11.未来は証拠にならない
朝、戦略局内は多くの職員がバタバタと走り回り、慌ただしかった。
「あ、ティルアさん! おはようございます! 大変なんです——!」
ユスティンさんが、脚をもつれさせそうな勢いで走ってくる。
私は周囲を見渡し、局長室へ急いだ。
「アネル。これはどうしたのですか?」
「中央魔導都の防衛結界を一時解除するための術式を記録した水晶が——保管庫からなくなった」
アネルが走り去る。
保管庫の位置もわからない私は、何をしたらよいかわからず、しばし呆然とする。
とりあえず、皆の向かう方に行けば、保管庫に着くはずだ。
保管庫に行くと、戦略局の職員が大勢集まっていた。
「西部演習場の転移門を開閉するだけとはいえ——あそこは結界の制御術がかけられている部屋がある。悪用されれば……」
「誰だよ、持ち出したやつ」
「最後に入ったのは、エリオだろ?」
口々に職員たちが話している。
アネルが、職員たちの前に立つ。
「静粛に! 入室記録には確かに通信事務官エリオ・ファルクと残っているが、まだ真実はわかっていない」
人混みの外で、ひとりの若い金髪に丸眼鏡をかけた男性職員が青ざめ、震えている。
彼がエリオ・ファルクだろうか。
「ち……違う! 俺は、書類を届けただけです。水晶には触れていません!」
「局長室で話を聞こう」
アネルとエリオさんは並んで歩いていく。私も後ろからついていった。
エリオさんはカタカタと震え、今にも倒れ込みそうだ。
「本当に、君がやったのか? ファルク事務官」
アネルの声に、エリオさんはぶんぶんと強く首を振って否定する。
「君が嘘をついているとは思っていない。だが、何が起きたのかは調べる必要がある」
アネルがそう言うと、エリオさんが部屋を出る。
その時、私の視界には東廊下を走るエリオさんの姿が見えた。
手には、なくなった黒い水晶を持ち、警備官数人に追われている。
何度も「違う!」と叫ぶエリオさんが転移門の前で捕らえられ、連行される。
私が見えたものだけなら、エリオさんが犯人じゃないか。
そう口にしようとすると、アネルが私の方を見る。
「ティルア、何が見えた?」
「エリオさんが、水晶を持って逃げます」
アネルが難しい顔をする。
「……そうか」
「では、彼が犯人なのでは?」
アネルは厳しい顔で首を振る。
「……未来は、証拠にならない」
未来が、証拠にならない?
私は、何を意味するのかわからず、視線が彷徨う。
「……ですが、たしかに持っていました」
「持っていた理由を、君は見たのか?」
私は、首を振る。
「……いいえ、わかりません」
アネルが、厳しい顔で問う。
「逃げていた理由は?」
「わかりません」
「なら、まだ何もわかっていない」
アネルが踵を返す。
「東廊下の転移門前へ急ぐぞ」
「……はい」
東廊下へ到着したときには、すでに警備局の男性職員がエリオさんを捕らえようとしていた。
——このままでは、私が見たことと同じことになる。
エリオさんは真っ青な顔で怯え、東廊下の脇道へ視線をちらりと向ける。
——このまま追い詰めれば、彼は逃げる。
「……待ってください、今ここで囲めば、彼は逃げます」
警備官が手をひらひらさせる。
「やはり、犯人だからでは?」
私は、彼らを真っ直ぐ見る。
「違います。怖いから……逃げる未来かもしれません」
かつて、砦にいた頃、経験した。
何を言っても信じてもらえないから、声を発することを、やめたことを。
私は、一度局長室へ戻った。
机の上に紙を置き、一旦整理する。
【今、分かっていること】
【私が未来で見たこと】
【まだ分からないこと】
「今わかっていることは三つ。エリオさんの魔紋で保管庫が開けられていること。水晶がなくなったこと。エリオさんは水晶には触れていないと証言していること」
私は紙に書き続ける。
「見えたものは二つ。エリオさんが水晶を持って走って、それを警備官が追っている光景」
さらに私はペンを走らせる。
「まだわからないことは三つ。なぜ、エリオさんが水晶を持っているのか。なぜ、逃げているのか。水晶を保管庫から出したのは誰か」
私の背後から、声が落ちてくる。
「いい整理だ、解析官」
振り向くと、アネルがわずかに笑っていた。
そして、エリオさんのもとへ戻った。
警備官と、必死にそれを否定するエリオさんの言い合いは、まだ続いていた。
「——待て、まずファルク事務官の話を聞こう」
「ですが、ブリューム戦略局長……!」
警備官の手が止まる。
そして、エリオさんはぽつぽつと話しだした。
