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第四話 一眼レフとポカリスエット

 達也が写真を始めたのは、中学二年の春だった。


 父が書斎の棚から持ってきたのが最初だった。

 キヤノンのAE-1。

 黒くて重くて、プラスチック製のカメラとは明らかに違う質感があった。

 革のストラップは少し擦り切れていて、それがかえって本物らしく見えた。


「使わないから使っていい」と父は言った。

 それだけ言って、フィルムの入れ方も教えないで書斎に戻った。

 達也は自分で説明書を読んで、フィルムの入れ方を覚えた。

 シャッタースピードと絞りの関係を覚えた。

 露出のことを覚えた。

 最初に撮った三十六枚は、ほぼ全部ピンボケか露出オーバーだった。

 それでも達也は、現像して出てきたプリントを一枚一枚見た。

 何がうまくいって何が失敗だったか、じっくり考えた。


 次のフィルムは、半分くらいまともに撮れた。

 父はそのことに気づいていなかった。

 たぶん今も気づいていない。

 父にとってAE-1は「使わないもの」で、達也にとってはそれが「一番大切なもの」になっていた。


 その水曜日の朝、達也は父と二言三言言葉を交わした。

 食卓で向かい合って、父が新聞を読みながら言った。

「進路のことは考えているか」

 達也は味噌汁を飲んでいた。

「考えてる」と答えた。

「医学部以外に考えているところはあるか」

「今のところない」

 それは嘘だった。

 でも今朝は、この話を長くしたくなかった。

 父は新聞から目を上げなかった。

 達也も味噌汁を飲み続けた。


「叔父さんの病院は、跡継ぎを待っている」

「わかってる」

「わかっているなら、しっかり勉強しろ」

「してる」

 父はそれ以上何も言わなかった。

 達也も言わなかった。

 食卓に、新聞をめくる音だけが響いた。

 達也は残りの味噌汁を飲み干して、立ち上がった。

 カメラケースを肩にかけて、玄関を出た。

 外の空気は、食卓よりずっと広かった。


 五月のある水曜日の昼休み、健太が達也の机まで転がり込んできた。

「なあ達也、ちょっと聞いてもいい?」

「何だ」

「お前の親父さん、医者なんだろ」

「そうだ」

「それで達也にも医者になれって言ってるって、浩二から聞いたんだけど」

「浩二はどこで聞いたんだ」

「俺がそれを聞きたい」


 浩二が遠くの席から手を振った。

「ごめんっす、うっかり言っちゃったっす! さっき由香ちゃんに話しかけながら、ちょっと声が大きくなって、健太が聞いてたっす!」

「お前は情報を管理するのが苦手だな」と達也は言った。

「すみませんっす!」

「謝る必要はない。隠してないから」

 健太が「じゃあ本当なんだ」と言った。

「本当だ。医学部を目指せと言われている」

「達也は写真家になりたいのに」

「そうだな」

「困ったな、それ」

「お前が困ることはない」

「いや、友達として心配するだろ普通。お前が医者になって写真やめたらもったいないと思うから」

 達也は少し間を置いてから、「ありがとう」と言った。

 健太がそういうことをさらっと言う奴だということは、もうわかっていた。


「達也のありがとうって、なんか重いな」

「じゃあ言わなくていいか」

「いや、嬉しいんだよ! ただ言い方がちょっとこう、ドラマの主人公みたいで」

「お前に言われたくない」

 健太は笑って席に戻った。

 その後ろから、浩二が「達也さん、でも医者って給料よくないっすか?」と呑気な声で言った。

「関係ない」

「そうっすかね。俺だったらお金のために医者になるっすけど」

「お前は医者の勉強ができないだろ」

「できないっすね!」と浩二は明るく言った。

「だから料理人になるっす!」

「料理人を目指しているのか」

「まだ決めてないっすけど、武田先生の家のカレーを食べるたびに料理って面白そうだなと思うっす。ただ先生に言ったら笑われそうで言えないっすけど」

「言えばいい」と達也は言った。

「笑われても気にしなければいい」


 浩二はしばらく考えてから「そうっすね」と言った。

「達也さんって、不思議とまっすぐ言うっすよね」

「ほかにどう言うんだ」

「もっとこう、曲げて言う人もいるっすよ」

 達也は窓の外を見た。

 五月の空に、白い雲が一つ流れていた。

 曲げて言う必要があるときは、たいてい自分に嘘をついているときだと、達也は思っていた。

 それは今朝、父と話したことだった。


 放課後、達也は一人で茜川へ向かった。

 カメラケースを肩にかけて、土手沿いの道を歩く。

 五月の夕方は光の角度がちょうどいい。

 高すぎず低すぎず、影が長くなりすぎない。

 川面に光が当たると水が白く輝いて、石の輪郭がくっきりと浮かぶ。

 この時間帯が一番好きだった。


 茜川橋の手前で立ち止まって、ケースを開けた。

 AE-1を取り出して、ファインダーを覗く。

 川が見えた。

 レンズ越しに見る川は、目で見る川と少し違う。

 切り取られた四角い枠の中に、水の流れと光と石と土手の草が収まっている。

 その枠の中だけが世界になる。


 達也はシャッタースピードをいじった。

 少し遅くすると、川の流れがぼんやりと滲んで、水の動きが糸を引くように見える。

 少し速くすると、水の飛沫が止まって粒粒に見える。

 どちらにも、それぞれの正直さがある。

「写真だけは、嘘をつかないから」

 達也はそれをだいぶ前から知っていた。


 人の言葉は嘘をつく。

 顔の表情も、場合によっては嘘をつく。

 今朝の食卓の自分も、「医学部以外に考えているところはない」と言った。

