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第二十七話 茜川橋のたもとで

 一九九五年(平成七年)二月十五日。

 昭和六十年からちょうど十年という歳月が流れていた。


 一月の半ばに発生した阪神・淡路大震災の余波が日本中を揺らしていた。

 ポケットベルやPHS、CDプレイヤーが街にあふれ、新時代の足音が慌ただしく聞こえる平成七年の冬。

 だが、岐阜県郡上八幡の城下町は十年前と変わらない静かな佇まいが残されていた。


 長良川鉄道の気動車から郡上八幡駅のホームへ降り立ったのは、二十八歳になった佐藤健太だった。

 健太は、ショートコートを羽織り、革のビジネスバッグを手にしていた。

 三十歳が近づいて、大人っぽい落ち着きが出てきた。

 でも、目にはあの頃と同じ少年らしい輝きが残っていた。

 地元で中堅の企業に勤めていた。

 社会の荒波に揉まれながらも、健太の胸の中にはいつもあの歌が流れていた。

 健太は上着のポケットから、小さくなったウォークマンを取り出し、イヤフォンを耳に当てた。

 テープが回り、チェッカーズの『涙のリクエスト』のイントロが流れる。

「・・十年か」

 健太は城下町の路地を歩き始めた。


 山々の残雪、古い瓦屋根から立ち上る生活の煙。

 せせらぎを響かせる茜川の透明な水。

 街並みは十年前と何一つ変わっていなかった。

 茜川橋へ近づくにつれて、健太の胸の鼓動が高鳴っていった。

 木造の古びた茜川橋。

 橋のたもと、あの大きな柳の木の前に、人影が集まっていた。

「健太ーーーーーっ!」

 大柄な男が手を振りながら駆け寄ってきた。

 逞しい男の顔になった小林浩二だった。

 実家の農家をしっかりと継ぎ、地元でも評判の旨い米と野菜を作る若手農家として活躍していた。


「浩二! 久しぶり!お前、相変わらずデカいな!」

 健太が笑って浩二とガシッと抱き合った。

「健太くん!」

 声をかけたのは、真理だった。

 東京の服飾ブランドで若手デザイナーとして一本立ちしていた。

 洗練されたシックなコートを身にまとい、すっかり大人の女性へと成長していた。

 だが、その瞳の輝きと、健太を見つめる優しい笑みは十七歳のあの頃のままだった。

「真理・・綺麗になったな」

 健太が少し照れくさそうに言った。

「健太こそ、かっこよくなったじゃない」

 真理が微笑んだ。


 となりには、地元の老舗和菓子屋を継ぎつつ、新人賞に応募して小説家としての第一歩を踏み出し始めている美奈子がいた。

 実業団の陸上コーチとして活躍する快活な由香もいた。

 そして東京でプロの写真家として個展を開くまでに成長した渡辺達也が立っていた。

 達也の肩には、あの日と同じキヤノンAE-1が下げられていた。


 そして、橋の真ん中から、懐かしい声が響いた。

「おーい、お前ら、 遅刻だぞ!」

 振り返ると、少し白髪の混ざったボサボサ頭の武田繁治が立っていた。

 その横には、温かい笑顔の佳代さん。

 そして、すらりと背が伸びた十八歳の明日香がいた。

「 佳代さん! 明日香ちゃん!?」

 健太が目を丸くした。


「健太お兄ちゃん! 相変わらず前髪セットしてるんだね!」

 十八歳になった明日香が駆け寄ってきた。

 八歳の頃と同じ笑顔だった。

 すっかり大人っぽくなったが、勝ち気で無邪気な目はあの頃のままだった。

「明日香ちゃん、こんなに大きくなって・・ もう高校卒業か・・」

 健太がため息を尽きながら言った。

「当たり前じゃない、十年経ったんだから!」

