第十九話 サクラサク
一月中旬。
城下町は一年で最も厳しい底冷えの季節を迎えていた。
早朝の茜川からは「毛あらし」と呼ばれる白い川霧が立ち上り、木造の茜川橋の欄干には太く鋭い氷柱がズラリとぶら下がっていた。
古い瓦屋根に積もった雪はカチカチに凍りつき、朝の静寂の中に、時折屋根から氷の塊がドサッと落ちる重い音が響いていた。
茜ヶ丘高校の三年B組の教室は、この数日、奇妙な熱気と静けさが交互に訪れていた。
一次試験が終わり、私立大学や短大の推薦入学、早期日程の合否通知が、電報や速達郵便で届き始める時期だった。
「届いたぞ! 合格だ!」
放課後、男子生徒の一人がピンク色の電報用紙を掲げて教室に飛び込んできた。
紙面にはカタカナで大きく『サクラサク』と印字されている。
教室の一角で歓声が上がり、数人の生徒が肩を抱き合って喜んでいた。
「真理、アパートもう決めたの?」
由香が真理の机に乗り出すようにして聞いた。
「ううん、まだだよ。お母さんと来月、東京に部屋探しに行くの」
真理が微笑む。
「四畳半の小さなアパートだけど、ワクワクするな」
「いいなぁ、東京! 遊びに行ったら泊めてよ!」
「狭いから一人ずつね」
真理の元には、昨日、東京の服飾短大から合格通知の速達が届いていた。
真理は自分の机で、静かに教科書を整理しながら、合格のお祝いに集まってくる同級生たちに「ありがとう」と笑みを返していた。
その隣で、達也も日本大学芸術学部写真学科の合格通知を鞄の奥に静かに収めていた。
そこへ、肘当てジャケットを着た武田先生が進路資料を抱えて教室に入ってきた。
「こら、お前たち! 浮かれるなよ!」
武田先生が竹尺で教卓をポンポンと叩いた。
「合格が決まった奴はおめでとうだが、まだ全員が決まったわけじゃないんだ。教室で大騒ぎして、周りの奴らの集中を乱すんじゃない」
「先生、カタいこと言うなよー!」健太が笑った。
「カタいんじゃない、担任の配慮だ。佐藤、お前も浮かれてないで二次試験の勉強をしろ」
武田先生はそう言いながらも、真理と達也の顔を見て、目元を少し緩めて小さくうなずいた。
だが、教室内のお祝いの空気と先生の説教から遠く離れた一番後ろの席で、浩二はただじっと自分の手元を見つめていた。
いつもなら机の上にドカンと置かれている巨大なアルマイトのドカ弁は、今日はカバンの中に仕舞われたままだった。
浩二の太い指先が、制服のポケットの奥にある一通の薄い封筒を、擦り切れるほど強く握りしめていた。
差出人は、岐阜県立農業大学校。
昼休み、校門の近くで郵便配達員から直接受け取ったその手紙の裏面には、冷たい明朝体でこう印字されていた。
『慎んでお知らせいたします。貴殿の入学試験結果は、不合格となりました』
サクラチル。
言葉は書いていなかったが、その文字の冷たさで浩二の頭の中は真っ白になっていた。
「浩二、どうした? 昼飯食わないのか?」
健太が自分の席から振り返って声をかけた。
由香も「浩二くん、なんか顔色悪いよ? またお腹痛いの?」と覗き込んできた。
浩二はビクッと肩を揺らし、慌ててポケットの手を引っこ抜いた。
「あ、いや、今日はお腹が空いてないっす・・」
「お前がお腹空いてないって、天変地異でも起きるんじゃないか?」
健太が笑った。
「なんでもないっす。ちょっと用事を思い出したっす・・」
浩二は何も言えなかった。
合格の喜びに沸く教室の中で、自分がどれほど不格好で、惨めな存在か。
大柄な体が、まるで教室の隅で浮き上がっているように感じられた。
浩二は静かに立ち上がり、気づかれないように、カバンを持って教室のドアを出た。
夜になった。
太陽が城山の向こうへ沈むと、気温は一気に氷点下まで下がった。
茜川橋の上には、薄く新雪が積もっていた。
橋の中ほどで、浩二は一人、木の手すりに両肘をついて立ち尽くしていた。
川上から吹き下ろす北風が、角刈りの短い髪を激しく揺らす。
寒さで耳も鼻の頭も真っ赤になっていたが、浩二はその場から動けなかった。
ポケットから取り出した不合格通知の紙が、風に煽られてパサパサと乾いた音を立てる。
(やっぱり、俺、ダメだった・・)
浩二は胸の奥で呟いた。
体ばかり大きくて、不器用で、勉強もできなくて。
健太みたいにお調子者で場を明るくすることもできず、達也みたいにカメラで自分の世界を持つこともできず、真理みたいに東京へ羽ばたく夢を叶えることもできない。
自分だけが、何一つ残せないまま、この寒々しい場所に置いていかれるのだという絶望感が、冷たい風とともに全身を突き抜けていた。
カラン……コロン……。
静かな川の音に交ざって、きゅっ、きゅっと雪を踏む小さな足音が聞こえてきた。
浩二が振り返ると、そこに美奈子が立っていた。
三つ編みに生成りのカーディガン、赤いウールのマフラーを首に巻き、息を白く吐きながら歩いてきた。
その手には、イチゴ柄の巾着袋と、薄い水色の便箋が握られていた。
「美奈子ちゃん、なんでここに?」
「みんなで探してたの。健太くんたちもあっちを探してるよ」
