①
いつまで経ってもやまない風に、すっかり私の体は冷え切っていた。梅雨の合間に覗いた、天恵のような晴れ間に油断し、晩の寒さを計算に入れない薄着で来たのが悪かったのだが、いくら悔やんでも仕方がない。
「U先生、寒くありませんか。だいぶ薄着でいらっしゃるようですから……」
草の上に腹ばいになったまま、丘の上からエアガンをぶっ放す大沢顧問を拳銃の照準越しに睨んでいた山藤悠一が私を気遣って声をかけてくる。
「なに、大丈夫さ。それより、応援はまだなんだろうか」
かれこれ一時間近く、私と山藤悠一、猫目大作はほぼ丸腰の状態で大沢顧問と対峙しているのだが、呼ばれたはずの応援部隊はいつまで経っても現れない。
「さあ、どうでしょう。なにせ、あの二人が連絡役ですから……」
力なく語る山藤悠一と、壊されたメガホンの握りをなぜか持ったままの猫目大作のポケットの中には、大沢の手によって開閉部から真っ二つにされた携帯電話が眠っている。かくいう私のそれは、充電切れであえなく撃沈となったのだが、これほど悔しい思いをしたのは久しぶりだった。
「充電さえしてあれば、さっさと通報出来たのに……!」
いらだちをなんとかして鎮めようと、私は数時間前、日比谷公会堂で起きた出来事を思い返すのだった。
昼食を食べ終え、食後に一服を楽しもうと喫煙室へ入った私は、演奏中に吸えない分を補おうと、立て続けに五本ばかりピースをふかした。そして、五本目を吸い終えて、その吸殻を灰皿へ捨てようとしたころには、開演までわずかな時間しか残っていなかった。
「さあて、さっさと行かねえと……」
はやる気持ちが足を急かし、私はひと気のないのをいいことに、公会堂の中を短距離走でもやっているかのように走り出した。
その時であった、角からのっそりと人影が現れたのは。
「――わあっ」
叫び声と共に相手が床へしりもちをつく。
「すいませんっ、急いでいて……」
見れば、そこはちょうど、男子トイレの出入り口であった。お互い、開演ぎりぎりまで粘っていた同士らしく、若干気まずい思いをした。
「申し訳ありません、立てますか」
慌てて立ち上がり、相手に手を伸ばしたときだった。相手の顔がおかしいことに気づき、私は目を見開いたまま固まってしまった。
なんと、海賊のように伸びていた豊かな頬ヒゲが、みかんの皮のように片方だけつるりと剥けているのである。途端に、そのはがれたヒゲの下から覗いた輪郭線が、ある人物の顔を思い出させた。
「お、大沢顧問……!」
うっかり口を滑らせたのがまずかった。こちらが変装のとれた自分の顔を知っていることから、警察か探偵社の関係者だと思ったのか、緑がかったレイバングラス越しに目を見開くと、大沢顧問は慌ててその場から逃げようとした。
「待てっ!」
とっさに顧問の上に覆いかぶさり、逃れようとくんずほぐれつする足に頭を蹴られながらもなんとか右足を掴んでいると、背後から聞き覚えのある声が二つ近づいてきた。
「ったく、調子に乗って余った弁当まで食べるからだよ」
「すんません探偵長、開演も近いのに……」
間違いない、山藤悠一と猫目大作だ――。気づくが早く、私はありったけの声で叫んだ。
「探偵長ォ、猫目くんっ、大沢がいたぞォ!」
すると、単調な歩みだった足音がいっきに早まり、背後から山藤悠一と猫目大作がこちらへ駆け寄ってきた。
「おいっ、観念しろよ大沢。調べはとっくについてるんだ!」
もう逃げはしないだろうと手を放し、やってきた山藤悠一ともども、床の上に座り込んだままの大沢顧問をにらんでいると、観念したのか、顧問は両手を挙げて投降のサインを掲げだした。
「あんなに逃げ回ったってエのに、案外神妙な神経してたんだなァ。ほら、おとなしくこっちへ――」
