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第二十二話 最後の放課後と黒板の日記

 二月の下旬。

 すべての入試日程が終了し、城下町にはどこか緩やかな春の気配が漂い始めていた。


 茜川の土手に積もっていた分厚い雪は日ごとに低くなった。

 溶けた水が川へと注ぎ込んで、せせらぎの音を少しだけ賑やかにしていた。

 城山の残雪の合間からは、濡れた土の黒い顔が覗き、朝の風の中にも冬の刺すような冷たさではなく、かすかな土と萌芽の温もりが交ざっていた。


 茜ヶ丘高校の三年B組の教室には、久しぶりに三十五人全員の顔が揃っていた。

 受験という長い緊張の季節を潜り抜けてきた生徒たちの表情には、大きな荷物を下ろしたような安堵と、それと背中合わせになった寂しさが、混ざり合って浮かんでいた。


「あー! やっと全部終わったーーーっ!」

 健太が自分の机の上で大きく両手を伸ばし、天を仰ぐように叫んだ。

 首にはいつもの赤いウォークマンがぶら下がっている。

「佐藤、声が大きいっすよ。もう授業中じゃないから怒られないっすけど」

 浩二がとなりの席で大口を開けて笑った。

 浩二の顔には、二次試験を全力でやり切った男のすがすがしい顔があった。

「浩二だって、試験の帰り名駅で味噌カツ食べた話ばっかりじゃない」

 由香がアディダスのジャージの袖を腕まくりしながら突っ込んだ。

「試験の手応えはどこ行ったのさ!」

「手応えも完璧っすけど、あの味噌カツの甘辛いタレも完璧だったんっすよ!」

「浩二くんらしいね」

 真理と美奈子が窓際の席でくすくすと笑った。


 二人は日差しを浴びながら、東京でのアパート探しの話や、春からの生活準備の手編みマフラーを畳んでいた。

 窓から差し込む西日には、すでに二月の淡い黄金色の光が混ざっている。

 油が塗り込まれた古い木造の床の匂い。

 黒板消しのチョークの粉の匂い。

 陽光で温められたガラス窓の匂い。

 この一年間、当たり前のように嗅いできた教室の匂いが、今日はなぜか胸の奥に強く焼き付くように感じられた。

 教卓の上には、色とりどりのチョークの箱が置かれていた。

 赤、黄色、青、緑、白。

 健太が不意に立ち上がり、黄色いチョークを一本手に取った。

「なあ、みんな。黒板に何か書こうぜ。最後の放課後だしさ」

 その一言で、教室の空気がパッと華やいだ。


 生徒たちが教卓の周りに集まり、思い思いのチョークを手にした。

 健太は黒板の左端に、大きな自分の似顔絵を描き始めた。

 フミヤ風の前髪を異様に長く垂らした下手くそなイラストだった。

「健太、前髪が短すぎてウニみたいになってるよ」

 真理がクスクスと笑った。

「うるさいな、これが俺のこだわりなんだよ!」

 真理は白いチョークを取り、健太の絵のとなりに小さく『喫茶茜・クリームソーダ¥350』と書き添えた。

 浩二は赤いチョークで巨大なドカ弁の絵を描き、『大盛り完食!』と太い文字を躍らせた。

 その横に、美奈子がピンク色のチョークで小さなお饅頭の絵を可愛らしく添えた。

 浩二の顔が瞬時に真っ赤になった。

 由香は青いチョークで陸上トラックのラインを引き、美奈子は緑色のチョークで『茜川の夕焼け』という短い一節をさらさらと書き込んだ。

 達也は黒板の隅で静かにそれを見つめていたが、健太に「達也も書けよ!」とチョークを押し付けられ、苦笑しながら小さなカメラのイラストを描いた。

 教室中に、チョークが黒板を擦るカタカタという心地よい音が響いた。

 白い粉がふわふわと舞い、夕日の中でキラキラと光っていた。


「みんな、いろいろあったなぁ」

 健太がチョークを置き、黒板を見上げながら呟いた。

 四月に武田先生がやってきて、コード三つでギターを撃沈させ、つくば万博のキーホルダーで盛り上がり、夏休みの川跳び込みで大笑いした。

 日航機のニュースで静まり返り、夏祭りの夕立で雨宿りし、阪神優勝で跳び上がった。

 文化祭で集合写真を撮り、武田先生の誕生日で泣き、雪の日にカレーを食べた。

 浩二の不合格をみんなで支え、タイムカプセルを埋めた。

 一つ一つの場面が、黒板の落書きの向こうに、鮮やかな色彩を持って浮かび上がってくるようだった。


 ガラガラ・・。

 後ろのドアが開き、武田先生が入ってきた。