美奈子は静かに言った。
美奈子は何も言わずに、浩二の隣まで歩いてくると、すっと手すりに並んで立った。
二人の間に、静かな時間が流れた。
風が吹き抜け、川面の氷がパキッと小さな音を立てて割れた。
美奈子はしばらく無言で、暗い川の流れを見つめていた。
それから、持っていた水色の便箋を見て、静かに言った。
「それ・・届いたの?」
浩二は手に持った紙をギュッと握りしめ、うつむいた。
「っす・・不合格だったっす・・」
美奈子は驚いた顔をせず、優しくうなずいた。
「これね、昨日、東京の文通相手の女の子から届いたお手紙なの」
美奈子の声は、北風の中でも透き通るように静かだった。
「その子ね・・志望校の予備校に合格して、先月から東京の寮に入ったんだって」
「東京の予備校っすか?」
「うん。『朝早くから夜遅くまで授業があって、地下鉄の乗り換えも迷路みたいで毎日迷子になりそう』って書いてあった」
美奈子は手紙を胸に当て、遠くの街灯の光を見つめた。
「『合格した日はすごく嬉しかったけれど、東京に来てみたら、毎日が怖くてたまらない』って。
『地下鉄の階段を上っても下りても、誰も私と目を合わせてくれない。合格してここに来たけれど、私という人間はどこにもいないみたい。故郷の友達の声が聴きたくて、毎晩布団の中で泣いています』って・・」
美奈子はゆっくりと顔を上げ、浩二の横顔を見た。
「浩二くん」
「・・っす」
「合格して遠くへ行くことが、全部の幸せじゃないと思うの」
美奈子の指先が、赤いマフラーの端をギュッと握りしめた。
「私ね、浩二くんがこの町にいてくれることが、すごく嬉しいの。浩二くんが作ってくれた不格好なお饅頭の温かさや、文化祭のとき一人で大きな看板を持ち上げてくれた力強さを、私はずっと覚えてるよ」
「美奈子ちゃん・・俺、やっぱりダメな奴っす」
浩二の声がかすれた。
不合格通知を握りしめた手が、震えていた。
「農業大学校・・落ちたっす。俺、何やっても不器用で・・」
美奈子は悲しそうな顔をせず、ただ優しく、どこまでも柔らかい目で浩二を見つめた。
「ダメなんかじゃないよ」
美奈子はスクールバッグの中から、イチゴ柄のハンカチを取り出した。
「浩二くんは、本気で頑張ったんでしょ? それのどこがダメなの?」
浩二の目から、大きな涙の粒がこぼれ落ちた。
氷点下の痛いほどの冷気の中で、ポロポロと涙が頬を伝い、顎の先から新雪の積もった橋板へと落ちた。
雪の上に、小さな丸い穴がぽこぽこと開いていく。
「う。うぁぁ・・っ」
浩二は大きな手で顔を覆い、子供のように声を殺して泣いた。
悔しかった。
情けなかった。
仲間たちと同じ場所に立てない自分が、悔しくてたまらなかった。
美奈子は何も言わずに、ハンカチを浩二の大きな手に握らせた。
そして、浩二の袖口にそっと自分の手を添えた。
小さな手のひらの温もりが、分厚いジャージ越しに浩二の腕に伝わってきた。
風が止み、遠くの寺から夜の八時を告げる重い鐘の音が、ゴーン・・と響いた。
二人の間に、長く温かい沈黙が流れた。
やがて、浩二はハンカチで力任せに顔を拭い、フゥーッと白い息を長く吐き出した。
「・・美奈子ちゃん」
「うん」
「俺、もう一回勉強するっす」
浩二は涙で濡れた目を上げ、前を見据えた。
「二月の上旬に、二次募集と実技試験があるっす。もう一回受けるっす。諦めないっす」
美奈子は、パッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「うん! 浩二くんが諦めないなら、私、試験の日まで毎日勉強付き合うよ。図書室でノートもまとめるし、お菓子もいっぱい作って応援する」
「・・ありがとうっす」
「浩二ーーーーーっ!!!」
遠くから大声が響いた。
橋のたもとから、懐中電灯の光を揺らしながら、健太と達也、真理、由香が走ってきた。
「 探したんだぞ!」
健太が息を切らせて駆け寄ってきた。
「浩二、お前不合格通知見て教室飛び出したろ」
由香が息を弾ませて言った。
「武田先生が心配して探せって言ってたんだぞ」
浩二は真っ赤になって頭を掻いた。
「・・すみませんっす」
健太が浩二の肩をガシッと掴んだ。
「バカ野郎! 不合格くらいで落ち込んでんじゃねぇよ! 二次募集があるだろ! 俺たちが全員で勉強見てやるよ!」
「健太・・」
「俺なんて英語全滅なんだぞ! 浩二の方がまだマシだ!」
「慰めになってないっすよ!」
浩二が笑った。
達也がカメラを首から下げたまま、静かに口を開いた。
「浩二。まだ終わってない。お前なら受かる」
真理も微笑んだ。
「みんなで最後まで一緒に頑張ろう」
浩二の目から涙が溢れた。
「みんな、ありがとうっす!」
六人は茜川橋の上で、肩を組み合って笑った。
サクラは、まだ咲かない。
けれど、凍てつく雪の下で、六人の絆という名のつぼみは、春に向けて確実に温かな力を蓄えていた。
茜川の澄んだ水音が、彼らを優しく見送るように、夜の静寂の中に響き続けていた。