猫目大作が拳銃を向けたまま、そばへ近寄って左手を差し出した時だった。伸ばされた手を逆に引き寄せると、大沢は猫目をそのまま床へたたきつけ、山藤悠一に体当たりを仕掛けて飛び出していったではないか。
「しまったっ」
呆気に取られて捕まえる暇もなかった私は、丸の内署から関係者向けに支給されていた呼子の笛を持ち、大沢を追いかけた。やがて、大沢が裏口のドアを開けて外へ飛び出たのを見ると、私は目いっぱいの力を込めて笛を吹きならした。
「大沢がいたぞーっ、捕まえろーっ!」
あたりを見回っていた丸の内署の警官たちが笛の音に振り向き、一斉に大沢に飛び掛かる。
「容疑者、確保!」
「よくやったっ、そのままパトロールカーへ押し込めッ」
巡査の声に、黒星返上のチャンスと意気込む山岸刑事が息せき切って駆け寄り、護送を命じる。
「やあ、山藤探偵、U先生。ようやく、我々にもツキが回ってきたようです」
「ハハハ、ご苦労さん。ひとまず、演奏会が終わったらみんなには事情を話しておくとしようか。あとで連絡してくれるかい?」
丸の内署へ身柄が引き渡されてから鈴置さんたちと大沢の取り調べを覗こうと考えた私は、一緒に署へ戻ろうとしている山岸刑事と犬井刑事にそれぞれ名刺を渡し、彼らと大沢の乗り込んだ覆面パトカーが出てゆくのを見届けた。
「お手柄でしたね、先生」
「やあ、ありがとう」
自販機で買ってきたらしい缶入りのアイスコーヒーを差し出されると、私はベンチに腰を下ろし、先にのどを潤している猫目大作や山藤悠一ともども、疲れをいやそうとタブを起こした。
「しかし、あっけない最後だったなあ。犯罪者って言うのは、こんなにもアッサリ捕まるもんなのかい」
「まあ、大抵はそうですよ。稀に、かなりしぶとく逃げ回るのもいるんですが……。僕はてっきり、そちらの方だとばかり思っていたんですが、やはり大沢顧問は普通の人でしたね」
缶のヘリの部分をつまんだまま、山藤悠一が並木に背を預けて、どこか感慨深げに空を仰ぐ。長かった事件が幕を閉じ、市井の人々から恐怖が取り除かれたことを喜んでいるのだろうと、初めて目の当たりにした私立探偵である彼の活躍を思い返しながら、私はそっと、心の中で拍手喝采を送ったのであった。
なんとなく、演奏中の場内に戻る気になれず、しばらく木陰で話しながら休んでいると、先ほど「確保!」と叫んだ巡査が慌ててこちらへ駆け寄ってきた。
「おおう、君か。さっきはお手柄だったねえ――」
ところが、相手は間髪入れず敬礼もそこそこに、
「報告いたしますっ。――護送中のパトロールカーが容疑者に奪われました。山岸・犬井の両刑事と巡査が一名、計三人が人質となり、現在車両は行方不明となっております」
「なんだってェ!」
思わず、手元から缶コーヒーが滑り落ち、地面に甘い香りの漂うコーヒーが輪を描くように広がった。
「目下、Nシステムで該当車両を探しておりますが、覆面車両ですので相当な時間がかかるかと思われます……」
「やってくれたな、ポンコツコンビ!」
憤る猫目をしり目に、捕縛劇の一幕を思い返すと、あの二人は手錠をはめているような様子がなかった。凶悪犯でもないから大丈夫だろうとタカをくくっていたのだろうか。とすれば、なんともお粗末な話である。
「どうする、山藤探偵」
「――追いかけましょう。おそらく、犯人からも何かしらのレスポンスがあるはずです。それを頼りに
追いかけるしかありません」
ポケットから愛車のキーを出すと、山藤悠一は巡査に言伝を頼んでから、私と猫目に表通りで落ち合おうと言い残して駆け出した。
「えらいことになったな。無関係な市民が巻き添えを食わなければいいんだが……」
「だから僕は、あんな無能を今度の捜査に入れるのは嫌だって言ったんです!」
