第三話 喫茶「茜」とつくば万博
五月になると、町はいっそう緑が濃くなった。
茜川の流れはいつもより勢いを増し、川沿いの土手には草が伸びていた。
朝の空気はまだ少し涼しく、でも昼過ぎには汗ばむくらいになる。
学校の窓を開け放つと、川の音がかすかに届いた。
昭和六十年の五月は、そういう季節だった。
三年B組も、四月のざわめきが少し落ち着いてきたころだった。
授業のペースに体が慣れてきて、放課後になると廊下のあちこちでしゃべりながら帰る生徒が増えてきた。
「喫茶『茜』、行ったことある?」
ある日の放課後、健太が達也に聞いた。
帰り支度をしながら、さりげなく。
「知ってる」と達也は言った。
「川沿いのやつだろ。古い建物の」
「真理んちが経営してるんだよ。今日、みんなで行こうっていう話になって」
「誰が言い出したんだ」
「俺」
達也は少し間を置いてから、カメラケースを肩にかけた。
それが「行く」という意味だと、健太はすでに知っていた。
二週間ぶんの観察で、もうそれくらいはわかってきていた。
喫茶「茜」は、茜川橋から少し上流に行ったところにあった。
木造の古い建物で、看板は手書きだった。
入口のドアに小さなカウベルがついていて、開けるたびにチリンと鳴った。
店内はカウンター席が六つと、テーブルが四卓。
壁には古いレコードジャケットが額縁に入って飾ってあった。
山口百恵と、さだまさしと、もう一枚は健太には誰かわからなかった。
窓の外に茜川が見える。
川の向こうに木々が茂って、緑と水の色が重なっていた。
なかなかいい景色だった。
健太が一番乗りでドアを開けると、カウンターの奥から真理の母が顔を出した。
真理によく似た、くるりとした目の人だった。
エプロン姿で、手に布巾を持っていた。
「いらっしゃい。真理の友達?」
「はい、三年B組の佐藤っていいます。いつも真理さんにお世話になってます」
「あら、こちらこそ。真理から話は聞いてるわよ、健太くん」
「えっ、話・・どんな話を」
「うるさい子って聞いてるわ」
「あ、そうですか」
「ふふ。ゆっくりしていってね」
健太が微妙な顔でカウンター席に座ったすぐ後に、浩二がドアを押して入ってきた。
チリン。
浩二はカウンターの上のメニューを一瞥した瞬間、目が輝いた。
「ナポリタン、あるっすよ!」
「まだ入ってきたばっかだろ」と健太が言った。
「でも見てくださいよ、このナポリタンの写真。ケチャップが光ってるっすよ。写真から匂いが出てきそうっすよ」
「落ち着け。挨拶しろ」
達也がドアを開けて入ってきた。
チリン。
その後に美奈子と由香が続いた。
チリン、チリン。
真理が奥の厨房から顔を出して、「いらっしゃい」と少し照れくさそうに言った。
白いエプロンをかけている。
普段の学校での顔とは少し違う表情だった。
少しだけ大人びて見えた。
「なんかお前、喫茶店の娘っぽいな」と健太が言った。
「喫茶店の娘だから当たり前でしょ」
「そりゃそうだ」
真理は苦笑いをしてから、「どこでも好きなとこ座って」と言った。
全員が窓際のテーブルに落ち着いた。
川が見える。
ちょうど茜川橋が遠くに見えた。
メニューを広げながら、由香がカウンターのほうをふと見た。
「あれ、コスモ星丸だ」
カウンターの端に、小さなキーホルダーが置いてあった。
丸くてのっぺりした、白い宇宙人のようなキャラクター。
今年の三月に開幕したつくば万博のマスコットキャラクターだった。
「先月の万博土産だよ」と真理が注文を取りながら言った。
「お母さんの友達が行ってきてもらってきたの」
「つくば万博、行きたいっすよ!」と浩二が声を上げた。
「行ったの?」と健太が聞いた。
「行ってないっすよ。だから行きたいって言ってるんすよ」
「誰かに怒ったの、今」
「怒ってないっすよ! ただ行きたいって言っただけっすよ!」
「そういうテンションで言われるとちょっとびっくりするんだよ」
達也がコスモ星丸のキーホルダーを手に取って、正面から眺めた。
しばらくじっと見ていた。
「これが未来のイメージなのか」
「そうらしいっすよ。科学と技術の祭典だから、未来的なキャラクターで」
「未来って、こんな顔してるのか」
「顔というかフォルムっすけど」
「丸いな」
「丸いっすね」
「丸ければ未来っぽいのか」
「そういうことなんじゃないっすかね、多分」
美奈子が「かわいいと思うけど」と言った。
由香が「見た目より中身だよ」と言ってから、「キャラクターに中身も何もないか」と付け加えた。
達也はキーホルダーをカウンターに戻して、窓の外を見た。
オーダーが決まった。
浩二はナポリタンとクリームソーダ。
健太はクリームソーダ。
達也はコーヒー(ブラック)。
美奈子はレモンスカッシュ。
由香はアイスティー。
真理がそれをメモして厨房へ消えた。
カウンターの向こうから、シュワシュワと炭酸を注ぐ音が聞こえた。
それからかちゃかちゃとスプーンが当たる音。
しばらく間があった。
真理の母が「真理、シロップはいつもの量でいいの?」と声をかけた。
真理が何か答えた。
声は聞こえなかったが、どことなく少し急いたような感じがした。
クリームソーダが二つ、テーブルに運ばれてきた。
メロンソーダの鮮やかな緑色の上に、白いバニラアイスが乗っている。
ストローが一本。
さして珍しいものでもないのに、喫茶店のクリームソーダというのはなぜかひときわ美味しそうに見えた。
