第二十四話 涙の卒業式
昭和六十一年三月三日。
郡上八幡の空は、雲ひとつない鮮やかな春の青空に覆われていた。
城山の山肌に残った白い雪が、射し込む春の陽光を受けてキラキラと光を弾いていた。
茜川のせせらぎは雪解け水を運んで朗々と歌うように流れていた。
朝の冷気の中にも、はっきりと花の芽吹きを感じさせる温かい匂いが混ざっていた。
茜ヶ丘高校の校門には、『第38回 卒業証書授与式』と墨書された大きな看板が立てられていた。
「おはよう、健太!」
校門の前で、由香が声をかけた。
制服の襟元には、赤と白のシルクのリボンで作られた大きなコサージュが飾られている。
「おう、由香」
健太はピシッとアイロンの効いた学ランの襟を正しながらうなずいた。
前髪は今朝、鏡の前で三十分かけてチェッカーズ風にセットしてきた。
となりに立つ浩二の学ランのボタンは、昨夜磨き上げた甲斐あって、朝日に眩しく輝いていた。
「達也、今日もカメラか」
浩二が振り返ると、達也がいつものキヤノンAE-1を首から下げ、校門の前で立ち止まる仲間たちをファインダーに収めていた。
カシャ。
「最後の制服だ。撮らない理由がない」
真理と美奈子が、並んで坂道を登ってきた。
真理のネイビーの制服姿、美奈子の生成りのカーディガン。
二人の胸のコサージュが、春風に揺れていた。
「みんな・・おはよう」真理が少し潤んだ目で見つめた。
「よーし! 全員揃ったな!」
健太が大声を上げた。
「行こう、最後の登校!」
六人は並んで、懐かしい木造校舎の階段を上っていった。
午前十時。
体育館での卒業証書授与式が始まった。
重厚なパイプ椅子がズラリと並び、壇上には大きな国旗と校旗。
黄色い菜の花と赤いチュ−リップが飾られていた。
吹奏楽部が演奏する『仰げば尊し』のメロディが、体育館に響き渡る。
「卒業証書、三年B組代表・高橋真理」
教頭先生が名前を読み上げると、最前列で真理が凛とした声で「はい!」と立ち上がった。
真理が壇上に上がり、校長先生から卒業証書を受け取る背中を、健太は後ろの席からじっと見つめていた。
喉の奥がキュッと締め付けられ、視界がわずかに滲んだ。
(泣かない)と決めていたはずなのに、胸の奥から温かいものが溢れ出してきそうだった。
式が終わり、拍手の中で生徒たちが退場していく。
体育館の出口で、肘当てジャケットを着た武田先生が、胸に大きな赤いコサージュをつけて静かに生徒たちを見送っていた。
式を終え、三十五人は三年B組の教室へ戻ってきた。
黒板には、数日前にみんなで描いたカラフルな落書きと、武田先生の『人生は点数じゃない。』の白いチョークの文字が、そのまま残されていた。
ガラガラ・・とドアが開き、武田先生が入ってきた。
腕には大きな花束、手には人数分の黒い丸筒に入った卒業証書を抱えている。
「よし、座れ座れ」
先生は教卓の上に証書の筒をドサッと置くと、いつものように黒板を背にして立った。
「・・これから、最後のホームルームを行う」
先生の声は、最初から少し掠れていた。
「まず、卒業証書を手渡す。名前を呼ばれたら前に来い」
「一番、安藤・・」
一人ひとり、名前が呼ばれ、武田先生から手渡されていく。
証書を受け取るたびに、生徒たちの目から涙がこぼれた。
「・・二十四番、佐藤健太」
健太が立ち上がり、教卓の前へ進んだ。
武田先生は証書の筒を健太に手渡すと、健太の肩をガシッと掴んだ。
「佐藤。お前は一番うるさくて、一番手がかかったが・・周りを笑顔にする奴だった。東京に行っても、その明るさを忘れるなよ」
「はいっ!」
健太の声が裏返った。
必死に堪えていた涙が、ポロポロと頬を伝って学ランの胸元に落ちた。
「二十五番、小林浩二」
「はいっす!」浩二が前に出た。
「小林。お前は不器用だが、一番優しい男だ。農業大学校へ行っても、その正直さを捨てるな」
「先生、ありがとうっす・・!」
浩二は大声を上げて泣き崩れ、先生の胸に飛び込んだ。
先生は苦笑しながら浩二の背中をポンポンと叩いた。
全員への授与が終わり、武田先生が教卓の真ん中に立った。
胸ポケットからハイライトを取り出しそうになったが、それをポケットに戻し、両手を教卓についた。
「最後に、担任として、お前らに一言だけ言っておく」
先生は教卓を見つめ、一度深く息を吸い込んだ。
