第七話 茜川ジャンプ大会と由香の涙
七月も終わりに近づいた。
奥美濃の山あいを包む陽光のギラギラとした暑さはピークを迎え、茜ヶ丘高校の広いグラウンドは、焼きつけられた砂利と乾いた赤土の熱気で白く煙っていた。
夏休みの補習が終わった午後の四時、職員室の重い木製窓を開け放つと、遠くの陸上トラックからホイッスルの甲高い音がぬるい風に乗って途切れ途切れに届いてきた。
繁治が職員室の古びた机で補習の出席簿を整理していると、陸上部顧問を務める若い教員が、白い汗拭きタオルを首に巻いた姿で入ってきた。
その表情には疲労と落胆が色濃く影を落としていた。
「武田先生・・中村由香、惜しかったですよ」
「県予選か」
「はい。二百メートル決勝、コンマ一秒・・いや、コンマゼロ数秒の差で三位でした。インターハイの切符まで、あとほんのひと伸びだったんです」
顧問は悔しそうにパイプ椅子にドサリと腰を下ろし、湯呑みの冷えたお茶を一気に煽った。
「本人は『あたしにはこの程度がお似合いよ』なんて強がって笑ってましたけどね。
記録証を受け取ったあと、誰とも口を利かずにさっさと一人で荷物をまとめて帰っちまいました」
繁治は何も言わず、黒い革表紙の出席簿をパチンと静かに閉じた。
中村由香。
いつもアディダスの3本ラインが入ったジャージの袖をたくましく捲り上げ、「頼れるヒーロー」のように女子からも男子からも慕われているサバサバとした性格。
だが、その明るく威勢の良い佇まいの裏側に、どれほどストイックで苛烈な自律があったかを繁治はよく知っていた。
誰もいない早朝の六時、朝霧が残るグラウンド。
一人黙々とスタートダッシュのフォームを繰り返していた由香。
白いキャンバスシューズの擦れる音。
それを、繁治は早出の職員室の窓から何度も耳にしていた。
自分の青春をすべてそのトラックに賭けていた少女の、それが結末だった。
繁治はツイードジャケットを丸めて腕に抱え、半袖シャツの袖口を捲り上げて学校を出た。
夕刻の茜川沿いは、山から降りてくる冷たい空気と、川面の水蒸気が混ざり合い、ぬるく湿った夏の風が吹いていた。
日中のアブラゼミの猛烈な大合唱はいつしか影を潜め、斜面に生い茂る雑木林からは、ヒグラシのカナカナカナという哀切な鳴き声が涼やかな影のように通り過ぎていく。
茜川橋のたもと、大きな柳の木の影が濃厚になる川縁に差し掛かったとき、繁治の足がピタリと止まった。
水辺の青々とした草むらに、ひとつの小さな影がしゃがみ込んでいた。
アディダスのジャージを膝の上に固く抱き、丸めた背中を小さく震わせている。
白いスポーツタオルに顔を深々と埋め、微動だにしない。
声は一切なかった。
だが、その背中のこわばり具合から、溢れ出す圧倒的な悔しさと絶望の波が、夕暮れの空気にじわりと伝波していた。
いつもハキハキと声を張り上げ、健太たちの悪ふざけを「へろへろすんじゃないよ!」と笑い飛ばしていた由香が、誰の目も届かない川の陰で、声を殺して泣いていた。
コンマ一秒。
ほんのわずかな胸の差。
高校生活のすべてを注ぎ込んできた時間が、そのわずかな数字によって切り落とされた。
自分を支えていた何かが、ガラガラと崩れ落ちるような。
そんな虚無の中に、由香は一人で立っていた。
繁治は、声をかけるべきか迷い、足を一歩引きかけた。
剥き出しの傷口に、安易な「よく頑張った」などの慰めの言葉など、何の薬にもならない。
それを、繁治は自分の二十代の頃の挫折の記憶からよくわかっていた。
そのとき、上流の砂利道を、ゆっくりと歩いてくる規則的な靴音が聞こえた。
達也だった。
VANの衿付きシャツにスラックス。
肩にはいつものように、使い古されたキヤノンAE-1の重い革ケースが斜め掛けされていた。
達也は、しゃがみ込んで肩を震わせる由香の姿を目に留めると、ピタリと足を止めた。
いつものようにカメラケースのホックに手をかけることはしなかった。
ファインダー越しに世界を覗き、被写体を切り取るという行為。
それは、今の彼女に対する冒涜であると知っているかのように、ファインダーのレンズキャップをポケットの中で固く握りしめている。
達也は、何も言わなかった。
「どうしたの」とも「ドンマイ」とも言わなかった。
ただ、足音を殺して静かに歩み寄り、由香から二歩ほど離れた土手の草の上に、無言で腰を下ろした。
由香は達也の気配にハッとし、タオルに顔を埋めたまま全身をこわばらせた。
「・・見んなよ」
湿ったタオルの底から、掠れた低い声が漏れた。
達也は答えず、膝を抱えて、ただ橙色に光る茜川の川面を見つめていた。
「・・見んなって言ってるだろ、達也。カッコ悪いところ、撮るなよ」
「撮ってない」
達也がぽつりと言った。
低い、透き通った声だった。
