4.彼女の「偶然」
窓から朝の光が差し込む中、私は目を覚ました。
けれど、私は一瞬ここがどこだかわからなくなり、バサッと飛び起きた。
——仕事に、遅れた?
しかし、管理者の鞭の音はせず、室内はしんとしており、見回すと木製の机とクローゼットがある。
居住塔の、私の部屋だった。
すっかり眠ってしまった私は、扉を開ける。
『おはよう。朝食をちゃんと食べてから戦略局長室へ来るように。 アネル』
と書かれた紙に、ふわりと食事保護結界が張られた朝食と、紺色に——金色の刺繍まで施された魔導院の制服が置いてあった。
朝食を机に持っていき、パンをひとくちちぎって食べる。
ふんわりとしたパンは、結界のおかげか時間が経っても僅かに温かかった。
スープもいくつかの具材が混ざり、口の中ですぅっと溶けていく。
そして、ルメルに似た果物。甘酸っぱくて、遠い昔の故郷が頭にふとよぎる。
——本当に、朝も食事があった。
それは、私にとってはアネルの言う通り、もう食べ物を隠さなくてもいいという大きな安心だった。
食事を食べ終わり、真新しい制服に身を通す。
(……これ、他の人の制服と、ずいぶん違う?)
制服は紺色だけじゃなく、紫の飾りのようなものが施してあった。加えて金色の糸の刺繍。
これも支給品だとアネルは真顔で言うのだろうか。
しかも、私の身体にぴったりだ。
食器を食堂へ返そうと思い、扉を開けると——待ち構えていたかのようにアネルがいた。
「……おはよう、ティルア。よく眠れたか?」
「はい。……朝食と制服、ありがとうございました。制服が他の方と違うようですが、これも支給品ですか?」
「……当然だ、食堂に行った後、初仕事に入ってもらう」
「承知……しました」
なんだか腑に落ちない。
モヤモヤとしたものを抱え、アネルと並んで食堂へ行く。
食器を返却すると、アネルが呟く。
「支給された通信水晶に、食器返却のボタンがある。配膳魔導具が回収してくれる。次からはそれを使え」
「はぁ……」
本当に彼の行動の意味がわからない。しかし、心にはあたたかいものが灯る。
彼と並んで、戦略局長室に行き、机にある大きな板状の水晶と、手元にある少し細長い長方形の水晶を見る。
これを仕事に使うらしい。昨日、魔導院を見学したときも、皆そうやって仕事をしていた。
「……で、初仕事だが、中央魔導都で発生している魔力脈の乱れを記録した水晶の解析だ」
入ってきた男性の職員から「これを……」と小さな水晶が手渡される。
一見、正常に見える……いや、奥に何かがある、不自然に魔力が途切れているところがある。
私の脳裏に、ある風景が流れるように映し出される。
青白い導線が弾ける。
空中で傾く浮行板。
投げ出される乗客。
地上へ落ちていく小さな子ども。
事故が起きるのは——十四秒後。
「アネル、いや、局長。第三導路を……今すぐ停止してください」
「異常値は、基準内だ」
私は首を振り、立ち上がる。
「それでも——止めてください!」
私の声に他の職員も集まってくる。
そして、互いに顔を見合わせ、訝しげな表情をしていた。
奥にいたアネルが、何かを察したかのようにすっと立ち上がる。
アネルが机上の制御水晶へ手を叩きつける。
「第三導路を緊急停止!」
彼の声と同時に、青白い導線が灰色へ変わった。
水晶を持ってきた男性が慌てた様子でこちらを見る。
「しかし局長、それには根拠が——」
アネルはすっと周囲を制止する。
「彼女が止めろと言った。根拠はそれで充分だ」
私は第三導路の見える窓まで走っていく。
浮行板に、子どもが乗り込もうとしていた。
すでに灰色に変わっていた第三導路が、その直後に——破裂した。
浮行板へ乗り込もうとしていた子どもが、驚いた様子で見上げている。
周囲からざわめく声が聞こえる。
「新人の解析官の予測が……当たった?」
「ソルデヴィアさん、なぜわかったの?」
見えたんです、なんて言えるはずもなく、私はぼうっと立ち尽くしていた。
静かになった戦略局長室で、アネルの声が落ちる。
「……どうしてわかった?」
「魔力の流れが、少し不自然でした」
「事故が起きる時刻まで?」
ここでも「見えた」なんて言えるはずもなく、私はしばし黙り込み、絞り出すように答える。
「……偶然です」
アネルはそれ以上、追求しようとはしなかった。
「——では、次からも、君の『偶然』を報告してくれ」
私は頷いて、席につく。
ちらりとアネルを見ると、何かに気づいたような表情をしているが、黙って水晶に何かを入力している。
昔、時詠みの力を使った時、砦の管理者は「それは何だ」としつこく、私の口を割ろうとした。
一晩中ではすまず、来る日も、来る日も管理者は口を割ろうとさまざまな手段を使った。
冷たい床。錆びた鎖の匂い。扉の向こうで鳴る鞭の音。
「何を見た」と、管理者は何度も同じ問いを繰り返した。
それから私は、アネルに会ったあの日まで——時詠みの力を使わなかった。
アネルは私の口を割ろうとはしない。聞き出そうとはしない。
それは、私にとって初めてのことで、張り詰めた糸がふっとほどける感覚だった。
そして、立ち上がった瞬間、時詠みの力の反動で少しふらついた。
アネルはさっと私の身体を支え、「大丈夫か?」と尋ねる。
「大丈夫です。少し疲れただけで」
「本日の勤務は終わりだ」
私は慌てて首を振る。
「まだ昼前です」
そう言うと、アネルが優しい声で返事をする。
「体調管理も職務の一部だ」
「……それも支給品ですか?」
「何がだ」
「休む時間です」
彼は一瞬黙って、私を見てふっと微笑んだ。
「そうだ。受け取れ」
部屋の中を、穏やかな空気が包んでいた。
その日のうちに、浮行板の事故を未然に防いだ新人解析官の噂は、中央魔導院中へ広まった。
ティルア・ソルデヴィア。
魔力脈の異常を、事故が起きる前に言い当てた少女。
その名が、戦略局とは別の場所へ届いたことを、私はまだ知らなかった。
円環を一本の針が貫く紋章のもとで、誰かが私の報告書を開いていたことも。




