第二話 コード三つのラブレター
健太がギターを買ったのは、去年の冬のことだった。
モーリスのアコースティックギター。
本体よりケースのほうが大きく見えるそれを、健太は地元の楽器屋で三万円出して買った。
三万円は、夏休みに一か月かけて貯めたお小遣いのほぼ全部だった。
「これでチェッカーズの曲が弾ける」と思った。
四ヶ月後の現在、健太が弾けるコードはCとGとAmの三つだった。
「でもな、浩二」と健太は言った。
「この三つで弾ける曲って、意外と多いんだよ」
放課後の教室。
窓の外には春の夕方の空気が漂っている。
黒板には消しかけのチョークの跡が残っていて、ほとんどの生徒はもう帰っていた。
「へえ」と浩二は言った。
弁当箱の蓋についたご飯粒を指で取って口に入れながら。
「具体的には?」
「ええと」と健太はギターを構えて少し考えた。
「・・三つで弾けるやつ」
「それ今答えてないっすよ」
「まあ聴けよ」
健太は得意げにCのコードを押さえた。
弦を鳴らすと、ジャーンという音が出た。
まあ悪くない。
次にGへ移ろうとして、薬指と小指がもつれた。
ジャギャン、という音が出た。
「今の何っすか」と浩二が言った。
「移弦のとこ」
「移弦?」
「コードを変えることをそう言うんだよ。プロはな、一瞬で変えられるんだけど、まだ練習中で」
「どのくらい練習したんっすか」
「・・四ヶ月」
浩二はしばらく沈黙した。
「それで三コードっすか」
「細かいことを言うな」
健太はもう一度弦を鳴らした。
今度はジャーンと鳴った。
「ほら、これはうまくいった」
「先生に怒られないっすか、教室でギター弾いて」
「武田先生はいい先生だからきっと大丈夫だよ」
「根拠がないっすよ」
根拠はなかった。
でも健太は気にしなかった。
問題は、翌日の放課後だった。
「このギター、真理に聴かせてやろうと思う」
茜川橋に向かう道すがら、健太は浩二にそう言った。
ギターケースを背中に担ぎながら、いつもより少しだけ背筋が伸びていた。
「聴かせてどうするんっすか」
「どうするって、そりゃあ・・なんかいい感じになるじゃないか」
「コード三つで?」
「うるさい」
浩二はしばらく考えてから言った。
「俺だったら逆効果だと思うっすけど」
「浩二はわかってないんだよ。チェッカーズのフミヤも、最初はコード三つから始めたんだ。きっと」
「きっと、っていうのが怖いっすね」
橋のたもとに着くと、真理と美奈子が先にいた。
美奈子はコバルト文庫を膝の上に開いていて、真理はノートに何か書き込んでいた。
「あ、健太ギター持ってる」と美奈子が言った。
「ちょっと弾いてやろうと思って」と健太は言った。
努めて自然に、さりげなく。
真理が顔を上げた。
「弾けるの?」
「まあ、だいたい」
「だいたいって何」
「弾けます」
健太はギターケースを下ろして、ジッパーを開けた。
ギターを取り出すと、チューニングのために弦を弾いた。
ポーン、という音がした。
少し音が外れているような気もしたが、気にしないことにした。
「何弾くの」と真理が聞いた。
「え、ええと、『ひとり』」
「チェッカーズの?」
「そう」
「いいね」と美奈子が言った。
健太は深呼吸をして、Cのコードを押さえた。
弦を鳴らすと、きちんとジャーンと鳴った。
よし。
次のGへ、指を移動させる。
ジャキン。
また少しもつれた。
「・・今のコード変えるとこ?」と真理が言った。
「そう、ここが難しくて」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
もう一度。
Cから始めて、G、そしてAm。
今度は三つ全部、なんとか繋がった。
「おお」と浩二が言った。
「今のよかったっすよ」
健太は少し自信を取り戻して、今度は歌いながら弾こうとした。
「♪ひとり〜」と声を出した瞬間、Gのコードを押さえ損ねて、盛大にジャガジャガジャンという音が出た。
沈黙が流れた。
「・・」と真理が言った。
言葉はなかった。
「コードが難しくて」と健太が言った。
「うん」
「歌と同時はまだ練習中で」
「そっか」
「でもこれからうまくなるから」
「うん」
真理はそれだけ言って、ノートに視線を戻した。
ペンを走らせながら、口元が少しだけ動いた。
健太には、それが笑いを堪えている顔に見えた。
「あの、今笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
「笑ってないって」
浩二が健太の背中をぽんと叩いた。
「まあ、また練習して来週聴かせてくれたらいいっすよ」
健太はギターをケースにしまいながら、小さく「来週までにはうまくなる」とつぶやいた。
浩二の悩みは、別のところにあった。
美奈子へのラブレターである。
これは先週から浩二の中で計画が進んでいた。
といっても、書きはじめてはいないのだが。
書くと決めているのだが、どう書いていいかが全くわからなかった。
「ラブレターって、どう書き出せばいいんだろ」
その日の昼休み、浩二は一人で辞書を広げていた。
