第二十三話 前夜の電話とそれぞれの決心
三月二日、卒業式前夜。
城下町を包む夜風には、冬の刺すような冷たさは消え、柔らかな濡れた土と雪解け水の匂いが交ざり合っていた。
茜川のせせらぎは増水した水を受けて朗々と鳴り響いていた。
春の近い夜空には、洗われたように澄んだ星々が静かに輝いていた。
屋根の端からは時折り、緩んだ雪の雫がトトン、トトンとリズムを刻んで落ちていた。
明日、三月三日は茜ヶ丘高校の卒業式だった。
佐藤健太の二階の自室。
ナショナルの蛍光灯スタンドの青白い明かりの下で、健太は自分の学習机に向かっていた。
部屋の木製ハンガーには、母親が丁寧にアイロンをかけてくれた黒い詰襟学生服が吊るされていた。
生地はパリッと張り、襟元の銀色の校章と、胸に並ぶ金色に輝く五つのボタンが、スタンドの光を受けて静かに反射していた。
「・・明日で、終わりか」
健太は立ち上がり、学ランの袖にそっと手を触れた。
ウールのしっかりとした生地の感触。
この三年間の汗と涙、教室の油の匂い、茜川橋の夕日と風を吸い込んだ学ラン。
明日このボタンをすべて留めて登校し、式を終えて脱いでしまえば、自分はもう「高校生」ではなくなる。
不思議な浮遊感と切なさが、胸の奥からこみ上げてきた。
机の上には、首から下げるソニーの赤いウォークマンと、一本のカセットテープが置かれていた。
TDKの46分テープ。
インデックスカードには、手書きした『チェッカーズ・涙のリクエスト』の文字。
健太は指先でテープの透明なプラスチックケースをゆっくりとなぞった。
高校生活のすべての場面に、いつも音楽があった。
通学路の坂道でも、茜川橋のたもとでも、このウォークマンから流れるメロディが自分の青春のBGMだった。
ジリリリリリリン——!
突然、一階の居間から黒電話の甲高いベルの音が静かな家中に響き渡った。
「健太ー! 電話よー! 女の子から!」
母親が階段の下から大声で呼んだ。
健太の胸がドクンと跳ねた。
健太は階段を駆け下り、廊下の隅の小さな木製台に置かれた黒電話へ向かった。
レースのカバーがかかった緑色の重い受話器を持ち上げる。
受話器のプラスチックはひんやりと冷たく、手にズシリとした重みを感じさせた。
「・・はい、佐藤です」
『健太? ・・私だけど』
受話器の向こうから、聞き慣れた真理の声が聞こえた。
喫茶茜の二階の部屋からだろうか、静かな呼吸の音が混ざっていた。
親に聞かれないよう、健太はくるくると巻かれた電話コードをできるだけ引っ張り、廊下の暗い陰に身をひそめた。
「真理か。・・どうしたんだよ、こんな時間に」
『ううん。明日、卒業式だなと思って』
「そうだな。明日で終わりだな」
しばらく沈黙が流れた。
電話機のダイヤルの真ん中に描かれた電電公社のマークを、健太は指先で何度もなぞった。
『荷造り終わったよ。部屋の中にダンボールが積み上がってるの。明後日には、私、本当に東京に行っちゃうんだね』
真理の声が、受話器越しに少しだけ震えていた。
「おう。・・部屋、狭いんだろ?」
『うん。四畳半だから、コタツ置いたらもういっぱい。でもね、窓から遠くに小さく東京タワーが見えるんだって』
「へえ、いいじゃん。かっこいいよ。東京タワー見ながらアパートで過ごすなんてさ」
『健太は・・明日、第二ボタン誰かにあげるの?』
真理が突然尋ねた。
健太は一瞬ドギマギして受話器を握り直した。
「あ、あげるわけねぇだろ! 欲しがる奴なんていねぇよ!」
『嘘つけ。一年生の後輩の女の子が狙ってるって聞いたよ』
「デマだよ! 俺は誰にもやらん!」
『・・じゃあ、私にちょうだい』
真理の声が、すっと低くなった。
廊下の壁にもたれかかった健太の息が止まった。
『明日の式が終わったら、私にちょうだい。東京に持っていく』
「・・おう。お前になら、喜んでやるよ」
『ありがとう。・・健太、明日泣かないでね』
「泣くわけねぇだろ! 俺を誰だと思ってんだ!」
