第二十一話 赤い糸のビスケット缶
二月中旬。
浩二のもとに、岐阜県立農業大学校の二次募集「合格」の速達が届いた。
これで三年B組の六人、そしてクラス三十五人全員の進路がすべて決まった。
だが、全員の行き先が決まった時から、教室の空気はどこか寂しげな余韻を帯び始めていた。
黒板の横に掲げられためくり式の日めくりカレンダー。
卒業式までの日数が残り半月あまりであることを告げていた。
外は、朝から密やかに粉雪が舞っていた。
寒風に煽られた小さな白い結晶が、木造校舎の窓ガラスに当たっては、溶けて水滴となっていた。
暖房の石油ストーブの周りには湿った靴下の匂いが漂っていた。
やすりで削られた木製デスクの傷や落書きが、過ぎ去った記憶を留めていた。
「みんな、これ見てくれよ!」
放課後、健太が鞄から大きな丸い金属缶を取り出し、教卓の上にドカンと置いた。
赤い下地に金色の縁取りが施された、泉屋のビスケットの空き缶だった。
フタの角には少しサビが浮かんでいた。
母親が裁縫箱代わりに使っていたのを健太が頼み込んでもらってきたものだ。
「ビスケット缶? 何すんだよそれ」と由香が呆れ顔で言った。
「タイムカプセルだよ!」
健太が胸を張った。
「タイムカプセル?」
真理が手を止めた。
「そう! この中に、俺たちの思い出の品と、十年後の自分への手紙を詰めるんだ。それを、茜川橋のたもとに深く埋める。十年後・・一九九五年の二月の同じ日に、全員で集まってここで掘り起こすんだよ!」
健太の言葉に、教室が静まり返った。
美奈子がそっと微笑み、「素敵だね・・十年後の私たちかぁ。二十八歳だね」と呟いた。
「いいな、それ」
達也が鞄のジッパーを閉めながら短く言った。
「俺も混ぜろ」と教卓の横でタバコを吸おうとしていた武田先生が言った。
「お前らだけずるいぞ」
「先生も入れるっすか!?」
浩二が目を見開いた。
「当たり前だ。俺もお前たちの担任として、この一年間の重みを残したいからな」
雪が舞う二月の放課後、赤くて丸いビスケット缶に、七人の「想い出」を閉じ込める儀式が始まった。
教卓の周りに、六人と武田先生が静かに輪を作った。
真ん中に置かれた赤いビスケット缶のフタをパカッと開けた。
中は空っぽだった。
ほんのりと古くなった甘いバニラとクッキーの匂いが残っていた。
「じゃあ、順番に入れていこうぜ」健太が言った。
まず、由香がポケットから何かを取り出した。
青と白のアルミ缶。
潰れてぺちゃんこになった、ポカリスエットの空き缶だった。
「これ・・七月のインターハイ予選で負けた日に、達也と茜川橋で飲んだやつ。悔しくて一人で泣いてたんだけど、達也が黙って隣にいてくれて、写真を撮ってくれた日。あの日から、自分がちょっと変われた気がするから」
由香は照れくさそうに笑いながら、潰れた缶をそっとビスケット缶の底に置いた。
カチンと静かな音がした。
次に、真理が小さな四角い箱を取り出した。
喫茶「茜」のロゴがプリントされた、赤と黒のレトロなマッチ箱だった。
「これはね、私の家の喫茶店のマッチ。五月にみんなで初めてお店に来てくれて、クリームソーダ飲んでくれたでしょ? あの日、私の大切な場所にみんなが来てくれて・・すごく嬉しかったの。母にとっても思い出のお店だから」
真理はマッチ箱を、由香の缶のとなりに静かに置いた。
指先が名売れ惜しそうに箱の角を撫でていた。
続いて、浩二がポケットから四つ折りにされた便箋を取り出した。
消しゴムの痕だらけで、紙の端がボロボロになった手紙だった。
「これ・・四月に美奈子ちゃんに最初に書こうとして、漢字が書けなくてあきらめたラブレターっす。『拝啓』って書いて三回失敗したやつっす。恥ずかしいっすけど・・これが俺の始まりだったから」
浩二が耳まで赤くして手紙を置くと、美奈子がくすくすと温かく笑った。
美奈子が、イチゴ柄の小さな便箋を取り出した。
「私はね、誰にも見せたことがない短い詩を書いたの。この一年間、みんなと茜川橋で過ごした夕暮れのこと。宝物みたいに大切だったから」
