31.故郷のことば
砦の警備局の兵士が白い息を吐きながら私を呼びに来た。
「ソルデヴィア解析官、朝食の用意ができております!」
私は少し雪がかかった髪を揺らし、霜門砦へ雪を踏みしめながら戻った。ぎゅ、ぎゅっと雪の音が低く鳴る。
食堂へ入ると、アネルが一瞬私をちらりと見たあと、視線を逸らす。長い睫毛が少し揺れ、耳が赤くなっている。
「おはようございます」
「……ああ」
昨夜のことは何も触れずに、朝食を食べる彼の手が少しだけゆっくりになり、耳がさらに赤くなった。
「……ティルア、これも食べておけ」
「……支給品ですか?」
「携行食だ」
顔が熱くなる。そして、昨夜の唇の温度まで思い出してしまい、私は干しルメルを受け取った。
支度を済ませ、外へ出ると彼の紅い双眸が雪に映えている。
砦より北、北境霜原は一面の白銀。遠くには雪山が薄らと見える。馬車のカタカタという車輪の音さえも雪に吸い込まれていく。森にはたまに枯れて赤茶色くなった針葉樹が彩りを加える。
静かだ。
中央魔導都の静けさとは違う。
雪が、音を抱き込むような静けさだった。
「昔のことなら、俺のいた隣村に記録が残っているかもしれん」茶店のおじいさんはそう言っていた。
――北境霜原そのものが、あの日から止まってしまったように思っていた。
こうして、今も暮らしている人がいるのは嬉しい。少しでもあの日のことがわかればと、隣村の村長さんの家に行く。
「その見た目。解析官のお姉ちゃんは、エオネ村ん人ね?」
「……はい!」
「あの火の手から……生きていた人がおって……本当によかった。記録はこれだよ」
懐かしい北部訛りで話しかけられ、エオネ村の人と普通に呼ばれ、北境霜原の人は誰も白妖などとは呼ばない。 それが懐かしくもあり、心が暖かくなった。
アネルと渡された資料を丁寧に読み込む。そこには北境霜原の『普通の暮らし』があった。
《エオネ村 ルメル三十籠》
《毛織物》
《薬草》
《北境冬市への出店》
北境の記録にはどこにも中央にある《白妖系特異時術保持集団》の文字はない。
ただ、取引をして、買い物をして、人々の生活が息づいていただけだ。
「……北境冬市には、母もよく行っていました」
「ティルア、覚えているのか?」
「はい。帰ってくると、いつも姉と私に甘い焼き菓子をひとつずつ買ってきてくれて……冬市で買ってきたもので、ルメルパイを焼いてくれたのです」
村長さんは、目を細めて話した。
「エオネ村ん人たちは、変わった連中なんかじゃない。冬市じゃ、エオネ村のルメル酒や、ルメル茶が人気だったものさ」
私は、静かに頷く。私たちは、こうやって北境霜原で生きていた。そう記憶してくれている人々が、確かにいるのだ。
「エオネ村んあった場所……この古地図しかないが、読めるけ?」
村長さんが手渡した地図を見て、アネルは首を傾げていた。私もその地図を覗き込むと、自然に読める。
「……『雪環の里へ。冬灯の木を越え、北の石道を進め』」
アネルが、わずかに目を丸くして私を見る。
「読めるのか?」
私も、自分が北境の言葉を覚えていることに、驚いた。
「……ええ。なぜか、自然に浮かんできました」
北境の言葉で書かれた文字ひとつひとつを指でなぞると、懐かしい声がする。
『これは、雪』
『こっちは、家』
『ティルアの「ティ」はね――』
文字を教えてくれていた母や、姉の声がどこからか聞こえてくる。すぐそこにいてくれるような気がして、胸がいっぱいになる。
「忘れていなかったんだな」
「……はい」
さらに資料を読み進めると、あの日の数日前、変わった往来記録があった。
《中央監察局員 十数名通過》
《目的:北境時術調査》
私の心臓が、ばくばくと鼓動が早くなっていく。震える指で、読み進めるとエオネ村からの交信記録が残っていた。
《交易一時停止》
《中央より来訪者あり》
「あの頃、エオネ村の人が『中央の人間が時詠みを探している』って言ってた」
お茶を持ってきた女性が、呟く。
時詠みを、探していた?
「……私、だったのでしょうか」
アネルはすぐには答えず、私の頭にぽんと手を置いた。
「まだ、わからない」
私たちは、隣村を出て、針葉樹の森を歩いて進む。
現在の地図からは存在すら消されている、私の故郷、エオネ村。
村長さんからもらった地図と、薄らと残る私の記憶を辿り、ただ歩く。
遠くに鳥の声がし、しんとした道をさく、さくと音を立て進んでいく。
日が傾きはじめ、光が橙を帯びてきたころ、記憶にある村への道を見つける。
雪に半分埋もれた石碑が、人がいなくなった年月を物語っている。
私は、心の中で「……ただいま」と呟きながら、雪を払う。
石碑には《エオネの村 この先》と刻まれていた。
「……ここから少し行ったところです」
「村への道か?」
「はい」
なぜだろうか、村を目の前にすると、胸がぎゅっと強く締め付けられる。私は、アネルの手をそっと握った。
「アネル、一緒に……来てください」
「はじめから、そのつもりだ」
地図からは消された道だった。
けれど、私は読める。
この文字も。
この雪の匂いも。
故郷へ続く道も。
――私は、まだ覚えている。




