第二十五話 夕日の茜川橋
三月三日、午後四時三十分。
卒業式が終わった。
胸に赤いコサージュをつけた三十五人の生徒たちはそれぞれの帰り道へと散っていった。
城下町は静かな夕暮れの刻を迎えようとしていた。
三月の風は、日差しで温められた土の匂いと、山から吹き下りる雪解け水の冷気を同時に含み、肌を柔らかく撫でていった。
茜川のせせらぎは、夕陽の光を受けて黄金色の波紋を幾重にも描いていた。
制服を着て歩く、人生で最後の帰り道。
黒い筒に入った卒業証書を抱え、健太、浩二、達也、真理、美奈子、由香の六人は、吸い寄せられるように茜川橋のたもとへ集まってきた。
申し合わせたわけではなかった。
四月にこの橋で最初に出会った。
五月にクリームソーダを飲んだ。
七月に川へ飛び込んだ。
八月に夕立を避けた。
十月に文化祭の集合写真を撮った。
十一月に紅葉を見上げ、二月にタイムカプセルを埋めた。
彼らの青春のすべての始まりであり、帰る場所であった木造の茜川橋。
西の空から降り注ぐ夕日を浴び、燃えるような真っ赤な茜色に染まり始めていた。
「・・終わっちゃったね」
真理が橋の袂で足を止め、静かに呟いた。
「ああ。終わったな」
健太が上着のポケットに両手を突っ込み、夕日を見上げた。
胸元の第二ボタンがなくなった学ランの襟元が、少しだけ寒そうに開いていた。
「行こうっす。みんなで」
浩二の言葉に促され、六人は木造の橋板をカツン、カツンと音を立てて歩いた。
欄干にいつものように一列に並んだ。
春の夕日は、空を深いオレンジ色から鮮やかな茜色、そして紫色のグラデーションへと、一分一秒ごとに表情を変えながら染め上げていた。
川面にはその色彩がそのまま映し出され、まるで光の絵の具を溶かした絨毯の上を歩いているようだった。
言葉は出なかった。
六人は黙って欄干に身を預け、冷たい木肌の感触を肌で確かめながら、沈みゆく夕日を見つめていた。
風が吹き抜け、真理のまとめた髪がフワリと揺れた。
最初に口を開いたのは、浩二だった。
浩二は自分のポケットから、美奈子からもらったイチゴ柄の巾着袋を取り出し、手のひらに載せた。
となりに立つ美奈子の手元には、さっき浩二から手渡されたばかりのピカピカに磨かれた第二ボタンが握られている。
「美奈子ちゃん」
「ん? 」
浩二は美奈子のほうを向き、大きな体を少し丸めて、美奈子の目をまっすぐに見つめた。
「俺、岐阜の農業大学校に行っても、毎週手紙書くっす。字は下手くそだし、誤字だらけだと思うっすけど、絶対書くっす」
美奈子の目から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「うん。浩二くんの手紙、世界で一番楽しみにしてるよ。私が書いた新しい物語も、一番最初に浩二くんに送るね」
「美奈子ちゃん、俺、休みになったら、絶対この茜川橋に戻ってくるっす。だから・・また一緒にこの川を見るっす!」
「うん。約束だよ。私、ずっとここで待ってるから」
美奈子は涙を拭い、花が咲いたような笑顔を見せた。
浩二の大きな手が、美奈子の小さな肩にそっと触れ、二人は夕日の中で寄り添うように立ち尽くした。
となりで、達也がカメラケースのストラップを握りしめていた。
その横に、由香が欄干に肘をついていた。
「達也」
由香が言った。
「何」
「東京行っても、写真やめないでよ。カメラ構えてるときの顔、すごくいい。私、一番のファンなんだからね」
達也はしばらく無言で、茜川の水面を見つめていた。
それから、静かに口を開いた。
「・・やめない。東京で写真を撮り続けて、いつか自分の個展を開く」
達也は由香のほうを向き、滅多に見せない柔らかい目をした。
「個展を開いたら、一番最初にお前を招待する。招待状を郵送する」
由香の口元が、嬉しそうに大きく歪んだ。
「当たり前よ! 一番前の真ん中で見てやるから! ちゃんと連絡しなよ!」
由香は右手を固く握り締め、達也の前に突き出した。
達也は少し呆れたような顔をしながらも、自分の拳をそっと由香の拳に打ち当てた。
コン、と小さな音が響いた。
不器用な二人の絆の確かめ合いだった。
そして、橋の端。
健太と真理が、二人きりの空間のように並んで立っていた。
健太は握りしめた拳をポケットの中で固く丸めていた。
