2.明日の食事
痛みは、すべてが終わってからやってきた。
魔導炉を出た途端、肩の傷が焼けるように疼き、足元がふらついた。
視界がぐらりとし、倒れる、と思った。
けれど、私の身体は、地面には落ちなかった。
「無理をするな」
赤い髪の男——アネル・ブリュームの腕が、私の身体を支えていた。
治療室。私のような『労働奴隷』は今まで入ることもできなかった場所。
アネルは、私をそっとベッドへ横たえた。
初めてのベッドの感覚に、慣れない。
肩がじくり、と刺すような痛みを発する。
「この程度なら……放っておけば治ります」
アネルが不思議そうに首を傾げる。
「放っておく理由がない」
私は胸の鼓動が一瞬早くなるのを感じるも、首を振った。
「治療には……お金がかかるでしょう?」
「君が心配することではない」
「では、あとで働いて返します!」
ここまで言った途端、アネルは眉間を手で押さえる。
「命の恩人から治療費を取り立てるほど、私は困窮していない」
なぜ、奴隷の私にここまでしてくれるのか? なぜ、親切にしてくれるのか?
私の肩に、アネルが治癒魔術をかけ、手当てをする。傷がすぅっと消えていく。
そして、私がこれまで負って、放っておいた傷跡にも、彼は同じように術をかけた。
古い傷跡は完全には消えず、わずかに薄くなった。
「君の白い肌に傷が残るのを、俺は見ていられないんだ」
彼がそう呟くと、私の胸の中に感じたことのないあたたかな感覚が浮かび上がり、顔が熱を持つ。
「今はゆっくり休むといい。あとでまた様子を見にくる」
そう言って、アネルは治療室の外へ出ていった。
しんとした部屋、何もしなくていい時間。
そして、初めて感じるこの心の違和感に、私はまだ名前がつけられずにいた。
しばらくして、外がざわつきだした。アネルの声が断片的に聞こえる。
「砦の責任者を拘束しろ。——証文や不正な労働の調査を」
これまでの疲れがたたったのか、私はそのまま眠りに落ちていた。
そして、気がついた時は、朝の橙色の混じった光が、窓からさしこんでいた。
——いや、今日は魔導炉の掃除!? 魔導石の入った台車を運ぶの? 早くしないと……。
カチャリと扉が開く。入ってきたのは下卑た笑みの大男ではなく、アネルだった。
「起きていたのか。今から中央魔導都に向けて、ここを発つ——私と一緒に、だ」
中央魔導都——私なんかが行けるようなところではない場所。
一瞬、私は首を傾げる。
「中央……魔導都、ですか?」
「今日から君は、私直属の魔導解析官だ。中央魔導都で、私の補佐をしてもらう」
治療室から出ると、砦の門の前に馬車が見える。
ここに連れてこられてから、何年が経っただろうか。
アネルに手を取られ、門に向かう。
一瞬、足がすくむ。
「……どうした?」
「本当に、この門を出てもいいのですか」
私の脳裏に、管理者の鞭を振るう姿が浮かぶ。
アネルが、不思議そうな目で私を見ている。
「君をここへ縛るものは、もう何もない」
その言葉を聞いても、足はすぐには動かなかった。
門を出ることで、また呼び戻され、鞭が飛ぶ——身体は、そう覚えていた。
縮こまる私に、アネルは優しく微笑み、再び手を差し出した。
震えながら、私は彼の手を取った。
初めて乗った馬車は、なんだか居心地に慣れない。
汚れきった私の服では座席が汚れてしまいそうで……端に座る。
カタカタと動き始める馬車から外を見ると、砦が次第に小さくなっていく。
本当に砦の外の世界なんだ——そう感じた。
けれど、砦の外の世界が、怖かった。
馬車の端で震える私の手を、アネルは何も言わず、握っていた。
