第五話 武田家の賑やかな食卓
六月の雨上がりの夕暮れは、空の端が水で薄めたインクのようにじんわりと青紫色に滲んでいた。
路地のあちこちに植えられた紫陽花の葉が、濡れた光を照り返している。
雨が上がったばかりの城下町には、湿った木々と生い茂る草の濃い匂いが立ち込め、川からの冷気が低いところを這うように流れていた。
「・・で、なんで俺たちが全員で先生の家に行くことになってんだよ」
健太が制服のポケットに両手を突っ込んだまま、坂道を上りながらつぶやいた。
首からはいつもの赤いウォークマンが下がっていたが、今はスイッチが切られ、ヘッドフォンは胸元で小さく揺れている。
「佳代さんがカレーを作りすぎたんだよ」と達也が言った。
肩にかけた一眼レフのケースが、歩調に合わせてコツ、コツと腰に当たっている。
「作りすぎたって、どれくらいっすか?」と浩二が目を輝かせた。
大きな背中を丸め、鼻をひくつかせている。
「大鍋いっぱいっすか?」
「大鍋二つ分だそうだ」と繁治は先頭を歩きながら言った。
ツイードジャケットのポケットに手を突っ込み、ハイライトの角を指先で確かめる。
「放っておくと佳代が『繁治さん、朝昼晩カレーね』って顔をする。お前たちの胃袋を借りるのが一番手っ取り早い」
「俺は助かりますっすよ! 武田先生の家のカレー、世界で一番うまいっすから!」
「あんたの『世界一』は安いね、浩二」由香が横から笑い、アディダスのジャージの袖口で額の汗を拭った。
真理と美奈子は、少し後ろを並んで歩いていた。
真理はファミリア風のスカートの裾を泥跳ねから守るように少し持ち上げ、美奈子はコバルト文庫を大事そうに胸に抱えている。
「武田先生の奥さん、いつも優しくしてくれるから楽しみだな」美奈子が静かに微笑むと、真理は「でも、大人数でお邪魔して迷惑じゃないかしら」と、少し気遣うように前を行く繁治の背中を見つめた。
武田家は、茜川橋から歩いて十分ほどのところにある古びた木造の平屋建てだった。
門柱には、黒ずんだ木札に「武田」と墨で書かれた表札がかかっている。
庭の細い柿の木の根元には、水草の浮かぶプランターが置いてあり、小さな赤色の金魚が滑るように泳いでいた。
玄関の引き戸をガラガラと開けると、使い込まれた畳の青い匂いと、飴色に炒めた玉ねぎと香辛料の濃厚なカレーの匂いが一気に押し寄せてきた。
下駄箱の上には、誰かが書いた『元気でいこう』という不格好な毛筆の額と、陶器の招き猫が並んでいる。
「いらっしゃい! みんな、よく来てくれたわねえ」
奥からぱたぱたと足音を立てて現れたのは、佳代だった。
くるくるパーマの髪に、黄色と赤のチェック柄のエプロン。
手に持ったふきんで手前を拭きながら、顔いっぱいに温かな笑みを浮かべている。
「お邪魔します!」
六人が声を揃えて靴を脱ぐと、三畳ほどの狭い玄関があっという間に若者の熱気で埋まった。
「さあさあ、上がってちょうだい。今ちょうど福神漬けを切ったところよ。繁治さん、みんなに麦茶出してあげて」
「はいはい」
繁治はジャケットを鴨居のフックにかけ、肘当てのスエードを指で撫でてから、台所へ向かった。
グラス に大きな氷が落ちるカランという涼やかな音が響く。
居間には、大きなブラウン管テレビ(ソニーのトリニトロン)が鎮座し、その前に漆塗りのローテーブルがデンと置かれていた。
部屋の隅には、文庫本が横積みにされた本棚があり、その最上段に、なぜか使い古されたラグビーボールが一つ飾られている。
「先生、このラグビーボール、やっぱり『スクール☆ウォーズ』の影響っすか?」
浩二が座布団の上にどっかりと座りながら、本棚を見上げて聞いた。
「違うと言っても信じないだろう」
繁治は冷えた麦茶のグラスを並べながら苦笑した。
「先週の授業で『舞姫』読んだときも、先生、声が震えてたっすもんね。熱血っすよ」
「あれは花粉だ」
「六月に花粉は飛ばないわよ、繁治さん」
大鍋を抱えて居間に入ってきた佳代が、すかさずツッコミを入れた。
六人が一斉に吹き出す。
繁治はバツが悪そうにハイライトの箱を弄んだが、火をつけるのは思いとどまった。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ」佳代が運んできた大きな磁器の深皿には、つやつやとした白飯の上に、こっくりとした深い茶色のルーがたっぷりとかけられていた。
角切りの豚肉と、ゴロゴロとしたじゃがいも、人参。
鮮やかな赤色の福神漬けが添えられている。
「いただきます!」浩二が一番にスプーンを突き立てた。
大きな口の中にカレーを放り込むと、一瞬目を丸くし、それから幸福そうに頬を緩めた。
「・・うまいっす。泣きそうなくらい、うまいっす」
「あらあら、浩二くんは相変わらず気持ちいい食べっぷりね。前間に来たときは五杯食べたのよね」
「覚えてるんっすか?」
「お鍋が空っぽになったもの、覚えてるわよ」佳代がクスクスと笑う。
健太もスプーンを動かしていたが、その視線はチラチラと斜め向かいの真理へ向いていた。
真理はスプーンの背でルーとご飯を少しずつ丁寧に混ぜ、上品に口へ運んでいる。
