↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/27

第二十六話 始発列車と振られた手

 三月上旬。

 城下町は、まだ夜の静寂の中に静かに沈んでいた。


 午前五時三十分。

 空の端がほんのりと薄紫色の朝もやに溶け込み始めていた。

 街灯の黄色い明かりは冷たい路地をぼんやりと照らしていた。

 春浅い空気の中には、雪解け水の澄んだ湿り気と、どこか寂しげな朝の匂いが満ちていた。

 茜川からは「毛あらし」と呼ばれる白い川霧がふわりと立ち上り、木造の茜川橋は静かに眠るように横たわっていた。

 古びた瓦屋根の上には朝露が光り、どこか遠くで早起きの鳥が一羽、チッチッと静かに鳴いていた。


 今日、三月六日は、真理と達也が東京へ旅立つ朝だった。

 喫茶「茜」の前には、大きな二つのトランクケースを積んだ黒いタクシーがエンジンを低く響かせて待機していた。

 二階の部屋から、真理がネイビーのコートを着て下りてきた。

 母が店のカウンターの陰で、静かに娘の荷物を見つめていた。

 母の手には、出来立ての温かいおにぎりと、ほうじ茶の入った水筒が握られていた。


「真理。風邪ひかないようにね。ご飯はちゃんと食べるのよ」

「うん。お母さんも、お店無理しないでね」

 真理は母と軽く抱き合い、おにぎりを受け取った。

 そして店のドアを開けた。

 小さなカウベルがチリンと寂しげな音を立てた。

 あの日、健太たちが初めてやってきてクリームソーダを飲んだ、あのドア。

 真理はタクシーのシートに深く腰掛けた。

 ゆっくりと走り出す車の後部座席から、小さくなっていく自分の家とお店を見つめていた。


 同じ頃、達也の自宅の大きな玄関前。

 達也は重いボストンバッグとカメラバッグを両肩にかけ、静かに立っていた。

 玄関の引き戸がガラリと開き、父・宗一郎が出てきた。

 白衣ではなく、ネイビーの分厚いコートを着ている。

 父と息子は、数秒間、言葉もなく見つめ合った。

 父はポケットから小さな箱を取り出し、達也のバッグの隙間に押し込んだ。

 富士フイルムのカラーフィルム三本だった。


「・・体に気をつけてな」

 父が静かに口を開いた。

「現像の薬品で手を荒らすなよ。・・困ったことがあったら、いつでも電話してこい」

 達也は驚いたように目を見開き、それから静かに頭を下げた。

「・・はい。行ってきます、父さん」

「ああ。行ってこい」

 父はそれ以上何も言わず、ただ静かに息子の背中を見送っていた。


 健太の自室では、目覚まし時計が鳴る二分前に健太が目を覚ましていた。

 バッと布団を跳ね飛ばし、上着を引っ掴むと、首に赤いウォークマンをかけて階段を駆け下りた。

「健太、どこ行くの!?」

 母親の声が追ってきた。

「駅!」と叫んで玄関を飛び出した。

 朝露の降りた道を、健太は全速力で駅へ走った。


 午前五時四十五分。

 郡上八幡駅。

 古びた木造の駅舎と改札口には、薄暗い朝もやが立ち込めていた。

 ホームの黄色い灯りがぼんやりと揺れていた。

 トランクを抱えた真理と達也が、静かなホームのベンチの前に立っていた。


「来たよ!」

 息を切らしながら、改札口から健太、浩二、美奈子、由香が飛び込んできた。

 後ろから、ハイライトの煙を吐きながら武田先生が歩いてきた。

「みんな・・!」

 真理の目から、一瞬で涙が溢れ出した。

「バカ、間に合わないかと思ったぞ!」

 健太が膝に手をつきながら肩で息をした。

「走ってきたっす! 足がもつれそうだったっす!」

 浩二が汗を拭った。

 美奈子が真理に駆け寄り、イチゴ柄の小さな巾着袋を手渡した。

「これ・・みんなからの寄せ書きの手紙とお菓子。電車の中で読んでね。寂しくなったら、いつでも開けてね」

「美奈子ちゃん・・ありがとう」

 真理が巾着を胸に抱きしめた。


 由香が真理の肩をガシッと掴んだ。

「真理! おしゃれな服、いっぱいデザインしなよ! 出来上がったら一番に私に送ってよ! 着るからさ!」

「うん、絶対送るね! 由香、陸上続けてね!」

 浩二は達也の前に立ち、大きな手を差し出した。

「達也さん! 東京で写真家として大成功するっす! 俺、達也さんの写真集が出たら、絶対に一番最初に買って、自分の畑の物置に飾るっす!」

 達也は小さく口元を緩め、浩二の手をギュッと握り返した。

「ああ。お前も美味い野菜を作れ。美味い米ができたら、東京に送れ」

「任せるっす!」


 武田先生が二人の前に立った。

 胸ポケットからハイライトを取り出し、火をつけずに口にくわえた。

「高橋、渡辺。・・東京は広い。迷うこともあるだろう。だが、お前らには帰る場所がある。困ったら、いつでもこの町へ帰ってこい。俺も佳代も、茜川橋でお前らを待っとる」

「先生・・ありがとうございました!」

 真理と達也が深く頭を下げた。

 武田先生は二人の肩をポンポンと優しく叩いた。

 キィィィィィ・・!