顔を真っ赤にして怒鳴る猫目と共に通りへ出ると、ちょうど近くのパーキングメーターから、山藤悠一の愛車である観音開きのドアをしたクラウンが発進したところに出くわした。
「――乗ってください!」
前のめりに停車したクラウンへ飛び乗ると、私がドアを締め切らないうちに、山藤悠一が派手にクラッチを入れたため、猫目ともどもモケットに押し付けられてしまった。
「猫目、無線の方を頼む」
「オーケイっ」
後部座席から身を乗り出し、カーラジオの下に取り付けられた無線機のマイクを片手にダイヤルを調節すると、猫目大作はしきりに、
「こちらさつき一号、こちらさつき一号、丸の内署応答せよ、丸の内署応答せよ、どうぞ」
「――はい、こちら丸の内署警邏車係、どうぞ」
猫目の呼びかけに、オペレーターが反応する。
「さきに連絡が行ってるかと思いますが、テイルズ事件の容疑者が犬井刑事らを人質に逃走しました。現在、Nシステムの反応報告を待ちながら追跡中。最新情報求む! ドウゾ!」
逃がした魚が悔しいのか、語尾がいちいち荒々しい。
「了解いたしました。本庁へ問い合わせます。返電は本庁からとなりますが。どうぞ」
「問題ありません、どうぞ!」
乱暴にマイクを置くと、猫目大作はモケットへ背を預け、腕を組んだまま黙り込んでしまった。なんとなく、ハンドルを握る山藤悠一にも声をかけるのがはばかられ、私は仕方なく、ドアに据え付けられた灰皿を開いて、ピースをゆっくりとふかしだした。
しばらく、都内の主だった高速の乗り入れ口を巡るように走っていると、沈黙を続けていた無線機から、がらがらとした声が飛び込んできた。
「こちら警視庁、こちら警視庁。さつき一号応答せよ、さつき一号応答せよ」
「――はいっ、こちらさつき一号。墨山警部補、なにか進展は? どうぞ!」
猫目がとった無線の相手は、いつぞや日比谷公会堂で私と金沢の窮地を救ってくれた墨山警部補であった。
「やられた、覆面パトカーは乗り捨てられた後だった。ただ、犯人や山岸たちのいる場所はわかったぞ」
「いったいどこです、それは」
マイクを奪い、山藤悠一が興奮気味に叫ぶ。
「――翡翠ヶ丘市の緑地公園だ。向こうの署員を同行させましょうか?」
「いえ、そうすると却って相手の気を逆なでます。下手をすると、山岸さんたちの命が危ないかもしれません。我々が現地に向かいますが、もし何かあったら連絡しますので、お願いいたします」
「わかった。とにかく、気を付けて……」
そこで無線が切れると、山藤悠一はバックミラー越しに、
「――いまの、聞いてらっしゃいましたね。かなり危険な道になると思います。先生にはどこかで降りていただきます」
「いや、オレは行くよ。君たちがなんと言おうと、ついてゆくよ」
「あなた、怖くないんですか!」
やや切れ気味の山藤悠一に、私は一拍置いてから、こう答えた。
「小説家ってショウバイはねえ、怖いもんが多い方がやりがいがあるんだよ。安心しな、自分のケツぐらい自分で拭ける。連れてってくれるかい?」
我ながら青臭いことを言ったものだと思ったが、山藤悠一はそれをバカにせず、どこか納得がいったような笑みを浮かべて、
「――わかりました。じゃあ、飛ばしますからしっかりつかまっててくださいよ!」
「おうよ!」
こちらが窓辺のつり革を掴んだのを見ると、山藤悠一はグイとハンドルを切り、一路、翡翠ヶ丘市へ向かうルートを全速力で駆け抜けた。
すっかり、西の空が傾きだした夕暮れ時のことであった。
あちこちに重機や資材のある、翡翠ヶ丘緑地公園の工事現場の前で車を降り、しばらく歩くと、私は懐に拳銃を忍ばせた山藤悠一と猫目大作ともども、長雨で作業休止中のはずなのに、煌々と明かりのついている作業事務所の前へと向かった。
「出てこい!」
猫目大作が威勢よく怒鳴り、宙に空砲を放つと、二階の窓がそっと開いて、大沢が顔をのぞかせた。