 明日香が胸を張った。


 佳代さんが大きなバスケットを抱えて、優しく目を細めた。

「みんな、元気に二十八歳になったのねぇ。今日はおにぎりと温かいほうじ茶、たくさん淹れてきたわよ」

「うわぁ! 佳代さんのおにぎり! 懐かしいっす!」

 浩二が叫んだ。


 平成七年二月十五日。

 あの雪の日に交わした小指の約束通り。

 生徒六人、武田先生、佳代さん、明日香が全員揃って、茜川橋のたもとに集まった。


 大きな柳の木の根元。

 浩二と健太が、持参したスコップを泥の中に突き立てた。

 ザクッ、ザクッ。

 十年前の二月、粉雪が舞う中で掘り進めたあの感触が、手のひらに鮮やかによみがえる。

 冷たい土の匂いと、ガツンと石に当たる手応え。

「あったぞ!」

 スコップの先に、三重のビニール袋に包まれた物体が当たった。

 二人が手で土を払い、かき出すと、そこからあの赤くて丸い『泉屋のビスケット缶』が現れた。

 ビニールを剥がすと、フタのフチのサビは少し広ろがっていたが、中身はしっかりと守られていた。


 全員が茜川橋の欄干の前に輪になって座り込んだ。

 佳代さんが持参した温かいほうじ茶をみんなのコップに注いだ。

 健太がフタに手をかける。

 パチン、という重い金属音が響き、フタが開けられた。

 十年前の昭和六十年の空気が、ほんのり甘いクッキーの匂いとともにあふれ出た。


「うわぁ、すごい・・」

 美奈子が感極まった声を上げた。

「これ、健太お兄ちゃんたちが詰めてた缶だね!」

 明日香も目を輝かせて覗き込んだ。

 缶の中に閉じ込められていた「宝物」を、ひとつずつ手にとっていった。

 まず、由香が自分の潰れたポカリ缶を持ち上げた。

「これ、七月のインターハイ予選で負けた日のやつ。あの日、達也が黙って隣にいてくれたんだよね」

「あの時の写真なら、今でも俺の部屋に飾ってある」

 達也が静かに言った。

「お前の悔しそうな顔が、一番綺麗だったからな」

「バカ、恥ずかしいこと言うなよ」

 由香が照れ笑いを浮かべた。


 真理が喫茶「茜」のマッチ箱を手にとった。

「これ。五月にみんなで初めてお店に来てくれた時のやつ。お母さんの喫茶店、私が東京から戻ったら継ぐことに決めたの。あの時のクリームソーダの味を、ずっと守りたくて」

 健太が真理の顔を愛おしそうに見つめた。

「そうか、真理、戻ってくるか」

「うん。健太のとなりに戻ってくるよ」

 真理が優しく微笑んだ。


 浩二は、自分が「拝啓」と書いて三回失敗したボロボロのラブレターをつまみ上げた。

「これっす、俺の不器用さの結晶っす」

 美奈子が自分のバッグから、あの日に浩二からもらった学ランの第二ボタンを取り出して見せた。

「私ね、このボタンと浩二くんの手紙、今でも机の一番上の引き出しに入れてるの。浩二くんの美味しいお米と和菓子のおかげで、私、良い小説が書けそうだわ」

 浩二が大きな顔を真っ赤にして、「美奈子ちゃん、一生美味いもん作るっす!」と叫んだ。

 明日香が「ヒューヒュー! 浩二お兄ちゃん熱いー!」とからかった。

 皆がどっと笑った。


 佳代さんが手をお腹の前で重ねて微笑んだ。

「あの豪雪の日にね、みんながうちにやって来て、ストーブでお餅焼いて、うちのカレーを大盛りでおかわりしてくれたこと、今でもしっかり覚えてるわよ」

「十一月の誕生日に、お前らがサプライズで泣かせてくれたこともな」

 武田先生が照れくさそうにハイライトに火をつけた。


 達也が、あの夏の茜川橋で撮ったモノクロの集合写真を取り出した。

「東京で写真の仕事が辛くて挫けそうになった時、ずっとこの写真を見ていた」

