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第一話 茜川橋に集う声

 昭和六十年、四月。

 岐阜県の山あいに抱かれた小さな城下町に、その年も春がやってきた。


 桜が散りはじめ、代わりに若葉が芽吹くころ。

 茜川の水はまだ少し冷たく、透き通った流れの底まで丸い石がくっきりと見えた。

 川沿いの土手には、去年と同じように、たんぽぽが勝手気ままに咲き乱れていた。

 この川のそばに立つ木造の橋を、町の人々は「茜川橋」と呼んでいた。

 夕暮れどき、西に傾く陽が橋板を染めると、川面も橋も、あたり一帯がまるで燃えるように赤くなる。

 それがこの橋の名の由来だと、誰もがそう言った。


 桜の季節が終わりかけたころ、茜ヶ丘高校の三年B組の教室に、いつもより少しだけ遅れて、武田繁治が入ってきた。

 四十歳。

 学年主任でも進路指導担当でもなく、肘に古びたスエードの当て革がついたジャケットをひっかけ、胸ポケットにはハイライトが一箱。

 髪の毛はボサボサで、ネクタイは一応締めているが、結び目が朝から少し斜めになっていた。


「よし、座れ座れ」

 黒板に向かいながら先生は言った。

 チョークを取り上げ、「武田繁治」と漢字で書いてから、すぐ横に「たけだしげはる」とひらがなを添えた。

 なぜひらがなを書き足したのか、自分でもよくわからなかった。

 なんとなく、そうしたほうが親しみやすい気がしただけだ。

「今年から三年B組の担任だ。国語を教える。去年と同じ先生もいれば初めての先生もいるだろう。まあ一年間よろしくな」

 それだけ言って、出席簿を開いた。

 べつに長い自己紹介をする気はなかった。

 四十歳にもなると、無駄に張り切ってみせるのが恥ずかしくなってくる。


 最前列の窓際から、ひとつひとつ名前を呼んでいく。

「佐藤健太」

「はいっ!」

 勢いよく手が上がった。

 前髪の一部を左のこめかみのほうにクルンと垂らした、小柄な男子だった。

 チェッカーズの藤井フミヤに憧れているのは見た瞬間にわかった。

 首からは赤いウォークマンがぶら下がっていて、先生は「授業中に聴くなよ」と言う前に、まずその堂々とした存在感に少し驚いた。


「渡辺達也」

「・・はい」

 窓の外を向いていた顔が、ゆっくりとこちらを向いた。

 少し長めの整った髪。

 VANのポロシャツにスラックスという清潔感のある身なり。

 膝の上には、ずいぶんくたびれたカメラケースが置いてあった。

 返事は静かだったが、目つきは鋭かった。


「小林浩二」

「っすー!」

 一番後ろから声が飛んできた。

 振り返ると、他の生徒より頭ひとつぶん大きな男子が、ジャージの上からさらに大きなTシャツを着て、やたら姿勢よく座っていた。

 机の横に、アルマイトの弁当箱らしき金属製の容器がぶら下がっていて、それがまた人一倍大きかった。


 女子の名前を呼んでいく。

「高橋真理」

「はい」

 きちんと手を挙げ、きちんと返事をした。

 レイヤーボブの髪。

 膝の上のノートには几帳面な文字でびっしり何かが書いてある。

 学級委員の匂いがした。先生は出席簿に小さく「○」を書いた。


「鈴木美奈子」

「はい、よろしくお願いします」

 静かな声だった。

 三つ編みに生成りのカーディガン。

 コバルト文庫が机の端に一冊置いてあった。

 表紙には「新井素子」の名前が見えた。


「中村由香」

「はいっ」

 健太に次いでよく通る声だった。

 ショートカットの、てきぱきした印象の女子。

 アディダスのジャージに白いタオル。

 陸上部だとすぐにわかった。


 三十五人の名前を呼び終えると、武田先生はひとつ咳払いをして言った。

「よし。去年までのことはだいたい聞いとる。三年B組はまあ、うるさいと評判の組だな」

 教室がわずかにどよめいた。

「だがな」と先生は続けた。

「今年はお前らと俺で、この一年を作っていく。うるさくても構わんが、大事なことはちゃんとやれ。以上だ、ホームルーム終わり」

 教室が少し拍子抜けしたように静まりかえった。

 それから、クスクス笑い声が起きた。

 先生はそのままさっさと出ていきながら、ドアの前で立ち止まって振り返った。

「ああ、そうだ。授業中にウォークマン聴くな、佐藤」

「あ、バレてたっすか」

「バレてないわけないだろ」

 廊下から先生の足音が遠ざかっていく。

 教室はまた少し笑った。


 放課後になると、教室には特有の空気が流れてくる。

 チャイムが鳴った瞬間、それまでの緊張がほぐれるように、あちこちでいっせいに声が弾けた。

 椅子を引く音、教科書をしまう音、廊下へ出ていく足音。

 三年B組も、最初の一日目をそうやって終えた。


 茜川橋に集まったのは、放課後のさらに少し後だった。

 最初に来たのは健太と浩二だった。

 二人は同じクラスになるのが三年連続で、もはや双子のような間柄だった。

 もっとも、背丈も体型も気質もまったく違うのだが。

「マリオ、昨日クリアしたんだけど」

 健太が橋の欄干にもたれながら、自慢げに言った。

 ウォークマンのヘッドフォンを首にかけたまま、川の流れを眺めている。

「えっ、もうクリアしたんっすか」

 浩二が目を丸くした。

「俺、まだ8面にもたどり着けてないっすよ」