 肘当てのついたジャケットを羽織り、胸ポケットにはハイライト。

 手には出席簿はなく、何も持っていなかった。

「お前ら、何をごちゃごちゃやってるんだ」

 武田先生が黒板の落書きを見て、呆れたように眉をひそめた。

 だが、その目の奥には温かい光が宿っていた。

「先生! 3Bの歴史を描いてるんす!」健太が胸を張った。

「ふん。相変わらず絵心なさそうな落書きばかりだな」

 先生は教卓へ歩み寄ると、箱の中から一番太い白いチョークを一本、手に取った。

 生徒たちが静かになり、先生の手元を見つめた。


 武田先生は黒板の真ん中、落書きとイラストに囲まれたわずかな空白に、チョークを強く当てた。

 キーッ、と力強い音が響く。

 粉を飛ばしながら、先生は大きな太い文字を書いた。

『人生は点数じゃない。 武田繁治』

 教室から、声が消えた。

 チョークの白い粉が静かに舞い落ち、教卓の上に積もった。

 武田先生はチョークを置くと、指についた白粉をパッパッと払い、黒板を背にして生徒たちを順番に見回した。


「一次の点数がどうだったとか、合格したとか落ちたとか、そんなものは人生のほんの通過点だ」

 先生の声は、静かだが教室の隅々にまで届いた。

「大事なのは、お前らがこの一年間で誰と出会い、どう悩んで、どう笑って、どう立ち上がったかだ。その点数は、どんな大学の教授も、どんな採用担当者も採点できん。お前ら自身が、胸を張って『満点だった』と言えれば、それでいいんだ」

 浩二が鼻をすする音が聞こえた。

 真理と美奈子が静かにうなずき、由香が腕を組んで目を閉じた。

 達也は先生の言葉を、耳ではなく胸で聴くようにじっと見つめていた。

 武田先生はハイライトを取り出しかけたが、「あ、室内は禁煙か」と思い直して胸ポケットに戻した。

「さあ、最後の放課後だ。好きに過ごせ」

 先生はそれだけ言うと、背を向けてガラガラとドアを開け、廊下へ出て行った。

 足音が遠ざかった。


 先生が去った後の教室に、夕暮れが満ちていた。

 西日が窓ガラスを通り抜け、教室全体を濃密な黄金色と茜色で染め上げていた。

 黒板の上に浮かび上がる、色とりどりの落書きと、中央の先生の力強い文字。

『人生は点数じゃない。』

「・・終わっちゃうんだな」

 健太がぽつりと言った。

 誰への問いかけでもない、小さなつぶやきだった。

「うん」

 真理が窓辺に歩み寄り、欄干に手をついた。

「明日からはもう、制服着てこの教室に来ることもないんだね」

 最後の通常登校日だった。

 ここからは卒業式の予行演習があり、そして本番が来れば、この教室は「過去」になる。

 今日という日は、楽しかった高校生活の終わりであり、それぞれ別々の道を歩み始める「終わりの始まり」だった。


 生徒たちは誰も立ち去ろうとしなかった。

 自分の机の傷を指先でなぞる者。

 窓の外のグラウンドを静かに見下ろす者。

 黒板の文字を目に焼き付けるようにじっと見つめる者。

 言葉は少なかったが、全員が同じ「時間」を愛おしむように共有していた。

 達也が静かに鞄からキヤノンAE-1を取り出した。

 三脚は使わない。

 自分の両手でカメラを抱え、ファインダーを覗く。

 黄金色の夕日が差し込む教室。

 黒板の前に佇む仲間の背中。

 窓辺に立つ真理の横顔。

 机の上に散らばったチョークの粉。


 達也は息を静かに止め、ピントリングを微調整した。

 ファインダーの中で、世界のすべてがくっきりと見えた。

 ・・パシャリ。

 軽やかなシャッター音が、静かな教室に響いた。

「撮ったのか?」

 健太が振り返った。

「ああ。最後の教室だ」

 達也はカメラを下ろし、静かに言った。

 健太はふっと笑い、上着のポケットに両手を突っ込んだ。

「さ、みんな。茜川橋へ行こうぜ」

「うん」真理がうなずいた。

「行こうっす!」

 浩二が力強く答えた。


 六人は鞄を持ち、静かに教室を後にした。

 ガラガラ・・とドアを閉めた。

 誰もいなくなった教室。

 黄金色の夕日の中に、黒板の落書きと、武田先生の書いた『人生は点数じゃない。』の白い文字が、力強く輝いていた。

 そこには、三十五人の青春の匂いが、確かに深く刻み込まれていた。

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