第二十話 サクラチル、そして立ち上がれ
一月の終わり、郡上八幡の街は一年で最も冷え込みが厳しくなっていた。
校庭の隅に押し寄せられた雪は灰色に固まっていた。
放課後になると北風が廊下のすき間からピューピューと音を立てて吹き込んできた。
木造校舎のあちこちからギシギシと軋む音が聞こえ、石油ストーブの上のヤカンからは、シュンシュンと白い湯気が絶え間なく立ち上っていた。
三年B組の教室では、二月上旬に控えた岐阜県立農業大学校の二次試験に向けて、浩二のための「特別特訓」が連日繰り広げられていた。
「浩二、この面接の質問。『もし本番で頭が真っ白になったらどうする?』。答えてみろ!」
健太が教卓の上に腰をかけていた。
面接官の真理のメガネを勝手に借りてかけて威張っていた。
浩二はパイプ椅子に背筋をピンと伸ばして座り、太ももの上に大きな手を乗せていた。
額にはうっすらと汗が浮いている。
「はいっ!・・頭が真っ白になったら、正直に『真っ白になりました!』って大声で言うっす!」
「バカ! 正直すぎるだろ!」
健太が教卓を叩いた。
真理が笑いながら健太からメガネを取り返した。
「でも健太、嘘をついて取り繕うより浩二らしくていいんじゃない?」
「そうっすか!?」
「調子に乗るな、小林」ととなりの席で過去問の採点をしていた達也が、赤ペンを回しながら静かに指摘した。「語尾の『っす』を直せと言っている。面接官はお前の友達じゃない」
「すんませんっす・・じゃなくて、すみません」
浩二がしゅんとして頭を掻いた。
となりの机では、美奈子が浩二のためにまとめたノートを開いていた。
イチゴ柄の付箋が何枚も貼られたそのノートには、農業基礎の用語や、出やすい計算問題の解き方が、美奈子の几帳面な文字で分かりやすく整理されていた。
「浩二くん、大丈夫だよ。面接の先生はね、上手な言葉を聞きたいんじゃなくて、浩二くんの本当の気持ちを聞きたいんだと思うの」
美奈子が優しく微笑み、温かい緑茶の入った湯筒を浩二の前に置いた。
佳代さんが持たせてくれた大きなおにぎりの包みも横に並んでいる。
「美奈子ちゃん・・ありがとうっす。このノート、すごく分かりやすいっす」
由香がアディダスのジャージの腕を組みながら、笑って言った。
「浩二くん、美奈子ちゃんがここまで書いてくれたんだから、絶対落ちられないよ! 落ちたら承知しないからね!」
「分かってるっす! 死ぬ気で覚えるっす!」
浩二の心の中には、一週間前の不合格通知を受け取った暗い絶望の影がまだ残っていた。
だが、こうして自分を囲んで真剣になってくれる仲間たちの温かい声を聞くたびに、凍りついていた胸の奥の雪が、少しずつ解けていくのを感じていた。
そこへ、肘当てジャケットを着た武田先生が、胸ポケットからハイライトを取り出しながら入ってきた。
「お前ら、まだ残ってたのか。・・小林、調子はどうだ」
「先生! 過去問の計算、半分以上解けるようになったっす!」
「そうか。・・いいか小林、二次試験は筆記だけじゃない。お前という人間の『根っこ』を見られる。飾ろうとするな。お前のバカがつくほどの正直さを、そのまま見せてこい」
武田先生はそう言って、浩二の肩を大きな手で一回、力強く叩いた。
二次試験を三日後に控えた、二月最初の夜。
昼間に降った淡雪が茜川橋の欄干にうっすらと積もり、月光を受けて白く光っていた。
川の流れは冬の冷気で重く澱み、水音がゴトゴトと深い音を立てて響いている。
橋の上は、足元から冷気がじんわりと這い上がってくるほど冷え込んでいた。
浩二は橋の中ほどで、一人、手すりに寄りかかっていた。
防寒着のポケットの中で、自分の手が冷たくかじかんでいた。
いくら勉強しても、いくら練習しても、直前になると「またダメだったらどうしよう」という不安が、暗い波のように押し寄せてくる。
「おーい! 浩二ー!」
遠くから声が聞こえた。
振り返ると、マフラーを巻いた健太、カメラケースを抱えた達也、ダウンを着た由香、そして真理と美奈子が、坂道を登ってやってきた。
「みんな・・なんでこんな時間に?」
「お前が部屋で一人で煮詰まってると思ってな」
健太が言った。
自販機で買った缶おしるこを浩二の手に押し付ける。
「ほら、飲め。おしるこだ。甘いもんで脳みそ温めろ」
浩二は温かい缶を両手で包み込んだ。
缶から伝わる熱が、かじかんだ指先に染みた。
「浩二、顔が固いよ」
由香が言った。
「試験前からそんな顔してたら、面接官が逃げ出すよ」
「・・だって、やっぱり怖いんっすよ。また『不合格』の紙が届いたらと思うと・・俺、やっぱり不器用だし、みんなみたいに頭良くないし・・」
浩二が弱音を漏らした。
その瞬間、健太が浩二の分厚い両肩をガシッと掴んだ。
「バカ野郎!」
健太が大声を上げた。
寒風の中に、健太の叫びが響き渡った。
「生きてりゃ合格なんだよ!」