「俺、朝、書類の入った自分の鞄の留め具が壊れたので、備品室の共用鞄を借りたんです。そして、保管庫へ書類を届けに行きました」
震えた声で、エリオさんは続ける。
「保管担当のエリーザさんは、水晶運搬のために共用鞄を持っていました。書類を渡そうとしたら、エリーザさんの通信水晶に急な呼び出しが入り……僕に鞄を押しつけ、僕の鞄をひったくるように抱えて、出ていきました……。なので、鞄の中身は……まだ見ていないんです」
私は、その鞄を受け取り鞄の中身を確認すると、黒い水晶が入っていた。
彼は驚いて水晶を掴み、「戻してきます!」と叫び、走り出そうとする。
私は彼の腕を掴む。
「待ってください。……走らないで」
「でも、早く戻さないと!」
「走ればあなたは、本当に水晶を盗んで逃げたと思われます」
エリオさんが、私を見る。
「どうして、それを……?」
「今は、私と一緒に戻しましょう」
私とアネル、そしてエリオさんと警備官たちは戦略局へ戻った。
保管庫の前で、女性が青い顔をしていた。
「エリーザさん!」
エリオさんが走り寄る。
「エリオ君ごめん! 鞄間違えちゃったみたいで、エリオくんの書類が入っていたの!」
私たちがエリーザさんの鞄を確かめると、本当に書類しか入っていなかった。
結局、ただの鞄の取り違えと、確認不足だったのだ。
しかし、警備局が記録だけを見てエリオさんを犯人扱いしたことで、あのようなことになったのだった。
「しかし、記録ではファルク事務官が……!」
警備官が口を挟む。
アネルは厳しい声で、警備官たちに告げる。
「——記録は、事実の一部だ。それだけで人間の意図まで決めつけるな!」
警備官たちが怯んで、「失礼しました!」と言い、立ち去っていく。
アネルが、静かに言う。
「エリーザ・フューラー管理官。急いでいたとはいえ、今回のことは一歩間違えれば大変なことになっていた」
「申し訳ありません」
エリーザさんが頭を下げる。亜麻色の髪がさっと揺れていた。
アネルは、静かに続ける。
「エリオ・ファルク事務官。受け取ったものはその場で確認しろ。慌てるな」
「……はい」
アネルは、ふたりと、私の方を見る。
「水晶の管理体制と、保管方法を見直すことにしよう。同じことが起きないように」
そう言って、局長室へ戻る。
私は、未来だけで人を判断しようとしていた。見たとおりに行動していたら——大変なことになっていた。
そう考えると、胸にずしりと重いものがのしかかっていた。
「……私は、エリオさんを犯人だと思っていました」
「ティルアは口にする前、一度立ち止まった」
アネルの方を見る。と、僅かに、優しい目をしている。
「……あなたが、止めたからです」
「次は、君自身で立ち止まれる」
時詠みは、誰かを救える一方で、使い方を誤れば、誰かの人生をいとも簡単に奪えてしまう。
今回のことで、思い知った。
「……未来が見えても、すべてを知ったことにはならない、そうですよね?」
「ああ、だから私たちは現在を調べる」
アネルは続ける。
「君が見た未来を疑えと言っているわけではない。……それだけで人を裁くな。そう言っている」
私は、深く頷いた。
アネルが一冊の帳面を渡す。
「これは?」
「解析記録帳だ」
「支給品ですか?」
「職務上必要な……支給品だ」
帳面を開くと、アネルの字で最初のページに三つの欄ができていた。
【見えたもの】
【わかったこと】
【まだわからないこと】
私は、ふっと微笑んだ。
「未来にも『まだわからない』があるのですね」
「ある。むしろ、そのほうが多い」
入口で「あの……」と声がした。エリオさんだ。
「俺の話を聞いてくださって、ありがとうございました」
「私は一度、あなたを疑いました」
「それでも、決めつけなかった」
「……以前、私の話を聞いてくれた人がいましたから」
ちらりとアネルを見ると、彼は少し目をそらす。
「局長ー!」
ユスティンさんが入ってくる。
「局長、明日は魔導軍幹部会の昼食会です。絶対に忘れないでくださいね」
「分かっている」
「先月も昼食を抜きましたよね?」
「業務があった」
「食事も業務だと思ってください。倒れますよ? ——局長あっての戦略局です」
私はちらりと予定表を見る。
『魔導軍幹部会 昼食会』
その文字へ視線を落とした瞬間だった。
白い皿。
銀色の食器。
倒れる杯。
そして——机へ崩れ落ちる、赤い髪。
「……アネル?」
胸の奥を、冷たいものが掠める。
見えたのは、それだけだった。
何が起きるのか。誰が、何をするのか。
まだ、何も分からない。