 達也の手が写真を愛おしそうになぞった。

「俺の原点は、いつもこの橋の上にある」


 健太が、爪を折り忘れてラジオCMが入った『涙のリクエスト』のカセットテープを取った。

「八月の夕立の夜、真理に告白した時のテープ。あの時、100円玉が落っこちて電話が切れてさ、それで手紙を書いたんだ・・」

「消しゴムの痕で紙が破れそうだった手紙ね」

 真理が笑った。


 そして、武田先生がハイライトの空き箱を手にとった。

『お前らの先生で良かった 武田繁治』と裏に書かれていた。

「黒板に『人生は点数じゃない』って書いたよな。俺はお前たちの担任になれて、本当に幸せだった」

 先生の目から、十年前と同じボロボロの涙がこぼれ落ちた。

 肘当てジャケットの袖でゴシゴシと目を擦った。

「繁治さん、また泣いてる」

 佳代さんが苦笑いした。

 明日香が「パパ、相変わらず涙もろいんだから」と背中を叩いた。

 時代が平成に変わり、携帯電話やパソコンが生活を変えようとしている。

 しかし、缶の中に閉じ込められた昭和六十年というあの季節の輝きは、何一つ褪せていなかった。


 缶の一番下に置かれていた『十年後の自分への手紙』を、全員で静かに開いた。

 二十八歳になった彼らが、十七歳の自分たちが書いた青くさく真っ直ぐな言葉を読んだ。

 そこには、未来への希望と、仲間たちへの変わらない愛が綴られていた。

 達也がキヤノンAE-1を構えた。

「みんな、橋の欄干に並んで」

 健太、真理、浩二、美奈子、由香、達也。

 五十一歳の武田先生、笑顔の佳代さん、そして十八歳になった明日香。

「全員で撮るぞ」


 達也がカメラを三脚にセットした。

 セルフタイマーのレバーをカチリと下げた。

 達也が走って列の端に滑り込んだ。

 チッチッチッチッ・・。

 赤いランプが規則正しく点滅する。

 西の空は、十年前とまったく同じだった。

 深く燃えるような真っ赤な「茜色」に染まっていた。

 茜川の水面がその光を反射していた。

 九人の姿を美しいシルエットとして浮かび上がらせた。


「みんな、 笑顔!」

 健太が大声を上げた。

「佳代さん、明日香ちゃん、真ん中へ!」

 浩二が胸を張った。

 チチチチチ・・!

 パシャ。

 シャッター音が響いた。

 現在と過去、そして家族と仲間がひとつに重なり合った。

 最高の「九人」の写真が切り取られた。


「よし、撮れた」達也が笑った。

 九人は橋の手すりに背を預け、真っ赤に染まる夕空を見上げた。

「先生」

 健太が言った。

「人生は、点数じゃないな」

 武田先生がハイライトの煙を紫色に燻らせながらうなずいた。

「そうだ。」

 健太が上着のポケットからウォークマンを取り出した。

 小さなスピーカーをつないでスイッチを入れた。

 カチャリ。

 夕暮れの茜川橋の上に、懐かしいチェッカーズの『涙のリクエスト』が流れ始めた。

『♪最後のコインに 祈りをこめて ミッドナイト・ドリーム・・』

 藤井フミヤの歌声が、川風に乗って茜空へと溶けていく。


 九人は肩を組み合い、佳代さんが淹れてくれた温かいお茶を飲んだ。

 明日香の笑い声とともに夕日に向かって歌い、笑った。

 時代がどれほど移り変わろうとも。

 大人になってどれほど遠くへ離れようとも。

 茜川橋は、これからも彼らの永遠の「帰る場所」であり続けるだろう。

 茜色の光の中で、彼らの物語は、未来へ向かってどこまでも続いていく。

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