「カメラ、出してない」
それきり、二人の間に長い沈黙が訪れた。
聞こえるのは、茜川の激しい川のせせらぎの音と、遠くの雑木林で鳴くヒグラシの声だけ。
達也は気休めの言葉を一言も口にしなかった。
ただ、二歩離れた場所で、同じ夕日を浴び、同じ冷たい川風を受けながら、静かに座っていた。
由香の肩の震えが、少しずつ、ゆっくりと小さくなっていく。
言葉で飾られたどんな励ましよりも、ただそこに理由なく寄り添う無言の時間が、由香の傷ついた心を静かに包み込んでいた。
その静寂を豪快に打ち破ったのは、上流からのバシャバシャという激しい水音と、野太い絶叫だった。
「待てーっ! 待つっすー! 俺の青春が流れるっすー!」
「浩二、あっちだ! 右の渦に巻き込まれてるぞ!」
「健太、足滑らせるなよ! 深いぞそこ!」
繁治が目を丸くして上流へ視線を向けると、ズボンの裾を太ももまで捲り上げた浩二と健太が、膝まで冷たい水に浸かりながら、必死の形相で激走してくるところだった。
ふたりの視線の先には、川面にプカプカと浮かびながら流れていく、何枚かの白い便箋。
「おい、何やってんだあいつら・・」
達也が呆れたように呟き、立ち上がった。
由香もタオルから顔を上げ、赤く腫らした目を見開いて呆然と川の上流を見つめた。
「達也! 拾え! 達也の目の前流れていくぞっ!」
健太が川の中でバシャバシャと激しい大水しぶきを上げながら叫ぶ。
浩二は大きな体を揺らし、「美奈子ちゃんへの手紙がーっ!」と絶叫しながら、浅瀬の石につっかかって派手に前へ転倒し、頭から水中に沈んだ。
プハッと顔を上げた浩二の角刈りの頭には、緑色の水草がズルリと載っていた。
流れてきた便箋が、ちょうど達也の足元の浅瀬に漂着した。
達也は膝を折り、濡れて半透明になった便箋を指先でそっと拾い上げた。
青いインクが水に滲んで読みにくくなっていた。
一番上の紙には、大きくて下手くそな、辞書を引き引き書いたような文字で、『拝啓 鈴木美奈子様 暑い日が続きますが、お饅頭は食べていますか』
と書かれていた。
「あ、あ、開けちゃダメっす! 見ちゃダメっす達也!」
浩二が全身びしょ濡れのまま浅瀬から這い上がり、達也から手紙をひったくるように奪い取った。
顔を耳まで真っ赤にして、濡れた手紙を胸に抱きしめている。
「お前・・美奈子に手紙書いてたのか」
健太が追いつき、膝に手をついて肩で息をしながら大笑いした。
「しかも拝啓って! お前、昭和の文豪かよ!」
「うるさいっす! 美奈子ちゃんが東京の女の子と文通してるって言ってたから、俺も文通の相手になろうと思って、三日かけて漢字調べたんっすよ!」
浩二が泣きそうな顔で叫ぶと、健太は腹を抱えて土手の草の上に倒れ込んだ。
その様子を見ていた由香の唇が、微かに動いた。
「・・プッ」
由香の手が口元を押さえたが、こみ上げてくるものを止められなかった。
「あはは・・何やってんのよ、浩二・・頭に草ついてる・・っ」
由香は涙の痕が残る顔のまま、声を上げて笑い出した。
一度笑い出すと止められなくなった。
涙と笑い声がぐちゃぐちゃに混ざり合って、夕暮れの土手に響き渡った。
達也は、お腹を抱えて笑う由香の横顔をじっと見つめた。
そっとポケットからキヤノンAE-1を取り出した。
レンズキャップを外し、ファインダーを覗く。
カシャリ。
乾いた、心地よいシャッター音が、夕暮れの川辺に響いた。
「あっ! 達也、また勝手に撮ったな!」
由香が涙を拭いながら叫ぶ。
達也はカメラを胸元に引き寄せ、視線をオレンジ色の夕日に向けながら、小さくつぶやいた。
「・・次は、走ってるところ、ちゃんと撮るから」
由香は一瞬ハッとしたように目を見開き、それから「・・フン、当たり前じゃない。一着になるところ撮んなきゃ承知しないんだから」と、いつものサバサバとした口調で言った。
だが、その口元には、確かな温かな笑みが戻っていた。
繁治は、柳の木の陰で静かにハイライトに火をつけた。
紫煙が風にたなびき、オレンジ色に染まる茜川の水面に溶けていく。
十七、十八の夏。
夢が破れる苦しさも、人に見せられない涙も、すべてが痛々しいほどに純粋だ。
その傷を癒すのは大人の説教ではなく、無言で隣に座る友の気配であり、バカバカしい仲間の笑い声なのだ。
びしょ濡れの浩二が「手紙乾かさなきゃ・・」と便箋をパタパタとあおぎ、健太が「全部滲んで読めねえよ!」とからかっている。
由香はジャージの袖で顔を拭い、達也の隣で沈む夕日を見つめていた。
繁治は携帯灰皿で吸い殻を消した。
気づかれないよう、静かに振り返って坂道を上りはじめた。
背後から届く若者たちの賑やかな笑い声と、茜川の豊かな水音が、七月の終わりの夜空へどこまでもどこまでも響き渡っていた。




