第六話 チョークの文字と万博の土産
七月に入ると、岐阜の山あいは一気に夏の強い日差しに包まれた。
梅雨の明けた空はどこまでも白く光り、校庭の大きなクスノキからは、校舎を揺らすようなアブラゼミの大合唱が絶え間なく降り注いでいた。
三年B組の教室では、天井に取り付けられた三枚羽の大型扇風機が、ブーンという重い低音を立てて回っていた。
だが、それは室内にとどまる湿ったぬるい空気をただ掻き回すだけで、汗ばんだ生徒たちの皮膚から熱を奪ってはくれない。
半袖の制服の袖口から覗く二の腕は、数日のうちにじわりと健康的な褐色へ日焼けし、ノートを開く腕にはうっすらと汗の膜が張っていた。
「・・というわけで、期末の答案は明日返す。赤点のやつは夏休み初日から補習だから覚悟しておけ」
教壇で出席簿をパチンと閉じると、繁治はジャケットのポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
更紙の束である答案用紙をトントンと机の角で揃える音まで、どこか暑苦しく響く。
教室の後ろでは、浩二が大きな体を揺らして「先生、赤点のラインって何点っすか!?」と必死の顔で声を上げた。
丸太のような腕で机を掴んでいる。
「三十点以下だ。小林、お前は毎回三十点の崖っぷちを綱渡りしてるからな」
「うっ・・頼むっす、今回は三十一点を目指して勉強したんっす・・!」
前列で健太が「お前、目標が低すぎるんだよ!」と大笑いし、真理が「健太だって英語の解答用紙、最後の方ズレてたじゃない」と横から突っ込む。
健太は「うぐっ」と胸を押さえて絶句した。
いつもと変わらない放課前の風景。
だが、黒板の右端に書かれた「終業式まであと三日」という白いチョークの文字が、否応なく高三の夏休みという二度と来ない時間が始まることを告げていた。
放課後、繁治は職員室でのテスト採点を途中で切り上げ、鞄を抱えて校門を出た。
駅前の喫茶「茜」へと向かう古い通りは、アスファルトに打たれた水がジュウと蒸発し、蒸し返すような土と草の濃い匂いが漂っていた。
木造の格子戸が連なる家々の軒先には風鈴が吊るされ、チリンと微かな音を立てている。
喫茶「茜」のドアを押すと、カウベルの乾いた音が響いた。
真理の母親が「あら武田先生、暑いですねえ」と、水滴をたっぷり纏ったアイスコーヒーを出してくれた。
ガラスコップの中でカランと氷が鳴る。
真理はまだ学校で学級委員の集まりがあるらしく、店にはいなかった。
コーヒーの苦みを喉に流し込んだ繁治は、そのまま足を伸ばして国鉄の茜ヶ丘駅へと向かった。
木造の小さな駅舎は、午後の強い日差しの中でひっそりと静まり返っていた。
改札口で駅員が鉄のハサミを鳴らすカチカチという規則的な音だけが、高い天井の木目調の空間に静かに反響している。
改札口のすぐ横、黒い木枠に囲まれた「駅伝言板」の前に、繁治の足が自然と止まった。
使い古されて表面がすり減った黒板には、何層もの古い粉の跡に重なって、真新しい青いチョークの文字がくっきりと残されていた。
『川で待つ M』
少し左に傾いた歪んだ筆跡。
手に慣れないチョークを強く押しつけたせいで、青い粉が黒板の下受けにパラパラとこぼれている。
繁治は胸ポケットからハイライトを取り出しかけ、駅の構内であることを思い出して指先を止めた。
M・・高橋真理か、それとも鈴木美奈子か。
携帯電話など存在しないこの時代、誰かに言葉を届けるには、こうして木枠の黒板にチョークを走らせるか、赤い公衆電話の重い受話器を握りしめて十円玉を投入するしかなかった。
相手がこの駅を通る保証はない。
文字を読む前に駅員や悪ふざけの生徒に消されてしまうかもしれない。
あるいは、夕立の雨に濡れて流れてしまうかもしれない。
それでも人は、この小さな黒板に自分の時間を託した。
そのとき、駅舎の古びた木枠の引き戸がガタガラと激しく開き、激しい足音が響いた。
息を荒らして駆け込んできたのは、健太だった。
チェッカーズ風の前髪は汗で額にくっつき、首に下げた赤いウォークマンが走る振動でバタバタと胸を叩いている。
制服のシャツは背中にベッタリと張り付いていた。
「ぜぇ・・ぜぇ・・あれ、武田先生?」
「健太。なんだ、そんなに汗だくになって」
健太は繁治の問いにすぐには答えず、吸い寄せられるように駅伝言板へ歩み寄った。
そして、青いチョークの『川で待つ M』という文字を見つめた瞬間、その丸い瞳が大きく見開かれた。
「・・真理だ」健太が低く、かすれた声でつぶやいた。
「真理の字だ。あいつ、さっき教室で『今日は早く帰る』って言ってたのに・・」
「すれ違ったのか」
繁治が尋ねる。
「俺、放課後に部活の後輩に捕まって・・真理、先に帰っちゃったと思って、喫茶店にもいなくて、ずっと街中を探してて・・」
健太の手に握られた制服のポケットが、丸く大きく膨らんでいた。