「8面って、ワールド8だろ。あそこは最初は無理だよ普通。ってか浩二、お前また授業中にドカ弁開けてたじゃないか」

「腹が減ったら集中できないっすよ」

「そういう問題じゃないと思うけどな」


 ウォークマンから少し音が漏れている。

 チェッカーズの「涙のリクエスト」だった。

 川のほうから、自転車の車輪が砂利を踏む音がした。

 達也がカメラケースを背負って、橋の手前で自転車を止めた。

「何してんだ、お前ら」

「いや、なんとなく」と健太が答えた。

「ここ来たら誰かいる気がして」

 達也は特に返事もせず、橋の手すりのあたりに目をやって、カメラケースのファスナーを少し開けた。

 川の光の具合を確認するような目つきをした。

「写真撮んの?」と浩二が聞いた。

「まだわからない」

「いや、まだわからないってどういう意味っすか」

「光が良ければ撮る」

 浩二は「へえ」と言って、また川のほうを向いた。

 光が良いかどうかの判断基準を、自分はまったく持っていなかった。


 しばらくして、真理と美奈子が並んでやってきた。

「なんで男子ってこういうとこに集まるの」と真理が言った。

 怒っているわけでもなく、呆れているわけでもなく、ただ事実を確認するような口調だった。

「なんかここ来ると落ち着くんだよ」と健太が言った。

「な、浩二」

「っすね」

「それって理由になってる?」

「なってんじゃないかな」

 真理は小さくため息をついてから、欄干に手をかけた。

 川の水が光を弾いている。

 橋の上から見ると、底の石まで透けて見えるような清らかさだった。


「きれいだよね、この川」と美奈子がつぶやいた。

 スクールバッグの中から文庫本を半分出して、また戻した。

「茜川って、夕方になるともっときれいになるって聞いた」

「夕方は赤くなるんだよ」と達也が言った。

 こういうことは自分から話す。

「西日が川面に当たって、橋ごと全部染まる。それでこの名前になったんだって、橋の由来の看板に書いてあった」

「達也、そういうの詳しいんだな」と健太が感心したように言った。

「ここで何度か写真を撮ったことがある」

「いつ」

「去年の秋」

「なんで誘わないんだよ」

「誘う理由がなかった」

 健太はそれ以上何も言えなかった。


 由香が来たのは、それから少し後のことだった。

 ジャージ姿のまま、小走りでやってきた。

「あれ、みんないるじゃん」

「由香は部活じゃないの」と真理が聞いた。

「今日は自主練だけにした。四月はいきなり飛ばさないほうがいいから」

 そう言いながら、白いタオルで首の汗を拭いた。

 鞄からポカリスエットの缶を取り出して、プルタブをぷしゅっと引いた。

 一口飲んで、それから川のほうを見た。

「ほんとに水きれいだね、ここ」

「さっきも同じ話してたとこだよ」と健太が言った。

「でしょ。走ってると見える景色って、だいたいここが一番きれいな気がする」

 由香は橋の欄干に背をもたれて、空を仰いだ。

 日が傾いてきている。

 西の空の端が、うっすらと橙色を帯びはじめていた。


 六人が橋の上に並んで、川を見た。

 誰かが先にそうしたわけでも、誰かに誘われたわけでもなかった。

 気がついたら、六人が欄干に沿って横一列に立っていた。

 西の空が少しずつ色を深めていく。

 雲の端が橙色に染まり、川面がそれを映してきらきらと揺れた。

 まだ夕焼けと呼ぶには少し早い時間だったが、確かに何かが変わりつつあった。

「うわ」と健太が言った。

「本当に赤くなってきてる」

 誰も何も言わなかった。

 川の音だけが流れていた。

 遠くから自転車の鈴の音が届いて、また消えた。


 由香がポカリスエットをもう一口飲んだ。

 浩二がジャージのポケットをごそごそと探って、コーヒーキャンディを一個取り出した。

 美奈子が文庫本をしっかりバッグに収めた。

 達也がカメラをケースから出して、ファインダーを川のほうへ向けた。

 でも結局シャッターを押さずに、また下ろした。

 真理は欄干に両手をかけたまま、何かを考えているような顔をしていた。

 少し遠い目をして、川面の光の揺れをずっと見ていた。

 その横顔を、健太は見ないふりをしながら見ていた。


 やがて、橋全体がうっすらと赤みを帯びた。

 達也の言った通りだった。

 西日が橋板を染め、川面が揺れるたびに光が弾けて、橋の木目まで赤く輝いた。

 川岸の土手も、川底の丸い石も、六人の影も、全部が同じ色に染まっていった。

「すごいな」と浩二が静かに言った。

 ふだんの浩二らしくない、落ち着いた声だった。

 誰もそれに答えなかった。

 でも全員が、そう思っていた。

 健太だけが、橋の上でくるりと振り返り、夕日のほうをまっすぐ見た。

 ウォークマンのイヤフォンはまだ首にかかったまま。

「涙のリクエスト」はとっくに終わっていた。


 良い一日だったか、と聞かれたら、特に何もなかったと答えるだろう。

 授業は退屈で、弁当は足りなくて、カセットの巻き戻しに鉛筆を使いすぎた。

 でも不思議と、帰りたくなかった。

 三年B組の六人が初めて茜川橋に揃ったのは、そういう、なんでもない四月の夕暮れのことだった。

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