第二十六話 始発列車と振られた手
三月上旬。
城下町は、まだ夜の静寂の中に静かに沈んでいた。
午前五時三十分。
空の端がほんのりと薄紫色の朝もやに溶け込み始めていた。
街灯の黄色い明かりは冷たい路地をぼんやりと照らしていた。
春浅い空気の中には、雪解け水の澄んだ湿り気と、どこか寂しげな朝の匂いが満ちていた。
茜川からは「毛あらし」と呼ばれる白い川霧がふわりと立ち上り、木造の茜川橋は静かに眠るように横たわっていた。
古びた瓦屋根の上には朝露が光り、どこか遠くで早起きの鳥が一羽、チッチッと静かに鳴いていた。
今日、三月六日は、真理と達也が東京へ旅立つ朝だった。
喫茶「茜」の前には、大きな二つのトランクケースを積んだ黒いタクシーがエンジンを低く響かせて待機していた。
二階の部屋から、真理がネイビーのコートを着て下りてきた。
母が店のカウンターの陰で、静かに娘の荷物を見つめていた。
母の手には、出来立ての温かいおにぎりと、ほうじ茶の入った水筒が握られていた。
「真理。風邪ひかないようにね。ご飯はちゃんと食べるのよ」
「うん。お母さんも、お店無理しないでね」
真理は母と軽く抱き合い、おにぎりを受け取った。
そして店のドアを開けた。
小さなカウベルがチリンと寂しげな音を立てた。
あの日、健太たちが初めてやってきてクリームソーダを飲んだ、あのドア。
真理はタクシーのシートに深く腰掛けた。
ゆっくりと走り出す車の後部座席から、小さくなっていく自分の家とお店を見つめていた。
同じ頃、達也の自宅の大きな玄関前。
達也は重いボストンバッグとカメラバッグを両肩にかけ、静かに立っていた。
玄関の引き戸がガラリと開き、父・宗一郎が出てきた。
白衣ではなく、ネイビーの分厚いコートを着ている。
父と息子は、数秒間、言葉もなく見つめ合った。
父はポケットから小さな箱を取り出し、達也のバッグの隙間に押し込んだ。
富士フイルムのカラーフィルム三本だった。
「・・体に気をつけてな」
父が静かに口を開いた。
「現像の薬品で手を荒らすなよ。・・困ったことがあったら、いつでも電話してこい」
達也は驚いたように目を見開き、それから静かに頭を下げた。
「・・はい。行ってきます、父さん」
「ああ。行ってこい」
父はそれ以上何も言わず、ただ静かに息子の背中を見送っていた。
健太の自室では、目覚まし時計が鳴る二分前に健太が目を覚ましていた。
バッと布団を跳ね飛ばし、上着を引っ掴むと、首に赤いウォークマンをかけて階段を駆け下りた。
「健太、どこ行くの!?」
母親の声が追ってきた。
「駅!」と叫んで玄関を飛び出した。
朝露の降りた道を、健太は全速力で駅へ走った。
午前五時四十五分。
郡上八幡駅。
古びた木造の駅舎と改札口には、薄暗い朝もやが立ち込めていた。
ホームの黄色い灯りがぼんやりと揺れていた。
トランクを抱えた真理と達也が、静かなホームのベンチの前に立っていた。
「来たよ!」
息を切らしながら、改札口から健太、浩二、美奈子、由香が飛び込んできた。
後ろから、ハイライトの煙を吐きながら武田先生が歩いてきた。
「みんな・・!」
真理の目から、一瞬で涙が溢れ出した。
「バカ、間に合わないかと思ったぞ!」
健太が膝に手をつきながら肩で息をした。
「走ってきたっす! 足がもつれそうだったっす!」
浩二が汗を拭った。
美奈子が真理に駆け寄り、イチゴ柄の小さな巾着袋を手渡した。
「これ・・みんなからの寄せ書きの手紙とお菓子。電車の中で読んでね。寂しくなったら、いつでも開けてね」
「美奈子ちゃん・・ありがとう」
真理が巾着を胸に抱きしめた。
由香が真理の肩をガシッと掴んだ。
「真理! おしゃれな服、いっぱいデザインしなよ! 出来上がったら一番に私に送ってよ! 着るからさ!」
「うん、絶対送るね! 由香、陸上続けてね!」
浩二は達也の前に立ち、大きな手を差し出した。
「達也さん! 東京で写真家として大成功するっす! 俺、達也さんの写真集が出たら、絶対に一番最初に買って、自分の畑の物置に飾るっす!」
達也は小さく口元を緩め、浩二の手をギュッと握り返した。
「ああ。お前も美味い野菜を作れ。美味い米ができたら、東京に送れ」
「任せるっす!」
武田先生が二人の前に立った。
胸ポケットからハイライトを取り出し、火をつけずに口にくわえた。
「高橋、渡辺。・・東京は広い。迷うこともあるだろう。だが、お前らには帰る場所がある。困ったら、いつでもこの町へ帰ってこい。俺も佳代も、茜川橋でお前らを待っとる」
「先生・・ありがとうございました!」
真理と達也が深く頭を下げた。
武田先生は二人の肩をポンポンと優しく叩いた。
キィィィィィ・・!