健太はストローを一口飲んだ。
「甘い」
「クリームソーダだから当たり前じゃないっすか」と浩二が言った。
自分のクリームソーダをもう半分飲みながら。
「でもなんか、いつものより甘い気がして」
「気のせいじゃないっすか、コンビニのと比べてるんじゃないっすか」
「そうかな」
健太はもう一口飲んだ。
やっぱり甘かった。
でも悪くなかった。
むしろ、なぜかいつものクリームソーダより少し美味しかった。
なんでだろうと思ったが、理由はわからなかった。
厨房から出てきた真理が、テーブルの様子をちらりと確認した。
健太がクリームソーダを飲んでいる。
その背中が、ほんの少し揺れた。
カウンターに向かうときに、口元が小さく動いた。
何を言ったかは誰にも聞こえなかった。
浩二は自分のグラスを飲み干して、しみじみと言った。
「うまいっすよ、これ」
達也がコーヒーを一口飲んだ。
何も言わなかった。
ナポリタンが運ばれてきたのは、それから十分後だった。
どんぶりのような深い皿に、ケチャップで炒めたスパゲッティが山盛りになっている。
上にピーマンと玉ねぎとウインナーが乗って、粉チーズが白く散らしてあった。
浩二が「うおー!」と声を上げた。
「量が思ったより多いっすよ!」
「そんなに驚くことか」と由香が言った。
「いや、だってこれ見てくださいよ。皿からはみ出しそうなくらいあるっすよ。しかもケチャップの量が完璧っすよ」
「完璧の基準がよくわからない」
「麺に絡みついて、でも皿の端にも少し残ってるくらいが完璧なんっすよ。それ以上だと重いし、それ以下だと物足りない。この量は完璧っすよ」
美奈子が「浩二くんって食べることに詩人みたいなところがあるよね」と言った。
「詩人じゃなくて食いしん坊っすよ」と浩二は答えたが、少しだけ嬉しそうだった。
浩二はフォークを手に取り、麺をくるくると巻きつけた。
一口食べた。
目が細くなった。
「うまいっすよ・・」
今度はしゃべらなかった。
黙って食べた。
浩二が黙るのは珍しかった。
それほど真剣な顔で、ナポリタンと向き合っていた。
由香が「そんな顔して食べると、美奈子ちゃんが引くよ」と言った。
美奈子は「引いてないよ」と言った。
「なんか、すごく正直な人だなって思ってる」
浩二は顔を上げて美奈子を見た。
何か言おうとして、口の中にナポリタンがあることに気づいて、もぐもぐしてから「ありがとうっす」と言った。
カウンターの奥に、黒電話があった。
レースのカバーがかかった、ずっしりとした黒い電話機。
四角くて重そうで、今頃の家の玄関に必ずあるやつだ。
そのカバーは白いレース編みで、どことなく丁寧に作ってあった。
テーブルが和やかな空気になってきたころ、その電話が鳴った。
「はい、喫茶茜でございます」
真理の母が出た。
しばらく話して、「少々お待ちください」と言って、厨房の真理を呼んだ。
「真理、電話よ。学校の先生から」
六人の会話が、少し途切れた。
真理が厨房から出てきて、受話器を取った。
「はい、高橋です」という声が聞こえた。
その後は声のトーンが落ちて、六人のテーブルからは聞き取れなくなった。
ときどき、「はい」とか「そうですか」とか短い返事だけが聞こえた。
「なんの電話だろ」と健太がこっそり浩二に聞いた。
「知らないっすよ。人の電話盗み聞きしないほうがいいっすよ」
「盗み聞きしてないって。聞こえてくるんだよ自然に」
「聞こえてきても聞かないほうがいいっすよ」
浩二は正しかった。
それでも健太はなんとなく気になって、ちらりと真理のほうを見た。
達也はコーヒーを飲みながら、川のほうを見ていた。
電話は五分ほどで終わった。
真理が受話器を置く音がして、少しの間があって、それから厨房に戻っていった。
特に何もなかった。
でも、健太は少しだけ気になった。
なんとなく、真理の戻り方が、いつもと違う気がした。
いつもの、はっきりした真理の歩き方じゃなく、何かを考えながら歩いているような感じがした。
気のせいかもしれなかった。
帰り際に、由香がぽつりと言った。
橋に向かう道を六人で歩いているとき、真理の少し後ろで。
「真理って、東京の学校受けるんだっけ」
真理の背中が、一瞬止まった。
ほんの一瞬だったが、健太には見えた。
「・・うん、まあ」と真理は言った。
振り返らなかった。
「まだ決めてないけど」
「そっか」と由香は言って、それ以上は聞かなかった。
誰も何も言わなかった。
五月の風が川のほうから吹いてきて、土手の草を揺らした。
健太はウォークマンのテープを押して巻き戻した。
「涙のリクエスト」を頭から聴き直したかったわけではなかった。
ただ、何かをしていないと、落ち着かない気がした。
「まだ決めてない」という言葉が、頭の隅に残った。
まだ、ということは、決めるかもしれないということだ。
決めないかもしれないということでもある。
でも、こういうときの「まだ」というのは、大抵もう決まっていることが多い。
健太にはなんとなくそれがわかった。
茜川橋の上で、達也がカメラをケースから出した。
今日は撮った。
川の光が、五月の夕方らしい色をしていた。
シャッター音が一度だけ、橋の上に響いた。
健太はその音を聞きながら、まっすぐ前を向いて歩いた。
東京、という言葉だけが、頭の隅にちょこんと残っていた。
小さく、でも確かに、そこにあった。