何かを潰さないように、大切に固く握りしめている。
「走れ、佐藤」
繁治が静かに言った。
「あいつは、川で待ってる」
健太はハッとしたように繁治を見上げ、それから「うす!」と一言叫ぶと、脱兎のごとく駅舎を飛び出していった。
靴底が濡れたアスファルトを蹴る乾いた音が、夏の歪む陽炎の中に消えていく。
繁治は伝言板の青い文字をもう一度見つめた。
かつて自分も、二十代の若かった頃、名もない街の駅伝言板に拙い文字を残し、来ぬ人を何時間も待ち続けたことがあった。
相手が来るかどうかわからないその空白の時間こそが、人を真剣にさせ、言葉の持つ重みを教える。
現代の若者たちもまた、その不便で愛おしい時間の手触りの中に生きていた。
繁治がゆっくりと歩を進め、茜川橋へ辿り着いたとき、傾きかけた太陽はすでに川面を濃密な橙色に染め上げていた。
川の激しいせせらぎが、日中の熱気を少しだけ和らげる冷たい水風を運んでくる。
木造の茜川橋の欄干に、白い布製の日傘をたたんだ真理が立っていた。
ファミリア風のファブリック裙が川風にふわりと揺れている。
真理は何度も手首の小さな腕時計を見つめ、それから遠くの坂道へ幾度も視線を走らせていた。
その凛とした横顔には、約束が届かなかったのかもしれないという微かな怯えと、それでも信じて待ち続ける静かな強さが同居していた。
「真理・・っ!」
坂道の上から、掠れた声が響いた。
健太が汗だくになりながら、膝に手をつき、肩を上下させて走り込んでくる。
「健太・・!」
真理の顔が一瞬でパッと明るくなった。
たたんだ日傘を強く握りしめ、数歩駆け寄る。
「バカ、遅いよ! もう三十分も待ったんだから!」
「わるい・・! 駅の伝言板、見たよ! 俺、お前が帰っちゃったかと思って・・」
健太は荒い息を吐きながら、ポケットからつややかな丸い物体を取り出し、真理の目の前に突差し出した。
それは、つややかなプラスチック製のキーホルダーだった。
丸い円盤状の胴体に、小さな目と突起がついた、奇妙で愛らしいキャラクターが形作られている。
「これ・・万博の?」
真理が目を丸くした。
「そう! 『つくば万博』のコスモ星丸!」
健太が鼻を誇らしげに高くした。
「叔父さんが茨城に行ってさ、お土産で買ってきてくれたんだよ。お前、この前ラジオで万博のニュース聴いて『星丸グッズかわいい』って言ってたろ? だから・・やるよ」
真理は差し出された星丸のキーホルダーを見つめた。
夕日を受けて、青と白のプラスチック表面がキラリと眩しく光る。
真理の手がゆっくりと伸び、その小さなプラスチックを包み込むように受け取った。
「・・覚えててくれたんだ。私がラジオ聴きながら言ったこと」
「当たり前だろ。お前が言ったことくらい・・」
健太は急に照れくさくなったのか、視線を川面へ逸らし、耳まで赤くしながら頭の後ろを掻いた。
真理は手のひらの中の星丸をギュッと握りしめ、それから、今まで繁治が見たこともないような、柔らかく澄んだ笑顔を見せた。
「ありがとう、健太。すごく・・嬉しい」
「おーい! なんか盛り上がってんじゃん!」
橋の向こうから、浩二の太い声が響いた。
達也、由香、美奈子も一緒に歩いてくる。
「達也も万博のキーホルダー持ってるんだぞ!」
由香がアディダスのジャージを揺らしながら言った。
「カメラのフィルムケースにつけてやんの!」
「勝手に見るなよ」
達也が苦笑いしながら、AE-1のストラップについた星丸を隠すようにポケットへ突っ込んだ。
「美奈子ちゃんにもあげるっす!」
浩二がポケットからぐしゃぐしゃになった万博のステッカーを取り出し、美奈子に差し出す。「俺の叔父さんも万博行ったっす!」
「浩二くん、ステッカー折れ曲がってるよ。でも、ありがとう」
美奈子がクスクスと笑いながら、嬉しそうにそれを受け取った。
六人が茜川橋の欄干に横一列に並んだ。
手元には、それぞれの「つくば万博」の小さな土産物。
昭和六十年という時代が放つ未来の光景と、岐阜の小さな城下町の変わらない夕暮れが、彼らの手元で静かに交差していた。
繁治は、橋のたもとの柳の木の影で、静かにハイライトに火を点けた。
紫煙が夏の風に揺れ、橙色の光の粒子の中に溶けていく。
駅の伝言板に残されたチョークの文字は、夕方には駅員の手によって消されてしまうだろう。
万博の熱気も、いつかは過ぎ去っていく流行に過ぎないのかもしれない。
だが、この七月の夕暮れ、すれ違いの果てに合流し、一つの小さなキーホルダーを挟んで笑い合ったこの時間は、彼らの胸の奥に消えない刻印として残り続けるだろう。
健太が不器用に真理の隣に並び、達也がそっとレンズを彼らに向けた。
カシャリ、という乾いたシャッター音が、川のせせらぎに混ざって響いた。
繁治は吸い殻を静かに消し、始まった高三の夏を、愛おしむように見つめ続けた。