 それは嘘だった。

 でもシャッターを押した瞬間に光が焼き付けるものは、その瞬間そこにあったものだけだ。

 足したり引いたりできない。


 カメラを構えて、川の上流のほうにレンズを向けた。

 橋の木の欄干と、その向こうに続く水の流れ。

 光が少しずつ傾いてきている。

 シャッターを切った。

 小さな音が、川の音の中に消えていった。

「何撮ってんの」

 声がした。

 振り返ると、陸上部のジャージ姿の由香が土手の上に立っていた。

 タオルを首にかけて、鞄を片手に持っている。

 額にうっすらと汗が光っていた。

 部活を終えて帰るところのようだった。


「川だ」と達也は言った。

「川って、見ればわかるけど」

「川の何かを撮ってるんだ」

「川の何か」

「光とか、流れとか」

 由香はへえ、と言ってから土手を下りてきた。

 達也の隣に並んで、同じ方向を見た。

「写真で光って、撮れるの?」

「撮れる」

「どうやって」

「シャッタースピードで変わる。早くすれば光の粒が止まって見える。遅くすれば流れが伸びて見える」


 由香はしばらくそれを考えてから、「なんか、時間を操作してる感じがするね」と言った。

 達也は少し驚いた。

 そういう言い方をした人はあまりいなかった。

「そうかもしれないな」と達也は言った。

「見てみたい、撮れた写真」

「現像しないと見れない」

「フィルムだもんね。すぐ見れないんだ」

「それがいいんだよ」と達也は言った。

「すぐ見れないから、ちゃんと考えて撮る。一枚一枚に、理由がいる」

「デジタルとかになったら変わるのかな」

「変わるかもしれない。でも今はこれでいい」

 由香は「そっか」と言って、また川のほうを見た。


 由香がそこに立っていた。

 川を背にして、五月の夕方の光を浴びて。風が少し吹いて、ショートカットの髪が揺れた。

 部活上がりで、少し疲れた顔をしているが、それがかえって自然だった。

 達也はカメラを持ったまま、ファインダーを上げなかった。

「撮んないの?」と由香が言った。

「川を撮りに来た」

「でも今、私のほうに向いてたじゃない」

「・・光の確認をしていた」

「嘘くさい」

「嘘じゃない」


 由香は少し笑ったが、それ以上は追わなかった。

 達也は川のほうにレンズを向けた。

 由香のほうは撮らなかった。

 撮ろうとすると、なぜか手が落ち着かない気がした。

 指先が少しだけもたつく気がした。

 理由は、うまく説明できなかった。


 由香は鞄から何かを取り出した。

「これ」

 ポカリスエットの缶だった。

 差し出してくる。

「いいのか」

「部活後に二本買ったから。一本は飲んだ。もう一本は余ってる」

「本当にいいのか」

「うるさい、受け取って」

 達也は受け取った。

 プルタブを引くと、炭酸と甘みの混ざった匂いがした。

 一口飲んだ。

 汗をかいていないのに、なぜかちょうどよかった。

「ありがとう」

「べつに」


 由香は自分のポカリスエットをぷしゅっと開けて、一口飲んだ。

 それからまた川を見た。

 しばらく、二人で川を見ていた。

 どちらも何も言わなかった。

 川の音だけが続いていた。

「達也の写真さ」と由香が言った。

「何だ」

「温かいよ」


 達也は由香のほうを見た。

 由香は川のほうを見ていた。

「クールな感じの人が撮るのに、なんか温かく見える。前に撮ってもらった写真、そう思った」

「いつ撮った」

「去年の秋、橋の上で。カメラ向けてたじゃない。気づいてたよ」

 達也は思い出した。

 去年の秋、茜川橋で撮った写真がある。

 由香が橋の欄干に軽くもたれて、遠くを見ていた。

 逆光だった。

 うまく撮れているか心配したが、現像したら思ったより良く撮れていた一枚だった。

 由香の輪郭が光で縁取られていて、表情よりも立ち姿の空気が撮れていた。

 それが達也は気に入っていた。

 プリントはしてある。

 でも渡していない。

 渡すタイミングを、ずっと失ったままだった。


「・・渡してないだろ、その写真」

「もらってないよ。でも撮ってるとこは見てた。ちゃんと」

「橋の上でカメラを向けたら気づくか」

「当たり前だよ。でもいやじゃなかった」

「そうか」

「見せてよ、いつか」

「現像してある」

「じゃあ持ってきてよ」

「わかった」


 それだけだった。

 それ以上にはならなかった。

 由香はポカリスエットを飲み終えて、空き缶を鞄に押し込んだ。

「じゃあね」と言って土手を上がりはじめた。

「達也」

 土手の中ほどまで上がったところで、由香が振り返った。

「写真家になりたいんでしょ」

 達也は何も言わなかった。

「頑張って」

 それだけ言って、由香は土手を上がりきって、道の向こうへ歩いていった。


 達也は川のほうを向いた。

 夕方の光が少し赤みを帯びてきていた。

 川面が橙色に揺れている。

 達也はカメラを構えて、川を撮った。

 シャッターが一回、二回、また一回。

 今日のフィルムがどんな写真になっているか、現像してみないとわからない。

 でも、今日撮った何枚かのうちの一枚には、きっとちゃんとした光が焼き付いている気がした。


 写真家になりたいのか。

 由香にそう聞かれた。

「頑張って」と言われた。

 答えは返せなかったけれど、その言葉は確かに届いた。

 達也はカメラをケースにしまって、土手を上がった。

 由香のことは、今日も撮らなかった。

 今日は、まだ、撮らなかった。

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