「お前らはな・・俺の教員生活の中で、一番手がかかる、最高で、最低で、愛おしい教え子だった」
先生の目が赤くなり、声が大きく震え始めた。
「俺は頼りない担任で・・お前らの進路のことで毎日悩んで、夜な夜な泣いたこともある。だが・・お前らと一緒に過ごしたこの一年間は、俺の四十一年の人生の中で、最高の宝物だった!」
武田先生は耐えきれなくなり、肘当てのついたジャケットの袖で、力任せに顔を覆って泣き出した。
子供のように肩を揺らし、ボロボロと涙を流した。
「お前ら・・どこへ行っても・・胸張って生きろよ! 幸せになれよーーーっ!」
「先生ーーーっ!」
健太が叫び、教室中から溢れ出た号泣の声が響き渡った。
浩二が号泣し、真理と美奈子が肩を抱き合って涙を流した。
由香が明後日の方向を向いて溢れる涙を拭った。
達也はファインダー越しに涙でかすむ目を擦りながら、泣きじゃくる武田先生と仲間たちの姿を、無心でシャッターを切り続けた。
カシャ、カシャ、カシャ。
そこへ、廊下のドアが開き、佳代さんと八歳の明日香が大きな花束を持って入ってきた。
「繁治さん、泣きすぎよ」
佳代さんが優しく笑った。
「パパ、大人のくせに一番泣いてるー!」
明日香が言った。
クラス全員で先生に用意した寄せ書きの色紙と花束を渡した。
武田先生は花束を抱えたまま、何度も頭を下げて「ありがとう・・ありがとうな・・」と泣き笑いを浮かべた。
最後のホームルームが終わった。
教室や廊下、陽の当たる中庭は、別れを惜しむ生徒たちの熱気に包まれていた。
窓際の光の中で、浩二が美奈子の前に立っていた。
浩二の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだったが、その手元は丁寧だった。
昨夜、金属磨きでピカピカに磨き上げた学ランの胸元。
上から二番目の「第二ボタン」に太い指をかけ、力を込めて引っ張った。
ブチッ、と糸が切れる音がした。
浩二は黄金色に光る第二ボタンを、両手で美奈子へ差し出した。
「美奈子ちゃん、約束通り、俺の第二ボタンっす!」
美奈子は目から涙をポロポロとこぼしながら、小さな両手でそのボタンを受け取った。
「ありがとう、浩二くん。・・一生、大切にするね」
美奈子はボタンを胸に固く抱きしめ、最高に綺麗な笑顔を見せた。
その横で、健太が真理の前に立っていた。
「真理」
「なに?」
健太は無言で、自分の学ランの第二ボタンを掴み、力任せに引きちぎった。
プチッと音がして、健太の胸元からボタンが外れた。
「ほらよ。東京へ持ってけ」
健太は乱暴に真理の手の上にボタンを叩きつけた。
真理は手の中のボタンを見つめ、それから健太の顔を見た。
健太の目は真っ赤に腫れ上がり、鼻の頭も赤くなっていた。
「・・健太、一番最初に泣いたね」
真理が涙を流しながら笑った。
「泣いてねぇよ! 目にチョークの粉が入っただけだ!」
真理はボタンをぎゅっと握りしめ、健太の胸に顔を埋めた。
「ありがとう、健太。・・私、東京で頑張るね」
「おう。・・挫けそうになったら、いつでも電話してこいよ」
健太は真理の肩を、優しくポンポンと叩いた。
達也がその二人の姿を、少し離れた場所からレンズに収めた。
カシャ。
「渡辺」
由香が隣に歩み寄ってきた。
「何だ」
「私にも、一枚ちょうだいよ。最高のやつ」
「現像したら、送る」
達也は静かに言った。
「・・東京から、手紙と一緒に」
由香はふっと笑い、「楽しみに待ってるよ」と力強くうなずいた。
午後四時。
校門の前で、六人と武田先生夫婦、明日香が並んだ。
達也がカメラを三脚にセットし、最後のセルフタイマーを仕掛けた。
チッチッチッチッ・・。
赤いランプが点滅する。
「さあ、みんな! 泣き顔じゃなくて笑うぞ!」健太が大声を上げた。
「はいっす!」
浩二が胸を張った。
真理も、美奈子も、由香も、涙を拭いて笑顔を作った。
武田先生も花束を抱えて胸を張った。
チチチチチ・・!
「はい、チーズ!」
・・パシャ。
春の陽光が、七人の最高の笑顔を鮮やかに切り取った。
卒業証書の筒を抱え、六人は夕日に染まり始めた茜川橋へと歩き出した。
木造の橋の上で、川の流れを見つめながら、健太が静かに振り返った。
「行こう。俺たちの未来へ」
制服を着て歩く最後の夕暮れだった。
茜川は、彼らの旅立ちを祝福するように、春の光を映して優しく輝いていた。




