「どこへっすか?」浩二が尋ねる。
達也は言葉の代わりに、川上の方を顎でしゃくった。
そこには、武田先生の家があった。
玄関のチャイムを鳴らすと、奥からトントンと足音がして、佳代さんがドアを開けた。
「あらあらあら! みんな、こんな大雪の日にどうしたの!?」
佳代さんは目を丸くし、すぐに破顔した。
「ほら、早く入りなさい! 外は凍えるでしょ!」
「お邪魔しまーす」
六人は玄関に上がり、長靴についた雪をトントンと落とした。
かじかんだ手でコートを脱ぐ。
玄関には、すでに武田先生の古びた革靴と、ハイライトのタバコの匂いがほのかに漂っていた。
居間に入ると、真ん中に大きな長方形のコタツが据えられていた。
その横で石油ストーブが赤く燃え、部屋の空気をあたためていた。
ストーブの上のアルミヤカンからは、シュンシュンと白い蒸気が立ち上り、部屋全体が灯油とみかんの甘い匂いで満ちていた。
「なんだお前ら、休校なのに校外指導か?」
コタツの奥から、武田先生が顔を出した。
肘当てのついたジャケットの代わりに、渋い紺色の半纏を着ている。
膝の上には八歳の明日香が乗っていた。
「先生、家で勉強してたら寒くて・・」健太が言った。
「ウソつけ。どうせ家におられんかったんだろ。ほら、入れ入れ。狭いがお互い詰めて座れ」
六人は吸い込まれるようにコタツの中に足を滑り込ませた。
「うわぁ、温かいっす・・」
浩二が幸せそうに目を細めた。
コタツの中はお互いの足が交差して狭かったが、その密着感がかえって心地よかった。
佳代さんが大きな皿に山盛りのみかんと、醤油の小皿を持ってきた。
「繁治さん、ストーブでお餅焼きましょうよ。お腹空いてるでしょ、みんな」
「おう、金網を出してくれ」
武田先生がストーブの上に四角い金網を載せ、丸餅をいくつも並べた。
しばらくすると、プシューと音がして餅がぷっくりと膨らみ始め、おいしそうな焦げ目がつき始めた。
醤油の香りがジューッと立ち上り、居間全体に広がっていく。
「はい、浩二くんからね」
佳代さんが熱々の餅を皿に取ってくれた。
「いただきますっす!」
浩二がハフハフと息を吹きかけながら餅を口に運ぶ。
みたらし醤油の香ばしさとモチモチした食感に、「うまいっす、生き返るっす・・」と涙目になっていた。
美奈子はみかんの皮を丁寧に剥いていた。
黄色い皮を四つに開き、白い筋を指先でひとつひとつ取り除いている。
その所作があまりにも几帳面で、となりの由香が「美奈子ちゃん、筋まで取るの?」と笑った。
「うん、取る方が甘く感じるから」美奈子は微笑み、剥いた半分を浩二の皿に載せた。
「はい、浩二くん、どうぞ」
「あ、ありがとうっす!」
浩二の顔が餅より赤くなった。
コタツの下では、明日香が健太の足をこっそり爪先で突っついた。
「健太お兄ちゃん、宿題終わったの?」
「終わったよ! とっくに、完璧!」
「嘘つき、パパが『佐藤は英語が全滅だ』って昨日言ってたよ」
「明日香! 余計なことを言わない!」
先生が慌てて明日香の頭を撫で回した。
部屋の中に笑い声が弾けた。
しかし、餅を食べ終え、お茶をすすっていると、ふとした瞬間に会話が途切れた。
ストーブのやかんのシュンシュンという音と、外のしんしんと降る雪の音だけ。
壁のカレンダーには、大きく『12月』と書かれ、一次試験の日に赤い丸印がつけられていた。
「・・先生」
健太が缶のお茶を見つめながら口を開いた。
「何だ、佐藤」
「俺・・本当にこのままでいいのかな」
健太の声は小さかった。
「真理や達也は東京に行く決意をして、浩二も自分の道を選んだ。でも俺・・地元に残って働くことしか考えてなくて。なんか、俺だけ置いていかれるような気がして」
居間が静まり返った。
真理が膝の上で両手をギュッと握りしめた。
真理自身も、東京へ行くことが決まりつつある中で、実家の喫茶茜を一人で守る母親を残していく罪悪感と、誰も知らない大都会へ飛び込む恐怖に、押しつぶされそうになっていた。
