第八話 カセットテープのA面・B面
八月上旬の夜は、昼間の猛烈な熱気が壁や天井の土壁にそのまま残され、四畳半の部屋全体がぬるい蒸し風呂のようだった。
佐藤健太は、ランニングシャツと短パン一丁だった。
畳の上に座り込んで机の上の大型ダブルラジカセの前にかぶりついていた。
古い首振り扇風機がブーン、カタカタと首を振りながら、湿ったぬるい風を部屋の中に送り届けている。
窓を開けても、入ってくるのは夏草と川の湿った匂い、そして庭の草むらで鳴くスズムシの甲高い声だけ。
健太は指先を汗で滑らせながら、ラジカセの丸いチューニングダイヤルを慎重に回した。
チュウチュウという特有のジールノイズの向こうから、聞き慣れた軽快なトランペットの旋律・・『オールナイトニッポン』のテーマ曲「ビタースウィート・サンバ」がかすかなノイズを交えて聞こえてくる。
健太は息を殺し、テープの種類を「ノーマル」に合わせ、録音ボタンと再生ボタンを二本指で同時に構えた。
高橋真理に頼まれた・・いや、「お前にいいテープ作ってやるよ」と自分から半ば強引に約束したカセットテープを作っていた。
使用しているのは、小遣いを叩いて駄菓子屋兼文房具屋で買ったTDKの六十分テープ(AD-60)。
透明なハーフケースの中で、茶色い磁性体のテープが静かに静止している。
ラジオのDJが軽妙な語りを終え、「それじゃあ今週の第1位、チェッカーズで・・」と言った瞬間、健太は指先に力を込めて「ガチャリ」と重いボタンを押し込んだ。
左右のVUメーターの赤く細い針が、音楽の脈動に合わせてピコピコと跳ね始める。
A面の一曲目。
「涙のリクエスト」。
藤井フミヤの切ない歌声が、ラジカセの小さなスピーカーから流れてくる。
健太は部屋の蛍光灯の紐を引っ張って電気を消し、薄暗い部屋の中で赤く揺れるVUメーターの針だけを見つめていた。
自分の胸の鼓動が、ラジオのベースラインと重なって速くなっていくのを感じていた。
東京の短大へ行くかもしれない真理。
「涙のリクエスト」の歌詞にあるように、最後のリクエストになるかもしれないという予感が、健太の胸をちくりと締め付けていた。
曲が終わりに差しかかった。
健太は「一時停止ボタン」に指をかけ、曲の余韻をきれいに残そうとした。
だが、暗がりの中、緊張のあまりタイミングがわずかに遅れた。
「あ、しまっ・・よし」という自分の間の抜けた独り言と、提供スポンサーのCMアナウンスが十秒ほど録音されてしまった。
「あーっ! やっちまったーっ!」
健太は頭を抱えて畳の上に転がった。
健太は天井のぼんやりした常夜灯の赤い光を見上げ、大きなため息をついた。
だが、もうテープの巻き戻しはきかない。
健太は起き上がると、蛍光灯をつけ、付属のインデックスカードを取り出した。
そして、丸っこい不器用な字で『真理へ A面:涙のリクエスト/・・』と丁寧にペンを走らせた。
翌日の昼下がり。
太陽は容赦なく照りつけ、城下町の瓦屋根は蜃気楼の中にゆらゆらと水のように歪んでいた。
繁治は日直の当番を終え、学校からの帰り道に喫茶「茜」の冷房を求めてドアを押した。
カウベルがチリンと涼やかな音を立てた。
店内には、冷房の心地よい冷気と、濃いアイスコーヒーの香ばしい匂いが満ちている。
そして、ジャズのレコードの低いベース音が漂っている。
奥のボックス席には、すでに生徒たちの姿があった。
浩二が巨大なガラス皿に盛られた宇治金時を崩さないように慎重にスプーンで掘り進めている、
由香と達也はカウンター端でアイスコーヒーを飲みながら、富士フイルムのカラーフィルム現像代のことで言い争っていた。
美奈子は窓際の席でコバルト文庫のページを静かにめくっている。
カウンターの中では、チェック柄のエプロンを着た真理が、慣れた手つきでクリームソーダを作っていた。
緑色のメロンシロップに炭酸水を注ぎ、大きな氷を浮かべる。
その上に丸いバニラアイスクリームと真っ赤なチェリーを載せる。
真理はシロップをいつもより少し多めに入れていた。
「先生、どうぞ」真理が繁治のテーブルにクリームソーダを運んできた。
「ありがとな、真理」
繁治がアイスクリームをスプーンで崩しながら言った。
「今日も暑いな。健太はどうした?」
「健太なら、『重大な物がある』って言って、外で待ってるみたいです」
真理がふふっと楽しそうに笑った。
繁治が窓外に目をやると、強い日差しが照りつける店の前の柳の木陰に、健太が立っていた。