となりに立つ真理の横顔は、夕日を浴びて透き通るように美しかった。
「・・明日、・・東京行っちゃうんだな」
健太の声は、かすかに震えていた。
真理はゆっくりと健太のほうを振り向いた。
その目には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「うん。朝の列車で、お母さんと一緒に」
「そっか。荷物、重かったろ」
「うん。でも、胸のほうが、ずっと重い・・」
真理の声が、途中で途切れた。
ぽろぽろと涙が溢れ出し、真理は制服の袖で必死に目を擦った。
「寂しいよ、健太・・ みんなと離れたくないよ・・! 健太と離れたくないよ・・!」
真理が本音を吐き出した。
四月からずっと、強がりを言い、学級委員としてしっかり者を演じていた。
東京への恐怖を胸の奥に押し込んできた真理が、子供のように声を上げて泣いた。
健太の胸の奥で、何かが激しく弾けた。
健太はポケットから手を取り出し、真理の細い手首をギュッと握りしめた。
「真理!」
真理が驚いて顔を上げた。
「離れてたって、東京とここがどんなに遠くたって、俺たちの距離は変わらねぇよ!」
健太は真理の目をまっすぐ見つめ、声を張り上げた。
「俺の心の中には、ずっとお前がいる! 茜川橋の夕日も、喫茶茜のクリームソーダも、お前の笑顔も、全部ここにあるんだよ!」
健太は自分の胸を拳で強く叩いた。
「東京で苦しいことがあったら、寂しくて泣きそうになったら、いつでもこの橋の夕日を思い出せ! 俺はいつでもお前の味方だ! 新幹線に乗ってでも飛んでいくって言ったろ!」
「健太・・」
真理は耐えきれなくなり、健太の胸に勢いよく飛び込んだ。
健太は真理の肩をしっかりと抱きしめた。
真理の涙が健太の学ランの胸元を濡らした。
髪からほのかな花のような匂いが立ち上った。
健太は真理の背中を、優しく、何度も叩いた。
「好きだ、真理。ずっと前から好きだった」
健太が耳元で静かにつぶやいた。
真理は健太の胸の中で深くうなずき、健太の背中に回した手にキュッと力を込めた。
「私も、私も大好きだよ、健太・・!」
夕日の光が、抱き合う二人の影を、橋の上に長く美しく描き出していた。
やがて、真理が涙を拭い、健太の胸からゆっくりと離れた。
その顔には、涙の痕とともに、すっきりと晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
浩二と美奈子、達也と由香も、温かい目でふたりを見つめていた。
「よーし!」
健太が大声を上げ、鼻をすする音を誤魔化すようにパンパンと手を叩いた。
「達也! 最後の一枚、撮ってくれよ!」
達也は黙ってうなずき、キヤノンAE-1を両手で構えた。
レンズの向こうに、真っ赤な夕日背にして立つ五人の仲間たちの姿が映る。
涙と笑顔が混ざり合った、最高に愛おしい表情だった。
達也は息を静かに止め、ピントを合わせた。
ファインダーの中で、五人の輪郭がくっきりと光を帯びて浮かび上がる。
パシャ。
金属質なシャッター音が、茜川のせせらぎの中に溶けていった。
「よし、撮れた」
達也がカメラを下ろすと、健太が欄干に向かって両手を広げた。
「みんな! 最後に、この夕日に向かって全員で大声出そうぜ!」
「いいね!」
由香が真っ先に賛成した。
六人は欄干にぴったりと並び、深く息を吸い込んだ。
「さん、はい!」
「「「「「「ありがとうーーーっっっ!!! 3B最高ーーーっっっ!!!」」」」」」
六人の叫び声が、夕闇の迫る茜川の谷間に響き渡った。
山々にこだまし、川の瀬音と交ざり合って、どこまでも、どこまでも遠くへ飛んでいった。
涙がこぼれ、笑い声が弾け、互いの肩を叩き合う。
甘くて、切なくて、温かい、人生で最高の別れのときだった。
西の空の茜色が少しずつ深まり、深い紫色の夜の帳が降りてきた。
街灯がひとつ、またひとつと灯り始め、茜川の水面が星の光を映し始める。
「行こう」
健太が言った。
六人は自然と手を繋ぎ合い、横一列になって木造の茜川橋を渡り始めた。
カツン、カツンと足音が響いた。
後ろを振り返れば、彼らの一年間の思い出が、真っ赤な橋脚の陰に静かに眠っている。
前を見つめれば、それぞれの新しい未来が、暗闇の向こうで静かに光を放っていた。
彼らの青春は、今、最高の笑顔とともに、幕を閉じた。