「迷わずやってきたようですね。上がっていらっしゃい」
「言われなくても行くよっ……!」
やけに素直に応じるな、とは思いながらも、階段を上がって二階へ向かうと、扉のガラス越しに、さるぐつわをかまされて縛り上げられた犬井・山岸の両刑事と、巻き添えを食った巡査の姿が見えた。
――可哀そうに、あんなバカ共の巻き添えを食って……。
憐みの目を向けていると、山藤悠一がそっとドアノブをひねり、我々は中へ踏み込んだ。
「――お久しぶりですね、山藤探偵」
事務用の椅子に座った大沢顧問が、巡査から奪ったらしい拳銃を三人に向けているのを見ると、山藤悠一は抜こうとした拳銃から手を放し、彼らを解放してやってくれ、と頼んだ。
「いいだろう。だが、ひとつ条件があります」
「条件?」
「――君たちの携帯電話を出してもらいましょう。連絡を取られては困りますからね。そこにいる彼らの分は、すでに真っ二つに折ってあります。さあ、早く……!」
拳銃をちらつかせている相手をこれ以上刺激してはならないと、山藤悠一と猫目大作、それから私も携帯電話を差し出した。が、私のそれを見るなり大沢は、
「おや、これは充電切れじゃありませんか。これはもう役に立たないでしょうから、お返ししておきましょう。もちろん、あとの二つは壊しておきますが、ね……!」
目の前で鈍い音と共に、山藤悠一と猫目大作の携帯電話を真っ二つにすると、大沢はそれを執拗に踏みつけてから、犬井刑事たちの縄をほどき、さるぐつわを取り払った。
「――山藤探偵、申しわけない……!」
悔しさに満ちた表情で、今にも泣き出しそうな犬井刑事に、猫目大作は非情にも、
「バカヤロウ! あんたらのせいで桜田門がエラい迷惑をこうむってるんだぞ! 恥を知れ、恥を!」
「ハハハ、案外単純なのですね、警察官っていうのは……」
部屋いっぱいに怒鳴り散らす猫目大作を見ていた大沢顧問が、拳銃をちらつかせながらその様子をあざ笑う。
「――では、私はこれで失礼します。もし妙な真似をすれば、この拳銃が火を吹きますよ」
「――あっ、そういえば一つ忘れてました」
山藤悠一が間の抜けた声を上げるので、さすがの大沢顧問も呆れたような顔を見せて、なんです一体、と聞き返す。
「さっき、ここへ来る最中にあった白い車、前後のタイヤに二、三発撃ち込んでおいたんです。これじゃあもう、走ることはできませんね……」
「な、なんだって」
やはりあの車は逃走に使われたものだったか、と、ここへ来る道中に発見した車に処置を施した山藤悠一の目に狂いがなかったことに、私はひどく感心させられた。かたや、それを聞いた大沢顧問は、打つ手がすべてなくなったらしく、先ほどまでの威勢のよさは消え失せて、すっかり狼狽しきっている。案外、単純なのは自分の方だったようだ。
「となれば――こちらのほうが有利らしいな!」
すかさず、猫目大作がポケット越しに拳銃を抜くと、銃弾は寸分の狂いもなく、大沢顧問の手から握りしめていた拳銃を落とした。形勢逆転、こちらの勝利である。
「――ここで、捕まってたまるものか!」
「待てっ!」
転がるように階段を降りてゆく大沢を追って、まずは猫目大作が外へ飛び出た。あとを追って出ようとした私と山藤悠一は、壁際に這わせてあった電話線がすべて切られていることに気づくと、
「――犬井刑事、いまからどこか電話のある所へ行って、このことを連絡してください! 僕たちは、大沢を追いかけます!」
「わかった!」
それだけ言い残して、そばにあったメガホンを握りしめてから外へ出ると、私は山藤悠一と一緒に、猫目の後を追いかけた。どうやら大沢は、あの日使ったのと同じエアガンを持っているらしく、それに応答する猫目大作の拳銃の音に交じって、乾いたような銃声が月夜の下にこだました。