『絶対最初に泣くよ。武田先生より先に泣くよ』
「泣かねぇって! ・・でもさ、真理」
「なに?」
「明日・・ちゃんと、綺麗に制服着てこいよ」
『・・うん。健太もね。前髪、ちゃんとセットしてきなさいよ』
二人は受話器越しに、お互いの呼吸を確かめ合うように静かに耳を澄ませた。
「じゃあな、真理。また明日、教室で」
『うん。おやすみ、健太』
カチャン、と静かに受話器を置いた。
同じ頃、小林浩二の家でも黒電話が鳴っていた。
浩二は居間の黒電話の前で正座し、大きな手で受話器を慎重に抱えていた。
『浩二くん、こんばんは。美奈子よ』
「美奈子ちゃん! こんばんはっす!」
『ふふ、相変わらず元気ね。明日の制服の準備、できた?』
「バッチリっす! 詰襟のボタン、金属磨きでピカピカに磨いたっす!」
『すごいね。・・ねえ、浩二くん』
「なんっすか?」
美奈子の声が、受話器越しに少しだけ低く、柔らかくなった。
『明日・・式が終わったら、浩二くんの制服の第二ボタン、私にくれる?』
浩二の顔が、一瞬で真っ赤になった。耳まで熱くなる。
「え、えっ!? 第、第二ボタンっすか!?」
『ダメ・・かな?』
「ダメなわけないっす! 喜んで差し上げるっす! 一番上のも、袖のボタンも全部あげるっす!」
『ふふ、第二ボタンだけでいいよ。・・私のお守りと一緒に並べて飾るから』
「美奈子ちゃん・・俺、明日、胸張って式に出るっす。ボタン、一番綺麗に磨いて持っていくっす!」
『うん・・。じゃ、おやすみ・・』
浩二は受話器を置いた後も、顔を真っ赤にしたまま、居間の畳の上で動けなかった。
そして、渡辺達也の自宅の廊下でも、黒電話が鳴っていた。
達也が静かに受話器を取ると、由香のハキハキとした声が聞こえてきた。
『達也? 由香だけど。明日の準備、終わった?』
「終わった」
『明日もカメラ持ってくるんでしょ?』
「持って行く。フィルムも三本用意した」
『最後の制服姿、ちゃんとブレずに撮りなよ』
「・・いつもブレてない」
『嘘つけ、夏の写真ボケてたじゃない』
達也は一瞬言葉に詰まった。
あの暗室で封印したピンボケの写真が脳裏をよぎる。
『でもね、達也の写真、すごく好きなんだ。明日、みんなの最高の笑顔、しっかり残してね』
「・・わかった。任せておけ」
『じゃあね、明日、遅刻すんなよ!』
ツーツーという音に変わり、達也は静かに受話器を置いた。
二階の自分の部屋に戻り、乾いているレンズの表面を、ブロワーでシュッシュッと吹いた。
ガラスの向こうに、明日の光が映っていた。
夜の十一時を回った。
城下町の街灯がひとつ、またひとつと消え、静寂が町全体を深く包み込んでいった。
健太は自分の部屋に戻り、ベッドの上に横になった。
スタンドの明かりを消した。
窓から差し込む月の光が、ハンガーの学ランを白く浮かび上がらせていた。
ウォークマンのイヤフォンを両耳に差し込み、再生ボタンを押した。
カチャリ。
重いモーターの回転音が聞こえ、ノイズの後にチェッカーズの『涙のリクエスト』が流れ始めた。
『♪最後のコインに 祈りをこめて ミッドナイト・ドリーム・・』
藤井フミヤの甘く切ない歌声が、健太の耳の奥を満たしていく。
健太は静かに目を閉じ、胸の上に手を置いた。
四月に茜川橋でみんなと出会ってからの記憶が、メロディに乗って胸の中を駆け抜けていった。
その頃、武田家の居間では、武田先生が一人でローテーブルに向かい、赤ペンでノートに何かを書き込んでいた。
明日、最後のホームルームで生徒三十五人一人ひとりに贈る言葉だった。
佳代さんが温かいお茶を静かに置き、夫の背中を優しく撫でた。
「繁治さん、泣かないでね、明日」
「泣くわけないだろ。俺は教師だぞ」
先生の声は、すでに少し掠れていた。
窓の外では、茜川が春の近い夜の闇の中を、サラサラと絶え間なく音を立てて流れていた。
高校生最後の夜。
七人はそれぞれの場所で、愛おしい静けさを慈しむように、深く、眠りへと落ちていった。




