32.エオネの故地
さく、さくと村への道を歩く。私の双眸に少しずつ記憶と同じ景色が浮かび上がる。ここだ。この道を通って、あの日私は、逃げた。
「――この先に、小さな川があります」
冬の間でも凍らず細く流れる小さな川があったはずだ。そこの魚を村の大人は釣って、食べていた。
私の記憶にあるとおりに雪の間から細い水音がした。
間違いない、だとすれば、この先は――
「あの曲がった針葉樹を越えたら……村が見えるはずです」
アネルは、何も言わず私の横を歩く。その瞳は、雪の中でも紅く、わずかに揺れて見えた。
曲がった針葉樹を越えたら、木々が、開けた。
家はなく、雪の中に黒く焼け焦げた煉瓦の基礎だけが覗いている。
井戸の縁、倒れた柱。崩れた石壁。
白かった。
あまりにも、白かった。
だからこそ、雪の間から覗く黒い焼け跡が、ひどく目についた。
私は、アネルに聞かせるように村の中を見て回る。
「……ここ、広場です」
広場の隅に、赤黒く焼けて崩れかけた井戸が雪に埋もれている。
「あそこに井戸があって」
広場の中心を指さす。
「冬市の時期になると……大人たちは皆ここで準備を、していました」
アネルは静かに私についてくる。
そして、雪の中に埋もれた私の家が赤黒い崩れた煉瓦の残骸となって残っていた。
私の中では、あの日のまま。
玄関やパチパチと音を立てる暖炉、台所、姉と寝ていた寝室が見える。
「……ここに、私の家がありました」
台所があった場所の雪をどけると、黒く煤けて、少し歪んだ丸い金属板。
ルメルパイの香りが鼻腔をくすぐった、気がした。
「……これ、母の」
ルメルパイの焼き型。
私の瞳から、とめどなく涙が溢れる。
「……帰って、きたよ」
しんしんと雪が降る。誰もいないこの村に、アネルとふたり、立っていた。
私はしばらく立ち尽くし、アネルの服を掴む。
泣きじゃくる私を、彼が力強く抱きしめる。寒さの中に、彼の熱が伝わってくる。
「……ひとりで来なくて……よかったです……」
「……ああ」
涙が枯れ果てたころ、私は静かに彼から離れ、周囲を見渡す。
半分崩れた石造りの集会所の中に、地下への階段がある。
表面には、古いエオネの言葉で《雪環の書庫》と書いてあった。
自然と故郷の景色と、ことばが浮かんでくる。
ギィ……と重く錆びついた金属の扉をふたりでなんとか開けると、消失を逃れた書物が置かれた本棚がいくつかあり、中心には椅子と机が置かれていた。
「……『村議会記録』。十年前のものです」
村が焼かれる数日前に行われたらしい村議会の記録。
私の目に、大人たちが遅くまで話していた石造りの集会所の灯りが浮かぶ。
両親が遅くまで帰ってこず、姉と先に寝たんだった。
記録をなぞる指が、震える。
《中央より時律監察局員十六名来訪》
《時詠み資質保持者の登録および中央への移送を要求》
《村議会、本人の意思を伴わない移送を拒否》
帰ってきた両親の、「しばらく家から出てはだめ」と私たちに告げる声が聞こえる。
そして、窓から見えた黒い外套の男たちが村が焼ける数日前、妙に出入りが激しく、うろうろと村を見て回っている姿。ゴンゴンと響く強いノックの音。震える私に、姉が読んでくれた本がおぼろげに浮かぶ。
《村周辺に不自然な時の霞を確認》
《自然発生の時災とは異なる可能性あり》
両親は「時が霞んでいる」と話していた。村の周りは自然に霞むことはあった。
あの時は……家までぐにゃりとした感覚が伝わってきた。飲み込まれそうなほどの霞は、見たことも感じたこともなかった。
「……時災は、起きたんじゃない」
アネルが、記録を見て声を落とす。
私も、浮かぶ記憶と、手元の記録を照らし合わせる。
「起こされた……?」
アネルが僅かに頷く。
「その可能性が高くなった」
そして、最後の一文が目に入った。
『時を詠むものは、未来を定めるものではない。選ぶものの道を照らす者である』
子どもだった私は、村の教えなど知らなかった。知らずに、一族の思想に戻っていた。そのことに胸が熱くなる。
「私……知らなかった」
アネルが頷く。
「ティルアは、自然と同じことをしていた」
私は、その記録を胸に抱き、ただ、立っていた。
書庫の中は外よりわずかに暖かく、十年前から時間だけが止まっていたように見えた。
村の大人が記録だけは書庫に入れていたのだろうか?
黒い外套の男たちが来てから、村の大人の顔は少しずつ険しくなっていった。
思い出した。両親の覚悟を決めたような表情を。
書庫の外へ出るころには、雪が茜色に染まっていた。
村の広場があった場所の雪をどける。
「――雪環の送り歌」
亡くなった人を送る時に一族が輪になり、踊り手が舞う。
私は、もう一度村をぐるりと見渡す。
かつてはみんないたこの村。
エオネ族は――もう私しかいない。
村の広場の中央に立ち、アネルの方を見る。
「明日……村のみんなを送ります」
「送る、とは?」
「『雪環の送り歌』です。本当は一族で行う弔いの儀式です」
わずかに、視線を落とす。
「……でも、今は……私しか、いません」
顔を上げ、アネルの方を見る。
「見ていて、くれますか?」
「ああ」
私は、歪んだパイ皿を胸に抱き、雪に埋もれた村の焼け跡をじっと見る。
十年前、私は何もできずに逃げるだけだった。
明日は、ちゃんと送ろう。
家族と――村のみんなを。
エオネ族、最後の一人として。