首から赤いウォークマンを下げている。
首筋に汗の粒子を光らせながら、ジリジリとした表情で店の中を伺っている。
ポケットの中を手でずっと弄んでいた。
「真理、行ってやってくれ。あいつ、熱中症で倒れそうだ」
「もう、バカなんだから」
真理はエプロンを外し、嬉しそうに店を出て行った。
茜川橋のたもとまで歩いたところで、真理は健太の背中に追いついた。
川面からは、日中の暑さを少しだけ和らげる冷たい水風が吹き上がってきている。
「健太、なにウロウロしてんのよ」
健太は跳び上がるように振り向いた。
前髪が汗で額にくっついている。
「お、真理! いや・・ほら、約束のやつ!」
健太はポケットから、透明なプラスチックケースに入ったカセットテープを差し出した。
ケースの中には、手書きのインデックスカードが見える。
拙い、だが一字一字一生懸命に書かれた丸文字。
真理は驚いたように目を見開きテープを受け取った。
「本当に作ってくれたんだ・・」
「おう。エアチェック頑張ったんだぞ。『オールナイトニッポン』聴きながらさ」
健太は照れくさそうに耳の裏を掻いた。
「たださ・・ちょっと失敗して」
「失敗?」
「 カセット の爪、折り忘れてさ。A面の一曲目の終わりに・・俺の『あ、しまっ・・よし』って声と、ライオン歯磨きのCMが入っちゃったんだよ」
健太が申し訳なさそうに眉を下げると、真理は一瞬ポカンとし、それから耐えかねたように吹き出した。
「あはは・・! なにそれ、健太の声が入ってんの?」
「笑うなよ! 一時停止ボタン押し損なったんだってば!」
「ううん、すごく健太らしくていいよ」
真理はインデックスカードの手書き文字を、指の腹で優しく撫でた。
『A面1曲目:涙のリクエスト』という文字を見つめ、真理の胸の奥が、ちくりと小さく痛んだ。
この曲を健太がなぜ一曲目に入れたのか。
健太の不器用な想いが、そのタイトルに込められていることを、真理は気づいていた。
だが、それを口にしてしまえば、今の二人の関係が壊れてしまうような気がして、真理は何も言わなかった。
「・・大事にするね、健太。夜、聴くよ」
「おう。爪は自分で折っとけよ」
健太は照れ隠しに大声で言い、照れくさそうに川面へ向かって背を向けた。
繁治は、喫茶店を出て茜川橋へ差し掛かったところで、二人の背中を見つけた。
柳の木の影に身を潜め、胸ポケットからハイライトを取り出して火をつける。
紫煙が夏の風に揺れ、濃密な八月の太陽の光の中に散っていく。
カセットテープ。
深夜、ラジオのノイズに耳をすませ、爪を折り忘れ、失敗しながらも好きな人のために時間を忘れて作る手作りテープ。
便利な通信手段がないからこそ、そこには「相手を思う時間」が丸ごと封入されていた。
繁治は、すり減ったジャケットの肘当てを撫でた。
かつて自分も、青かった頃があった。
原稿用紙に何度も消しゴムをかけながら、誰かのために言葉を紡いだ。
彼らの拙い手作りテープには、自分が失ってしまった純粋な熱量が宿っていた。
繁治は静かに煙を吐き出し、二人の背中を見つめた。
その夜。
真理の自室は、二階の角部屋にあった。
壁には松田聖子のカレンダーが飾られ、開け放した窓からは、八月の夜のしじまと涼しい川風が入ってきた。
真理は学習机の上に置かれた小型のソニー製ラジカセの前に座り、健太からもらったカセットテープを取り出した。
透明なケースからテープを取り出し、カセットデッキのトレイにセットする。
カチャリ、とプラスチックの音が部屋に響いた。
再生ボタンを押した。
モーターが滑らかに回転し始めた。
ヘッドフォンからシャーというテープ特有のヒスノイズが流れてきた。
そして・・。
ドラムの力強いカウントから、チェッカーズの「涙のリクエスト」が鮮やかに響き渡った。
ブラスセクションの華やかな音、藤井フミヤの甘く切ないボーカル。
真理は膝を抱え、ヘッドフォンから流れる音にじっと耳を澄ませた。
曲が終わる直前、音楽がフェードアウトしていく中で、突然ノイズが途切れ、「・・あ、しまっ・・よし」という健太の焦ったような独り言と、ラジオのCMアナウンスが聞こえてきた。
真理は、暗い部屋の中で一人、くすっと笑った。
笑いながら、目元が少しだけ熱くなるのを感じていた。
不器用で、間違いだらけで、でも世界にたった一つしかない手作りのテープ。
八月の夜空には、満天の星が広がっていた。
真理はヘッドフォンをつけ、静かに目を閉じ、A面の一曲目を巻き戻して何度も聴いた。




