13.碧鏡の湖
中央魔導都を離れるにつれて、空を遮る建物が少しずつ消えていった。
久しぶりに広大な紺碧の高い空を見上げる。
浮行馬車に揺られ、緑の香りが、鼻をくすぐる。
「……初めての出張、不安か?」
アネルが過ぎゆく景色を見ながら、私に尋ねる。
「いえ、風が温かく、気持ちがいいです」
やがて、視界の先に、空と同じ色をしたものが現れる。
湖だった。
碧い水面は風に揺れるたび、砕いた硝子のように光を散らしている。遠くの山影まで映し込んだ湖は、どちらが空なのか分からなくなるほど澄んでいた。
浮行馬車を降りると、冷たい風が私の白銀の髪をさらりと揺らす。
「……きれい」
思わず声が漏れた。
横をちらりと見ると、アネルが、湖ではなく私を見ていた。
北境霜原の水は、冬になれば凍る。
水辺は、身を裂くほど冷たく、命を奪うものだと思っていた。
けれど、目の前の湖は違う。
光を抱いて、ただ静かに揺れていた。
戦略局に来た依頼は湖の周囲に設置された魔力観測装置が異常値を出している、ということだった。
湖の周辺では「湖の魔力が乱れている」と騒ぎになっている。
私は、湖岸を歩きながら魔力の流れを見ると水中を細い糸のような光の筋が走っている。
湖底から淡い青の光が、魚の群れのようにゆっくり移動していた。
一筋、また一筋。
水そのものが呼吸しているようだった。
観測装置が置かれている場所に着くと、アネルが呟く。
「原因は季節による湖底魔脈の移動。観測装置を調整すればいい」
アネルが観測装置に手を触れた瞬間、ガタリと私の立っている場所が崩れる。
落ちる——そう思った瞬間、アネルが私の手を取った。
「危ない」
引き寄せられたとき、赤い髪が思ったより近くにあった。
なぜか、私は目を逸らしてしまう。
心臓が変な鼓動を立てる。
「顔が赤い。熱でもあるのか?」
「……ありません」
「本当に?」
「湖を見てください」
アネルと私は、観測装置の修正をする。
湖底の魔力の流れが、まるで魚の群れの方向が変わるようにうねる。
水の呼吸が、さっきまでと変わった気がした。
私は、アネルをじっと見る。
今まで、まじまじと見たことはなかった。
髪と同じ赤い瞳が、紺碧の湖面を映し出している。
その口元には、安堵したような柔らかな笑みが浮かんでいた。
心臓が、さっきとは違う妙な調子で音を刻みはじめた。
なぜ、アネルを見ると、おかしな鼓動を立てるのかはわからない。
身体が熱くなるのか、まだわからない。
ただ、湖の湿った風だけがさらさらと吹き抜ける。
そして、アネルといると、時間の流れを忘れてしまう。
「ティルア、観測装置の修正が終わった」
「……はい」
アネルが首を傾げる。
「ティルア、本当に熱はないのか?」
「……ありません」
日が傾き、紺碧だった湖は、茜色をはらむ。
傾き方によって薄紫や金色に水面が変わっていく。
昼間は空を映していた湖が、今度は沈む陽を抱いていた。
同じ場所なのに、少し時間が経つだけで色が変わる。
未来も、こうなのかもしれない。
一つに決まっているのではなく、その時々の光で姿を変える。
それを見つめる私の隣に、いつの間にかアネルも並ぶ。
「アネル」
「なんだ?」
「未来も、こうやって姿を変えていくものなのかもしれません」
彼は、水面を見て、「そうだな」と呟いた。
私たちは、しばらく姿を変えていく水面を、時を忘れたかのように見ていた。
突然、アネルがマントごと私の肩を包む。
「……夕方は冷える」
「……はい」
ただ、身体が熱くなり、心臓が変な鼓動を立てて跳ねるが、心地よさを感じる。
マントごと包まれた私に、少しずつアネルの熱が伝わる。
私は、初めて「こうしていたい」と思った。
森の木々がさわさわと鳴り、その間を静かな風が吹き抜ける。
空は、茜色から次第に藍色に変わり、夜の帷がおりようとしていた。
「そろそろ、帰るぞ。ティルア」
「はい」
彼の隣を歩き、また浮行馬車へ乗り込む。
向かいに座る彼を見て、中央魔導都へ帰ることが少しだけ、惜しくなった。
戦略局へ戻ると、いつもと違う飲料が置かれた。
「……ルメルに似た果物を使った、茶だ」
「ルメルに、似たもの」
ひと口飲むと、やわらかな甘さのあとに酸味が広がった。私の気分も、この茶の味と似ている、そんな気がした。
「今日はもう遅い。食堂で夕食を摂って、早く戻ろう」
夜の食堂は、仕事疲れからか、解放感からか、どこかざわめきがいつもと違う。
橙の照明がついた、奥の二人掛けの席に腰を下ろす。
アネルが私を見て、ふっと笑う。
「……最近、食事を隠そうとはしなくなったな」
私はぷい、と横を向く。
「食事はちゃんと出る、ということがわかったからです」
それを聞いてアネルが、さらに笑った気がするのは、気のせいだろうか。
部屋へ戻り、制服をクローゼットへ戻し、着替える。
ただ、今日は眠れる気がしなかった。
静かな部屋に、私の心臓だけが変な音を立てていた。
まるで、アネルに対してだけ感じる違和感が少しずつ、少しずつ、輪郭を帯びてきた。
しかし、その気持ちが何なのかは、まだ答えが出ない。
それでも、嫌な気持ちはしなかった。