外の景色は、砂埃の舞う国境砦から、緑豊かな場所へ、移り変わる。
陽の光を浴びて、草木や作物が淡く輝いていた。
「ここは、南部交易平原。穀物、香辛料、薬草などが生産され、街道沿いには宿場町や市が並ぶ。ここならエオネ族の君でも、目立たない」
私が育った北境霜原は、甘酸っぱいルメルを保存し、食べていた。そして、雪に閉ざされていた。
ここは、北とは違い、とても暖かい。記憶の彼方の、故郷の寒さがふと浮かぶ。
「綺麗……」
ふと呟いた私を、アネルが微笑んで見ている。
「ほら、もうすぐ着く。メルクの街道だ」
景色は緑から石畳の町中へ入っていく。そこで馬車は止まり、彼の手を取り、降り立つ。
街道沿いには様々なものを売るテントがあり、アネルはそこで私に、服を買った。
「これを着るといい」
「でも……」
「金ならいらない。これは私からの——いや、支給物だ」
半ば無理やり服を押しつけられ、私はおそるおそるアネルと歩く。
行き交う人々が気になり、私はきょろきょろとあたりを見渡す。
故郷と砦しか知らない自分には、見たことのない服装をした人々、すべてが新鮮だった。
「ここが、今日泊まる宿だ」
レンガ造りの大きな建物の前に、私は目を見開いた。
アネルが、扉を開け、何事もないようにカウンターへ行き、手続きをする。
そして、部屋へ案内される。
「ベッドが、ふたつ?」
おそるおそる聞く私にアネルが首を傾げる。
「それが……何か?」
私は首を振る。
「床に敷物でじゅうぶんです!」
「夜は、ベッドで眠ってもいいんだ」
アネルは、諭すように優しく言った。
そして、宿の女主人が部屋に入ってきて、私にこう言う。
「お嬢さん、お風呂の用意ができましたよ、こちらへ」
「はぁ……」
案内された場所は、砦にはないものだった。
砦では、冷たい水で数日に一度だけ身体を洗うことが許されていた。
ここは、温かいお湯がある。魔力脈のおかげで、湯が沸かせるという。
桶で湯をすくい、身体にかける。じわりと身体が温まる。
「あたたかい……」
こんな感覚は、ほとんど初めてだった。
私は、身体を洗い、アネルから支給された紫色の服に身を包んだ。
「やっぱり、君の白銀の髪と、白い肌によく似合う……支給物だ」
部屋に戻ったら、アネルが俯きながら呟く。
私は、意味がわからず首を傾げる。
私だって驚く。こんな紫色と黒の布地に金色の衣装が施された綺麗な服を支給されるなんて、と。
そして、部屋のテーブルに温かな食事が運ばれてくる。
食事は取っておかねば。——明日の分に。
「食べないのか?」
アネルが、ぼそりと尋ねる。
「明日の分に取っておきます」
「明日の朝には朝の食事が出る」
「では、明日の食事は、明後日に——」
アネルが眉間を押さえている。
「昼には昼の。夜には夜の食事を食べるんだ」
「……毎日ですか?」
「ああ」
硬いパンを数日に分けて食べていた私にとって、それは初めての経験だった。
温かい物、作りたてのものを食べられる。
私の視界が僅かに滲む。温かく、少しだけしょっぱい味がした。
それを見て、アネルの身体と拳が震えているのを、私は見ないふりをした。
食事を終えても、アネルは眉間に皺を寄せたまま黙っていた。
その体が震えている。
(ベッドで眠ってもいい、か)
柔らかなベッドで包まれるように眠ると、昔別れた両親の声が、遠くから聞こえた。
村にいた頃のような、懐かしい香りがした。
次の日の朝、また馬車に乗り、進んでいくと大きな塔がある大きな街。
「あれが、中央魔導都ですか?」
「ああ。しばらくは、あそこが君の暮らす場所になる」
暮らす場所という感覚を、私はまだ知らなかった。




