30.雪の匂い
中央魔導院の独立調査の一環として、戦略局で北境霜原に行くことが決まった。
戦略局からは私とアネルが指名された。というよりエオネ族である私が行くことは、ほぼ決定事項だったのだろう。
十年ぶりの北境霜原。村は焼かれてもう形もないのは、頭では理解していても、まだ心が追いついていかない。
アネルが私の机にコトン、とお茶の入ったカップを置く。
「ティルア、本当に行くのか?」
「はい」
「怖くないのか?」
一瞬、私の手が止まる。
「……本当は、怖いです。まだ心が追いついていません」
「無理は、しなくてもいい」
肩に置かれたアネルの手が、暖かかった。
北へ向かう日、街の外に浮行馬車が用意されており、乗り込んだ。
外を見ると、中央の街の景色が暖かい風とともに次第に遠ざかり、少しずつ銀色が混じりだす。草が茶色や白がかってきて、びゅう、と強い風が吹く。
頬を撫でる風も、ただ冷たいだけだったものから、次第に肌を刺すようなものへ変わっていく。
突き刺すような強い風、指先が少しずつ冷えていく。
その冷たさを、私は知っている気がした。
北境霜原に近づくにつれて、びゅうっと刺すような風が容赦なく吹く。
「このあたりで、休憩しようか」
アネルの言葉に、私は頷く。
浮行馬車を降りると、ほのかにルメルの甘酸っぱい香りがただよってきた。
「ルメル茶、いるかい?」
茶店のおじいさんの声が、どこか懐かしい響きに聞こえた。
言葉の抑揚が、両親や、村の大人たちを思い出させる。
私は、頬が緩み「ふたつ!」と北部の訛りで答えた。
茶店でアネルとルメル茶を飲んでいると、おじいさんが尋ねる。
「お嬢ちゃん、その感じだと……もしかしてエオネの村の出身け?」
こうして、村のことが記憶に残っている人もいるんだ、と初めて思った。私は嬉しくなり、頷いた。
おじいさんは、少し視線を伏せた。
「あの時、中央の方から黒い服の人らが来て、エオネの村は焼かれて、誰もいなくなったと思った。お嬢ちゃん、生きてたんだねぇ。よかった」
「あの日、私の家族も……エオネの村は、皆いなくなりました」
「本当に、ひどいことをするもんだよ。俺は隣村の出身でねぇ、エオネの村の火の手は遠くに離れていても、見えたもんだ」
アネルは、その話を横で静かに頷きながら聞いていた。
そして、北部でよく食べられる保存食のパン、干しルメルを買い、携行鞄に入れており、私は、胸がぎゅっとなった。
茶店を離れ、また浮行馬車は北へ向かう。そして、アネルが「食べておけ」と干しルメルを手渡す。
私は少し笑って「それ、支給品ですか?」と言うと、彼は少し赤くなり「……調査用の携行食だ」 と呟いた。
しゃく、とひとくち食べると、甘酸っぱい味の奥に、なぜか煙の匂いがした。
「……もし、村に何も残っていなかったら、と思うと」
と呟くと、アネルは静かに私の肩を抱き、「ああ」と相槌を打つ。そして、私は震える声をこぼした。
「……今度こそ、私の覚えているものまで、なくなった気がしそうで」
彼は、静かに震える私の肩を抱いていた。その熱が、じわりと伝わり、彼の気持ちもそのまま流れ込んでくるような感じになる。
「もし残っていなくても、君が覚えているものまで消えるわけじゃない」
私は頷き、彼に肩を抱かれ、もたれかかっていた。
日が傾き始めるころ、北の境目にある霜門砦にたどり着く。
一瞬体がこわばったが、私が知っている国境砦とは違う。
「ブリューム局長、ソルデヴィア解析官。お待ちしておりました。念のため魔紋証を拝見します」
門番の警備局の兵士へ魔紋証を差し出す。
「ティルア・ソルデヴィア解析官。種族登録……エオネ族」
門番の兵士が一瞬驚いた顔をする。しかし、すぐに「確認しました」と微笑みながら返してくる。
私の胸が、揺れる。『エオネ族』として公的に認められている。
「今夜はここで泊まるぞ」
アネルの声に、私は頷き砦の中に入る。
中は煉瓦造りで、暖炉がパチパチと灯っており、村の家をかすかに思い出させた。
暖かく、ずっとその灯りを見つめていると、アネルが横に来る。
「眠れないのか?」
「……はい」
私は、視線を少しだけ伏せ、「雪の匂いを、思い出して……」と呟いた。
彼は首をわずかに傾げ、「雪にも、匂いがあるのか?」と尋ねる。
私は頷く。
「あります。晴れた日の、溶けかけた雪の湿った匂い。しんしん降る夜の、冷たく澄んだ匂い……」
そして、私は俯いた。
「冷たい空気と、木の煙と……土の匂い」
その時、私の脳裏にあの日の記憶が浮かんだ。
薪を切っていたはずの父、外にいた姉は、青い光に貫かれ、息絶えた。
母は、男たちの視界に入らないよう、私を連れて村の外へ逃げようとした。
村の外へ出ようとした、その時、黒い外套の男が近づき、口角を上げた。
そして、「ティルア! 早く! あなただけでも!」という母の声で逃げ出し、振り向くと、青い槍のような光が母を貫いて……母も、息絶えた。
私の手が震える。
アネルが、手に触れようとし、躊躇いつつも「触れてもいいか?」と尋ねる。
私は頷き、彼の手を握り、肩に寄り掛かる。
「あの時は、逃げるしか……なかったんです」
彼は、「ああ」と頷き、私の肩を抱き寄せる。
そして、私は彼の目を見る。
「今夜は、あなたに触れていたいです」
アネルの手が、ためらうように私の頬へ触れた。
私は、そのわずかな距離を自分から縮めた。
唇が、優しく重なった。
外の雪が、しんしんと降っていた。子供の頃に見た、あの頃のように。
その日の夜は、唇に残った彼の温度と、明日への怖さが胸の中で混ざり合い、なかなか眠れなかった。
北境霜原を見るのが、怖かったのだ。
夜が明けて、砦の門の先に一歩踏み出す。
北境霜原は、あの日のまま哀しいほどに白く続いていた。
雪を踏むとぎゅっと音がする。
十年前、私はここから必死で逃げた。
今度は、この先へ進む。