美奈子は丁寧に折られた便箋を、浩二の手紙の上にそっと重ねた。
達也がスクールバッグから、一枚のモノクロ写真を取り出した。
夏休み、茜川橋の上でセルフタイマーで撮った、六人の集合写真だった。
健太がお調子者顔で笑っている。
真理がくすりと笑い、浩二が大きな胸を張り、美奈子が静かに微笑んでいる。
由香が腕を組み、達也自身が横を向いている。
「一枚だけ自分用に引き伸ばして取っておいた。・・十年後、答え合わせをするために」
達也の指が写真を缶の底に滑り込ませた。
健太は自分のポケットから、一本のカセットテープを取り出した。
TDKの46分テープ。
インデックスカードには、健太の下手な字で『涙のリクエスト 真理へ』と書かれている。
「八月に真理にあげようとして、爪折り忘れてCM上書き録音したやつ。・・あの時の悔しさと恋しさが、全部入ってるから」
健太がテープを置くと、真理が目を細めて健太を見つめた。
最後に、武田先生が胸ポケットから、つぶれたハイライトの空き箱を出した。
裏面には、先生の力強い赤ペンの文字でこう書かれていた。
『お前らの先生で良かった。全員幸せになれ。 武田繁治』
「俺の青春の証だ。これ以上言うことはない」
先生が空き箱を置いた。
ビスケット缶の中は、七人の想い出でいっぱいになった。
それぞれが書いた『十年後の自分への手紙』を一番上に載せ、健太が静かにフタをかぶせた。
パチン。
フタが閉まる音が、教室内へ響いた。
夕方五時。
舞い散る粉雪は少し強くなり、城下町を白いベールで包み込んでいた。
六人と武田先生は、スコップを手にして茜川橋のたもとへ向かった。
木造の橋の袂、大きな柳の木の根元。
水がかからず、増水しても流されない小高い土手の陰。
「ここだな」
武田先生が指さした場所を、浩二と健太がスコップで力任せに掘り始めた。
ザクッ、ザクッ。
氷のように固く凍りついた土を掘り進める音が、静かな川のせせらぎに混ざって響いた。
ガツンと石に当たる手応え。吐く白い息が二人を包み、額に薄っすらと汗が浮いた。
四十センチほど掘り進めたところで、スコップが深い岩の層に当たった。
「よし、この深さなら十分だ」
健太はビニール袋で三重に厳重に包んだ赤いビスケット缶を、穴の底へ置いた。
白い雪の中に、赤い袋がポツンと置かれた。
みんなが、黙ってそれを見つめた。
「土をかけよう」
全員で、スコップや手を使って、掘り起こした土をかぶせていった。
さらにその上に、周囲の真っ白い雪をかぶせ、足で優しく踏みならした。
そこには、何もなかったかのように、ただ真っ白な雪が広がっていた。
七人は手すりに背を預け、静かにその場所を見つめていた。
「十年後だな」
健太が口を開いた。
「・・一九九五年、二月十五日」
真理が言った。
「二十八歳か、どんな大人になってるかな」
由香が息を吐いた。
「俺は、立派な農家になってるっす!」
浩二が胸を張った。
「私は・・小説を一冊、書けてるといいな」
美奈子が空を見上げた。
「俺は、自分のスタジオを持っていたい」
達也が言った。
武田先生がハイライトに火をつけ、紫煙を燻らせた。
「俺は五十一歳か。白髪だらけの爺さんだな」
健太が振り返り、五人の仲間と先生の顔を順番に見た。
「約束しようぜ」
健太が小指を立てた。
「十年後の今日、この茜川橋のたもとに、全員元気で集まること。どんなに離れてても、何をしてても、必ずここに来てこの缶を開けること!」
真理が自分の小指を健太の小指に絡めた。
次々に、美奈子、由香、浩二、達也が小指を重ね、最後に武田先生の大きな指がそれを包み込んだ。
指先の温もりが、互いの体にじわじわと伝わった。
「約束だ!」
舞い散る粉雪の中、七人の固い約束が結ばれた。
西の空が、雪雲の隙間から、ほんのりと淡い茜色を覗かせていた。
橋の下を流れる茜川は、七人の大切な記憶をその底に抱いたまま、静かに未来へと流れ続けていた。