その首筋の柔らかい皮膚が、夕陽の残光を受けてほんのりと桃色に染まっていた。
「健太、ぼーっとしてないで食べなさい。冷めちゃうわよ」
「あ、いや、食べてますっす! うますぎて、味わって食ってんだよ」
健太が誤魔化すようにカレーを口へ押し込むと、真理がふっと目元を緩め、「口の横、ルーついてるよ」と小さくつぶやいた。
健太が慌てて袖で拭うのを見て、由香が「お子様かよ!」と大声を上げて笑う。
そこへ、廊下の奥から足音が近づいてきた。
パタパタパタ、と裸足が板張りを叩く軽い音。
「お兄ちゃんたち、また来てるー!」
飛び込んできたのは、八歳の明日香だった。
赤いサロペット(オーバーオール)に、少し首の伸びた黄色いTシャツ。
おかっぱ頭を揺らしながら、居間の入口で仁王立ちになった。
「あ、明日香ちゃん!」
健太が手を振る。
「健太お兄ちゃん、今日も真理お姉ちゃんのとなりに座ってるー! ヒューヒュー!」
「お、おい! 変なこと言うなよ明日香!」
健太が顔を真っ赤にすると、居間全体がどっと沸いた。
達也もファインダーから目を離し、珍しく口元をほころばせている。
由香は浩二の背中を叩いて大笑いし、美奈子は口元をハンカチで押さえて肩を揺らしていた。
真理だけが、すこし困ったように髪を耳にかけ、目を泳がせていた。
「明日香、お行儀悪いわよ。みんなのご飯の邪魔しちゃダメ」
佳代が明日香の頭を撫でながら優しく嗜めたが、その目元には温かなシワが刻まれていた。
食事が一段落すると、居間のブラウン管テレビがパチパチと静電気の音を立てて点灯した。
画面に躍り出たのは、『ザ・ベストテン』の賑やかなオープニング画面だった。
黄色と赤の反転パタパタ文字が回転し、軽快なテーマ曲がスピーカーから流れてくる。
「あ、チェッカーズ出るじゃん!」
健太がテレビの前に乗り出し、垂らした前髪を触りながら画面に見入った。
「健太、画面に近づきすぎ。目が悪くなるぞ」
繁治は座椅子にもたれ、麦茶のグラスを傾けながら注意した。
テレビの中では、黒いタキシードを着た司会者が軽妙な口調で歌手を呼び出している。
若者たちの興奮した声援、パタパタと入れ替わるランキングの数字。
昭和六十年六月の歌謡曲が、狭い居間の空気を充満させていた。
由香がポカリスエットの缶を手に健太の横へ並び、美奈子は佳代と一緒に空いたカレー皿を重ねて片付けはじめた。
明日香は健太の背中に飛び乗り、「お兄ちゃん馬になってー!」とはしゃいでいる。
繁治は静かに席を立ち、居間を後にした。
台所へ向かうと、勝手口の網戸越しに、湿った六月の夜風が吹き込んできた。
暗くなった庭の柿の木が、黒いシルエットとなって風に揺れている。
台所のシンクでは、佳代が一人で立ち、重ねられた大皿に水道の水を流していた。
シャワーのような水音が、静かな台所に響いている。
繁治は柱に寄りかかり、妻の背中を見つめた。
チェック柄のエプロンの紐が、佳代の少し丸くなった腰元で固く結ばれている。
「・・佳代」声をかけると、佳代は振り返らずに、水道の蛇口を少しだけ絞った。
水音が小さくなる。
「・・繁治さん」
佳代の声は、いつもより少しだけ低かった。
「あの子たち、もうすぐ卒業なのよね」
繁治は答えず、胸ポケットのハイライトに手を伸ばした。
「毎年、新しい生徒が入ってきて、卒業していくのは分かってるわ。でもね・・今年の子たちは、なんだか特別に賑やかで、いい子たちばかりでしょう?」
佳代は皿を洗う手を止め、濡れた手袋のまま、ふきんで自分の目元を静かに押さえた。
「この狭い居間で、あんなに嬉しそうにカレーを食べて・・健太くんも、浩二くんも、真理ちゃんも。みんな、あと一回か二回、季節が回ったら、この街を出て行っちゃうのね」
水滴がシンクに落ちるポタポタという音が、二人の間に落ちた。
繁治は、妻の肩に手を伸ばそうとして、途中で止めた。
指先が、空中で一瞬だけ泳ぎ、ジャケットのポケットへ戻る。
「・・それが、あいつらの仕事だ」
繁治は、静かに言った。
「この街を出て、遠くへ行くこと。自分の足で立つこと。俺たちの仕事は、それまでの間、ここでカレーを食わせてやることだけだ」
佳代は小さく鼻をすすり、それから「・・そうね」とつぶやいて、パッと笑顔を作って振り向いた。
その目元は少し赤かったが、いつもの温かい佳代の顔に戻っていた。
「繁治さん、お茶淹れ直すから、みんなに煎餅でも出してくれる?」
「ああ」
居間に戻ると、テレビ画面では松田聖子が甘い歌声を響かせていた。
健太と浩二は明日香と畳の上でじゃれ合い、由香と達也はカメラのフィルムの買い方について言い争い、真理と美奈子は嬉しそうにテレビの歌手に合わせて口ずさんでいた。
繁治は、居間の入り口で立ち止まり、その光景をそっと胸の奥に閉じ込めた。
ブラウン管の青白い光が、若者たちの横顔を優しく照らしている。
彼らはまだ知らない。
この初夏の夜の賑やかさが、やがて胸を刺すような愛おしい記憶となって、それぞれの未来を支える柱になることを。
外では、六月の深い夜のしじまが、町全体をそっと包み込んでいた。
茜川のせせらぎの音が、遠くからかすかに、だが、確かに響いていた。