 遠くの線路から、重い金属音が響いた。

 暗闇の向こうから、黄色い二重のヘッドライトを光らせて、二両編成のディーゼル始発列車が入線してきた。


 ガタゴト、ガタゴト。

 重いエンジン音と、ディーゼル油の芳しい匂いがホームを満たした。

 ドアがプシューッと音を立てて開いた。

「乗るぞ」達也がトランクを持ち上げた。

「うん・・」

 真理がステップに足をかけ、振り返った。

 健太が真理の前に一歩踏み出た。

 ポケットから取り出したのは、爪を折り忘れたあのTDKのカセットテープだった。

「これ、持ってけよ」

「健太、これ、タイムカプセルに入れたんじゃ・・」

「ダビングしておいたよ! 涙のリクエスト、A面の一曲目に入ってるから! 東京で寂しくなったら、ウォークマンで聴けよ!」

 真理はカセットテープを受け取り、涙でぐしゃぐしゃの顔で微笑んだ。

「健太、私、行ってくるね。・・忘れない、絶対に」

「おう! 元気でな! 東京に負けんなよ!」

 健太の叫び声とともに、列車のドアがプシューッと重い音を立てて閉まった。


 カシャン、と連結器が音を立て、始発列車がゆっくりと動き出した。

 ガラガラ・・ゴトゴト・・。

 真理と達也が窓を開け、身を乗り出して大きく手を振り始めた。

「真理ーーーーーっ! 達也ーーーーーっ!」

 健太がホームを全力で走り出した!

「行ってらっしゃーーーーーいっ! 負けんなよーーーーーっ!」

 浩二も大柄な体を揺らしながらホームを激走した。

「達也さんーーーっ! 頑張るっすーーーっ!」

「二人ともーーーっ! 風邪引かないでねーーーっ!」

 美奈子と由香が涙を流しながら叫び、ホームの端まで走った。

 武田先生がホームのベンチの横に立ち、口にくわえたハイライトを指で挟み、大きく手をひらひらと振っていた。


 列車はホームを離れ、スピードを上げて夜明けの線路へ消えていった。

「 茜川橋へ行くぞ!」

 健太が叫び、全員が改札口を飛び出した!

 早朝の路地を、六人と武田先生が全力で走った。

 息が切れ、脚がもつれそうになった。


 茜川橋へ到着したとき、東の山端から、眩しい金色の朝日が差し込んできた。

 真っ赤に染まり始める木造の茜川橋。

 遠くの鉄橋を、ガタゴトと音を立てて渡っていくディーゼル列車の姿が見えた。

「おーーーい! 二人ともーーーっ!」

 健太が茜川橋の欄干に駆け寄り、両手を大きく突き出して全身で手を振り始めた!

 浩二が欄干から身を乗り出し、「届いてくれっすーーーっ!」と大声を張り上げた。

 美奈子と由香が肩を抱き合い、涙でぐしゃぐしゃになりながら手を振り続けた。

 武田先生が橋の真ん中で立ち、朝日に照らされながら、力強く手を振り続けた。


 列車の中。

 窓から身を乗り出していた真理の目に、朝日に輝く茜川橋と、その上で全身で手を振り続ける健太たちの姿が飛び込んできた。

「健太! みんな・・!」

 真理は窓枠に顔を押し当て、子供のように大声を上げて号泣した。

 小さくなっていく茜川橋、小さくなっていく仲間たちの影。

 達也が泣きながらキヤノンAE-1を構えた。

 ファインダー越しに涙で滲むレンズ。

 朝日に照らされて手を振り続ける仲間たちの姿。

 シャッターを連続で切った。

 カシャ、カシャ、カシャ・・。

 列車は鉄橋を渡り切り、山の陰へと完全に姿を消した。

 後には、遠いレール音と、茜川の静かなせせらぎだけが残された。

 朝日に包まれた茜川橋の上。

 健太は両手をあげたまま、しばらく動けなかった。

 涙が頬を伝い、ポロポロと橋板へ落ちた。


 健太はポケットからウォークマンを取り出し、イヤフォンを耳に差し込んだ。

 スイッチを入れる。

 流れてきたのは、チェッカーズの『涙のリクエスト』だった。

『♪最後のコインに 祈りをこめて・・』

 健太は前を向いた。

 朝日に照らされた茜川の流れはどこまでも澄み渡り、彼らの未来へ力強く流れ続けていた。

 旅立ちの朝が、今、静かに明けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。