机の上に国語辞書と漢和辞典が一冊ずつ。
便箋も買ってある。
近くの文房具屋で買った、薄い水色の普通の便箋。
美奈子が持っているイチゴ柄のレターセットほど可愛くはないが、男子のラブレターだから仕方ない。
問題は書き出しだった。
「ラブレターは『拝啓』から書くって聞いたことがある」と浩二は思った。
改まった手紙の書き出し。
礼儀正しい。
美奈子なら喜ぶかもしれない。
浩二は漢和辞典で「拝」を引いた。
部首は「手」。
画数は八画。
「て、てへんって何番だ」
辞書の部首索引を繰る。
手、手偏・・あった。
「拝」の字が見つかった。
書き順も書いてある。
浩二は便箋の上に「拝」と書いた。
じっと見た。
何かが違う気がした。
もう一度辞書の「拝」を見て、自分が書いた「拝」を見た。
点の数が一個多かった。
「・・」
浩二は消しゴムで消した。
また書いた。
今度は画数は合っているような気がするが、全体的にバランスがおかしかった。
「拝」一文字で便箋三分の一を使ってしまった。
「なんで俺、漢字こんなに書けないんだろ」と浩二は思った。
思ったが、ラグビーと魚釣りと食べることが好きな自分が、なぜ今手紙を書こうとしているのかを考えると、少しだけその理由がわかるような気もした。
それを見つけたのが、武田先生だった。
昼休みも終わりかけのころ、職員室に届け物をしにきた浩二が、廊下の角で先生と鉢合わせした。
浩二の手には、「拝」という字が三つ書かれた便箋が握られていた。
「小林、お前そんなとこで何やってんだ」
「あ、先生。これは・・ちょっと、手紙の練習を」
「手紙? 誰かに出すのか」
「・・まあ、はい」
先生は少し間を置いてから、「ちょっと見せてみろ」と言った。
「えっ、いや、これはまだ」
「見せろって言ってるんだ」
浩二はしぶしぶ便箋を差し出した。
先生はそれを受け取って、じっと見た。
「拝」「拝」「拜」と三つ並んでいる。
「・・三つとも微妙に違う字だぞ」
「気づいてたっす」
「しかも三つ目のは中国語の字だ」
「えっ」
先生は廊下の窓枠に腰をかけて、赤ペンを取り出した。
胸ポケットのハイライトではなく、赤ペン。
これが出てきたとき、健太たちは「説教の前兆だ」と囁き合っていたが、浩二には今さらそれを思い出す余裕もなかった。
「ラブレターなのか」と先生は聞いた。
「・・そういうわけでは」
「そういうわけだろ。見りゃわかる」
先生は「拝啓」と便箋の余白に手本を書いた。
きれいな字だった。
さすが国語の先生だった。
「拝啓の後に『時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます』は入れなくていいぞ。
手紙の教科書にはそう書いてあるが、ラブレターにそれを書く奴はおらん」
「そうなんっすか」
「そうだ。書き出しは素直に書け。難しく考えなくていい。『突然お手紙を書いてすみません』でも十分だ」
「先生、なんか慣れてますね」
先生はちょっと間があった。
「俺も若い頃に何通か書いた」
「えっ、先生も書いたんっすか」
「何十年前の話だと思ってる。まあ、それより本文はどこまで考えてあるんだ」
「まだ、一文字も書けてないっす」
「一文字も?」
「最初で止まってしまって」
先生はしばらく浩二を見てから、赤ペンのキャップをカチッと閉めた。
「いいか、小林。手紙っていうのはな、うまく書こうとするから書けなくなる。難しい言葉を使おうとするからおかしくなる。相手に伝えたいことを、ただ正直に書けばいい。誤字は俺が直してやる」
「先生が直してくれるんっすか」
「・・余計なことを言った」
浩二は「本当にそれでいいんっすか」と聞いた。
「ええとだな」と先生は咳払いをした。
「小林、自分の言葉で書いてみろ。それから持ってこい。添削は・・まあ、一回だけな」
「ありがとうっす、先生!」
「こら、廊下で大声を出すな」
浩二は嬉しそうに頭を下げて、走って教室へ戻っていった。
先生はその背中を見ながら、ため息とも苦笑いともつかない顔をした。
もし自分が十八歳のころに、あんなふうに正直に走っていけたなら。
そんなことを少しだけ思ってから、先生は職員室へ戻った。
その夜、浩二は机の前に座って便箋と向き合った。
「鈴木美奈子へ」と書き出した。
名前だけは一発で書けた。
次の行で少し止まった。
それから、先生の言葉を思い出した。
伝えたいことを正直に書けばいい。
難しい言葉はいらない。
浩二はゆっくりと書き始めた。
「突然お手紙を書いてすみません。」
一行書いたら、なぜか少し楽になった。
次の行も、その次の行も、思ったより言葉が出てきた。
文字は相変わらず大きくてバランスが悪く、消しゴムの痕もあちこちにあった。
でも、書いた。
ラブレターというより、正直な報告書のようなものだったかもしれない。
でも浩二には、それが精一杯の誠実さだった。
書き終わったのは、夜の十一時を過ぎたころだった。
便箋は二枚。
「拝啓」は使わなかった。
窓の外では、茜川の流れる音が静かに聞こえていた。