浩二が目を丸くした。
「試験に落ちたって、死ぬわけじゃねぇ! 命まで取られるわけじゃねぇんだ! お前はこの一年、泥だらけになって、俺たちのために笑って、本気で生きてきたろ! 生き進んでるだけで、もう合格なんだよ!」
真理がくすりと笑った。
「健太、相変わらず無茶苦茶な理論ね」
「無茶苦茶じゃねぇよ! 本気でやってんだから、結果がどうあろうがお前は立派なんだ! ドカンと胸張って行ってこい!」
「そうだ、浩二!」
由香も浩二の背中をバシッと叩いた。
「私たちがついてるんだから、ビビってんじゃないよ! あんたが不合格なら、世の中の受験生全員不合格だ!」
達也も無言でうなずき、カメラのファインダーを覗いて一度だけシャッターを切った。
パシャリ。
「いい顔だ、浩二。そのまま行け。ピントは合ってる」
浩二の胸の奥で、塊になっていた恐怖が、すーっと溶けていった。
視界を覆っていた暗い雲が晴れ、月光に照らされた茜川の美しさが、胸に飛び込んできた。
「・・みんな・・っす!」
健太が「よーし! 気合入れるぞ!」と叫び、浩二の肩に腕を回した。
浩二も健太の肩を抱き、由香も、達也も、真理も、美奈子も、六人が茜川橋の上で丸く円陣を組むように肩を抱き合った。
「生きてりゃ合格だーーーっ!」
六人の叫び声が、北風を突き破って夜空に響いた。
吐き出した白い息が、月光の中でひとつに重なり合った。
六人は極寒の橋の上で、肩を抱き合ったまま、声を合わせて笑い転げた。
寒かった。
けれど、胸の奥は焼けつくほど温かかった。
夜の九時を過ぎた。
健太や由香たちが前を歩き、少し離れて浩二と美奈子が後ろを歩いていた。
街灯の少ない夜道、雪を踏みしめる二人の足音が、キュッ、キュッ、と静かに重なっていた。
「浩二くん」
美奈子が足を止めた。
「ん? どうしたっすか、美奈子ちゃん」
美奈子はスクールバッグの中から、小さなイチゴ柄の巾着袋を取り出した。
「これね、お守りよ。私の家のお砂糖を使って、お母さんと一緒に作った落雁。縁起がいいように、桜の形にしてある」
美奈子は両手で巾着袋を浩二に差し出した。
ほのかに甘い砂糖と紙の匂いが漂った。
浩二はその小さな袋を受け取った。
美奈子の手の温もりが、袋地に残っていた。
「美奈子ちゃん・・俺のために・・」
「うん。試験の直前に、一つ食べてね。気持ちが落ち着くから」
浩二はその巾着袋を愛おしそうに見つめ、それから、ゆっくりと顔を上げた。
浩二は美奈子の目を、まっすぐに見つめた。
いつもなら照れて目を逸らしたり、お調子者を演じたりする浩二が、目を逸らさなかった。
夜の静寂の中で、美奈子の瞳に映る自分の顔が見えた。
「美奈子ちゃん」
「なに?」
「俺、絶対受かってくるっす」
浩二の声は低く、どこまでもまっすぐだった。
「受かったら・・俺、美奈子ちゃんの作ったもん、一生食いたいっす」
静寂の中に、浩二の言葉が落ちた。
大げさな愛の告白でも、飾った言葉でもなかった。
ただ、浩二という人間の偽りのない本音だった。
美奈子は息を呑んだ。
風が止み、街灯の光の下で美奈子の頬が、みるみるうちに林檎色に染まった。
美奈子は視線を落とし、それからもう一度浩二を見上げた。
その目には、小さな涙の粒が光っていた。
「・・うん」
美奈子は静かに、でもしっかりと頷いた。
「受かったら・・いくらでも作ってあげる。・・ずっと作ってあげる」
浩二の口元が、不器用に緩んだ。
二人の間に、照れくさくも愛おしい沈黙があった。
何も言わなくても、言葉以上のものが互いの胸に届いていた。
二日後の早朝。二月三日。
郡上八幡駅のホームには、薄暗い朝もやが立ち込めていた。
始発列車がキィィと重いブレーキ音を立てて入線してくる。
ホームには、小さなカバンを抱えた浩二と、武田先生、健太、達也、由香、真理、美奈子が並んで立っていた。
「小林、行ってこい。自分を信じろ」
武田先生が言った。
「はいっ! 行ってくるっす!」
「浩二、ドカンとぶちかましてこいよ!」
健太が拳を突き出した。
「応援してるからね、浩二くん!」
真理と美奈子が手を振った。
「落ちたら承知しないよ!」
由香が笑った。
達也が黙ってうなずき、親指を立てた。
浩二はステップを登り、列車に入った。
窓際の席に座り、ガラス越しにみんなを見下ろした。
列車がガタリと揺れ、動き出した。
「浩二ーーーっ! 頑張れーーーっ!」
健太がホームを走りながら叫んだ。
浩二は窓を開け、身を乗り出して大きく手を振った。
「行ってくるっすーーーっ! みんな、ありがとうっすーーーっ!」
列車は雪の線路を走っていった。
ホームに残された仲間たちの顔には、不安はなかった。
全員が、静かな笑顔で、遠ざかる列車の赤い後尾灯を見つめていた。
サクラチル冬を越え、彼らは自分たちの足で前へ進み始めていた。