達也は静かにみかんの皮を弄んでいた。
父親との表面上の対立は収まったものの、写真学科へ進んだところで、本当に写真家として食べていけるのか。
その冷酷な現実が、胸の奥に重くのしかかっていた。
「・・俺だって、怖いっすよ」
浩二がボソリと言った。
「農業大学校の試験、来月っす。落ちたらどうしようって、毎晩夢に見るっす。俺、不器用だから・・」
六人全員が、それぞれの将来という名の不透明な壁を前に、足がすくんでいた。
武田先生はハイライトに火をつけた。
紫煙が天井へゆらゆらと昇っていく。
「お前らな」
先生は静かに口を開いた。
「不安なのは、お前らが自分の人生を真剣に生きようとしとる証拠だ。何も考えてない奴は、不安にすらならん」
先生はハイライトの灰をトントンと灰皿に落とした。
「転んだらまた起き上がればいい。逃げたくなったら、この茜川橋へ戻ってくればいい。俺も佳代も、ここでお前らを待っとる」
佳代さんが台所から優しく声をかけた。
「そうよ。いつでもカレー作って待ってるわ」
午後五時を過ぎると、外の景色はあっという間に深い濃紺色へと変わっていった。
雪は勢いを増し、武田家の庭の木々を白く重く押し曲げていた。
窓ガラスには内側の熱気でびっしりと水滴がつき、外の白い世界がぼんやりと滲んでいた。
「さあ、晩ご飯食べていきなさい!」
佳代さんが大鍋を抱えて居間に戻ってきた。
フタを開けた瞬間、スパイスと玉ねぎの甘い香りが一気に広がった。
黄色く輝くカレールーの中に、大きめに切られた人参とじゃがいも、豚肉がゴロゴロと転がっている。
「うわぁ、カレーだ・・!」浩二の目が輝いた。
佳代さんは大きな深皿に温かいご飯を盛り、カレーをたっぷりとかけて全員に配った。
「いただきまーす!」
六人は一斉にスプーンを動かした。
口に運ぶと、まずコクのある甘みが広がり、後からピリッとした辛さが追いかけてくる。
いつもの佳代さんのカレーだった。
温かいルーが胃の中に落ちていくたびに、身体の奥からポカポカと温かさが広がっていった。
「うまいっす、やっぱり佳代さんのカレーが一番っす・・」
浩二が二杯目を早々に平らげながら言った。
真理も、美奈子も、由香も、黙々とスプーンを動かしていた。
達也も何も言わずに完食し、おかわりをもらっていた。
健太はカレーを口に含みながら、居間の風景をゆっくりと見回した。
ストーブの赤い火の揺らめき。
やかんから立ち上る白い蒸気。
ブラウン管テレビから流れるニュースの音。
明日香の無邪気な笑い声。
佳代さんの優しい微笑みと、武田先生のタバコの煙。
そして、となりに座る仲間たちの温かい体温。
・・この場所が好きだ。
健太は胸の奥で強く思った。
この、何でもない、当たり前のような日常が、どれほどかけがえのないものか。
あと三か月で卒業すれば、六人はバラバラになり、この居間に全員で集まることも二度とななくなるだろう。
この温かい空間は、過ぎ去った季節とともに、思い出の中に閉じ込められていくのだろう。
健太はスプーンを握る手に力を込めた。
カレーの匂い、ストーブの温もり、みんなの笑顔を決して忘れないと思った。
「ごちそうさまでした」
全員が満足そうに皿を引いた。
「気をつけて帰るのよ。雪が酷いから」
佳代さんが玄関で一人ひとりに温かいお茶の缶を持たせてくれた。
「先生、佳代さん、ありがとうございました!」
六人は武田家を後にした。
外に出ると、冷たい北風が顔を叩いた。
しかし、胸の奥には佳代さんのカレーの温もりが、しっかりと残っていた。
真っ暗な夜の中に、雪がしんしんと降り続いていた。
茜川橋の上に積もった雪は、街灯の光を受けて静かに白く光っていた。
六人は肩を並べ、雪を踏みしめながら、静かに、それぞれの家へと帰っていった。
二度と戻らない「何でもない日常」を、胸の中に抱きしめながら。




