3.過保護な上司と魔導都市
——空を、板が走っていた。
「あの、アネル……?」
「なんだ?」
「あの板は、落ちないのですか?」
彼はくすりと笑って言った。
「落ちない」
「……本当に?」
「少なくとも、今日落ちる予定はない」
見上げると、塔と塔の間を板が行き交い、青白い魔力の導線が街中を走っている。
街中の店の扉は自動で開き、道行く人は皆、板状の水晶を持っている。
「扉が、自動で開く……? アネル、皆が手に持っている板状の水晶は、何ですか?」
アネルが、ローブの衣嚢から、同じ水晶を出して見せる。
「あれは『通信水晶』だ。遠くにいる相手とも話ができる」
少なくとも、私は北境霜原でも、砦でもあのような物は見たことがない。
自動で開く扉も、空を飛ぶ板も、初めて見るものばかりだ。
「昼食をとろうか」
アネルがそう言い、店の方に向かうと、やはり店の扉が自動で開く。
食事は、何層もの板に動物の姿をかたどったものが運んでくる。
「これは、給仕魔導具だ」
「きゅうじ……まどうぐ……」
作りたての食事が当たり前のように出てくることにも驚いたが、アネルと出会ってから数日で私の「当たり前」はどんどん変わっていく。
スープに、柔らかいパン。肉や魚のソテー。このような作りたてのものが出てくるのだ。
明日の食事のためにパンを隠すなんてことはしなくてもいい、と知っても、つい、隠そうとしてしまう。
「……ティルア。パンは隠さなくても、夜も食事がある」
私は顔に熱を持ったまま、俯いた。
「食べ終わったら、中央登録庁に行こう。正式に魔導解析官として登録する」
私はこくりと頷いた。
店を出ると、街の奥にそびえ立つ一番大きな建物の前に向かった。
建物の中に入ると、アネルが前に立ち、カウンター越しに女性へ声をかける。
「ブリューム局長、本日はいかがなさいましたか?」
「私の補佐をしてもらう新しい魔導解析官に、魔紋証を発行してほしい」
「その方は……?」
アネルに促され、カウンターへ向かう。
「名前は?」
「ティルア・ソルデヴィアです」
「種族は?」
「白妖……と呼ばれていました」
アネルが制止するように声をすぐ横から落とした。
「エオネ族だ」
ふっと、受付官の女性の手が止まる。
「記録上、エオネ族は——」
「記録が誤っている。彼女はここにいる」
受付官が目の前の水晶に何かを入力している。
そして、私に小さく、薄い板状の水晶が渡された。
【魔導解析官 ティルア・ソルデヴィア】
「これで君は正式に私直属の部下、魔導解析官として登録された」
アネルが微笑む。
白妖でもない。
労働奴隷でもない。
そこには、私の名前があった。
「では、中央魔導院へ向かおう」
目の前には空を飛んでいた板があった。
おそるおそる乗るとふわりと浮き上がる。私は一瞬体勢を崩し、アネルの袖を掴み、手を離そうとすると、アネルの手が重ねられる。
アネルの顔を見ると、柔らかい表情で話す。
「……到着するまで掴んでいろ」
「もう大丈夫です」
アネルが、少し俯く。
「私は、大丈夫ではない」
「アネルが?」
「……君が落ちそうで、心臓に悪い」
彼の俯いた顔を見て、私の頬が、少し緩む。
空を飛ぶ板から見る中央魔導都はとても広かった。どこまでも続くかと思うほどに。
中央魔導院に到着すると、板はゆっくりと床に降りた。
紺色のローブに身を包んだ人々が、忙しなく行き交うそこは、かなり広かった。
「君を紹介したい。ついてきなさい」
「はい……」
荘厳な広間に人が集められ、ひそひそ話す声が聞こえる。
「あの子がアネル閣下の連れてきた新しい魔導解析官?」
「魔導師にしては、ずいぶん若い」
「白銀の髪……?」
私は、俯いて身体が固まりそうになる。
横にいるアネルが、姿勢を正して告げる。
「彼女はティルア・ソルデヴィア。私の命と国境砦を救った魔導師だ。私直属の魔導解析官として働いてもらう」
広間に集まった人々から、驚きの声が上がる。
私は、ますます顔に熱が集まり、俯いてしまう。
中央魔導院には他にも大きな研究室や、部屋がいくつもあり、机にはそれぞれ水晶が置かれ、それらを使って仕事をする人々の姿があった。
「ここが君の仕事場だ」
アネルに案内された部屋は【戦略局長室】。
部屋の中には、机がふたつ。
そのうちひとつには、真新しい水晶と、紫と紺色のローブ。そして【魔導解析官 ティルア・ソルデヴィア】と書かれた名札があった。
もうひとつの机には【中央魔導院 魔導軍戦略局長 アネル・ブリューム】と書かれている。
「ここが、私の仕事場……?」
「気に入らなければ、変える」
私は首をぶんぶんと振る。
「そうではなくて!」
自分の席がある。
誰かに命じられ、危険な場所へ押し込まれるためではない。
私がここにいてもよいと示す、小さな場所が。
『白妖』としか呼ばれなかった私に、ちゃんと名前を示してもらえる場所がある。
「……とても、嬉しいです」
アネルはしばらく黙り、顔を背けた。
「そろそろ夕食の時間だ、食堂へ行こう」
何かをはぐらかされたような、だけど、とても心があたたかかった。
食堂も、くらくらするほど広かった。
奥にある二人掛けのテーブルに座ると、給仕魔導具が食事を運んできた。
——こんなに食べても、よいのだろうか。明日の食事は、ちゃんとあるのだろうか。
そう頭によぎるくらいには、たくさんの料理があった。
私は、明日の食事が不安になり、つい袖にパンを入れようとすると、アネルが笑いながら言う。
「そのパンを袖に入れるな」
「……非常時に備えて」
「非常時には備蓄庫を開ける」
私は果物を見る。……故郷にあった甘酸っぱいルメルのような果物がある。
「ではこの果物だけでも」
「明日の朝も出る。明日だけではなく、毎日食事が出る」
「毎日……?」
アネルが頷く。
「毎日だ」
毎日このルメルに似た果物が食べられる——幼い頃の村での生活を思い出す。
「ルメルに、似ています……故郷で食べていた果実です」
その言葉に、アネルの瞳が揺れた。
食事の後、居住棟に案内される。
そこには、木製の机とベッドやクローゼットが見えた。
「ここが……私の部屋、ですか」
「ティルア、この部屋にあるものは自由に使っていいんだ。眠るのもベッドだ」
「自由に、使える……」
私はしばし部屋の前で立ち尽くした。
「返さなくても……いいんですか?」
「返す必要はない」
その後、アネルはしばらく黙っていた。
一歩、部屋に入る。
クローゼットを開けてみる。
数枚の、服がかかっていた。
「これは……?」
「急ぎで用意させた……支給品だ」
私は、アネルの方を向く。
「……ありがとう、ございます」
アネルはさらに黙った。心なしか顔が赤みを帯びている。
こうして私は、中央魔導院で働くことになった。
空を走る板にも、毎日出される食事にも、過保護な上司にも、まだ慣れないまま。