遠くの線路から、重い金属音が響いた。
暗闇の向こうから、黄色い二重のヘッドライトを光らせて、二両編成のディーゼル始発列車が入線してきた。
ガタゴト、ガタゴト。
重いエンジン音と、ディーゼル油の芳しい匂いがホームを満たした。
ドアがプシューッと音を立てて開いた。
「乗るぞ」達也がトランクを持ち上げた。
「うん・・」
真理がステップに足をかけ、振り返った。
健太が真理の前に一歩踏み出た。
ポケットから取り出したのは、爪を折り忘れたあのTDKのカセットテープだった。
「これ、持ってけよ」
「健太、これ、タイムカプセルに入れたんじゃ・・」
「ダビングしておいたよ! 涙のリクエスト、A面の一曲目に入ってるから! 東京で寂しくなったら、ウォークマンで聴けよ!」
真理はカセットテープを受け取り、涙でぐしゃぐしゃの顔で微笑んだ。
「健太、私、行ってくるね。・・忘れない、絶対に」
「おう! 元気でな! 東京に負けんなよ!」
健太の叫び声とともに、列車のドアがプシューッと重い音を立てて閉まった。
カシャン、と連結器が音を立て、始発列車がゆっくりと動き出した。
ガラガラ・・ゴトゴト・・。
真理と達也が窓を開け、身を乗り出して大きく手を振り始めた。
「真理ーーーーーっ! 達也ーーーーーっ!」
健太がホームを全力で走り出した!
「行ってらっしゃーーーーーいっ! 負けんなよーーーーーっ!」
浩二も大柄な体を揺らしながらホームを激走した。
「達也さんーーーっ! 頑張るっすーーーっ!」
「二人ともーーーっ! 風邪引かないでねーーーっ!」
美奈子と由香が涙を流しながら叫び、ホームの端まで走った。
武田先生がホームのベンチの横に立ち、口にくわえたハイライトを指で挟み、大きく手をひらひらと振っていた。
列車はホームを離れ、スピードを上げて夜明けの線路へ消えていった。
「 茜川橋へ行くぞ!」
健太が叫び、全員が改札口を飛び出した!
早朝の路地を、六人と武田先生が全力で走った。
息が切れ、脚がもつれそうになった。
茜川橋へ到着したとき、東の山端から、眩しい金色の朝日が差し込んできた。
真っ赤に染まり始める木造の茜川橋。
遠くの鉄橋を、ガタゴトと音を立てて渡っていくディーゼル列車の姿が見えた。
「おーーーい! 二人ともーーーっ!」
健太が茜川橋の欄干に駆け寄り、両手を大きく突き出して全身で手を振り始めた!
浩二が欄干から身を乗り出し、「届いてくれっすーーーっ!」と大声を張り上げた。
美奈子と由香が肩を抱き合い、涙でぐしゃぐしゃになりながら手を振り続けた。
武田先生が橋の真ん中で立ち、朝日に照らされながら、力強く手を振り続けた。
列車の中。
窓から身を乗り出していた真理の目に、朝日に輝く茜川橋と、その上で全身で手を振り続ける健太たちの姿が飛び込んできた。
「健太! みんな・・!」
真理は窓枠に顔を押し当て、子供のように大声を上げて号泣した。
小さくなっていく茜川橋、小さくなっていく仲間たちの影。
達也が泣きながらキヤノンAE-1を構えた。
ファインダー越しに涙で滲むレンズ。
朝日に照らされて手を振り続ける仲間たちの姿。
シャッターを連続で切った。
カシャ、カシャ、カシャ・・。
列車は鉄橋を渡り切り、山の陰へと完全に姿を消した。
後には、遠いレール音と、茜川の静かなせせらぎだけが残された。
朝日に包まれた茜川橋の上。
健太は両手をあげたまま、しばらく動けなかった。
涙が頬を伝い、ポロポロと橋板へ落ちた。
健太はポケットからウォークマンを取り出し、イヤフォンを耳に差し込んだ。
スイッチを入れる。
流れてきたのは、チェッカーズの『涙のリクエスト』だった。
『♪最後のコインに 祈りをこめて・・』
健太は前を向いた。
朝日に照らされた茜川の流れはどこまでも澄み渡り、彼らの未来へ力強く流れ続けていた。
旅立ちの朝が、今、静かに明けていった。




