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押し寄せる梅雨の雲をはねのけるような心地よい青空が、都内からつかの間の湿気払いをしてくれたのは、六月下旬の雲一つない土曜日のことだった。
一足先に到着して、入り口に掲げられた「全国高等学校吹奏楽コンクール 都内予選演奏会」というほとんど角ばった字で埋まっている看板を仰いでいると、遅れてやってきた弘之と益美、それから、悠一さんたちやU先生がこちらへと歩み寄ってきた。
「遅いぜ、二人とも」
「すまんすまん、オレが引き止めたんだよ。うっかり、話に盛り上がって歩くのが遅くなってね……」
青い開襟シャツに、麦わらのソフト帽を斜に被ったU先生がしきりに扇子を使いながら頭を下げる。
「しかし、因果な話だなあ、こうして、あの日と同じ顔触れでここにいるんだから、いったいなにがあるかわかったもんじゃないね」
「言われてみれば……そうですね」
金沢先生の言葉に、夏服姿の悠一さんと猫目さんも同意する。あの春休みの出来事からもう三か月近く経とうとしているのだから、時間の流れというのはなんとも早いものである。
「佐々木さんや瀬尾さんは、翡翠ヶ丘の病院でラジオ中継を聞くそうです。NHK―FMが、関東ローカルで中継放送をやるそうで……」
「ははあ、だからあそこにNHKのラジオカーがあるのか」
公会堂と道路の中間に停まった、キャンピングカーを二回りほど大きくしたような白塗りの中継車をU先生が指さす。ローカル放送はいえ、演奏が電波にかかるのだから、翡翠ヶ丘高校はもとより、他の学校の部員たちも演奏に力が入るというものだろう。
「ところがどっこい、あやつがクセもんなんですよ」
と、そこへ猫目さんがいやに辛気臭い表情を浮かべたので、斜向かいに立ったU先生が、
「あらあら、そりゃまたドーシテ?」
と、尋ねると、
「よく言うでしょう。犯罪者は現場、あるいは関係者のいるところに戻ってくる癖がある、って……」
「――まさか、大沢顧問がノコノコ現れるっていうのかい」
途端に、演奏を聞こうと浮かれていたその場の空気がしんみりとするのがわかった。
だが、決してあり得ない話ではない。最後に起こった襲撃未遂事件から早や数週間、ここまで逃げ切ったことからくる油断が、大沢顧問に気を大きくする可能性だってあるわけなのだから。
「いちおう、管轄の丸の内署に頼んで警備を増強してもらっています。――あの一件以来、犬井刑事と山岸刑事はすっかりおとなしくなって、今度こそ真犯人をアゲてやると意気込んでるそうです」
悠一さんが懐かしい名前をあげると、U先生は途端に不機嫌一色になって、
「なんだ、あのポンコツコンビ、まだ馘首されずにいやがったのか。とっくの昔に交番勤務にでも戻ってるのかと思ったら……」
「まあまあ、そう言わず。きっと、今度こそつかまえてくれるでしょう」
「だと良いがねえ……。ま、ここで立ち話しててもなんだ、早いところ中へ入ろうぜ……」
話を切り上げると、U先生は僕たちを率いて、日比谷公会堂の中へと足を踏み込んだのだった。
劇場の扉の前でパンフレットを受け取り、部員の家族や学校関係者、教育関係のお偉方らしい人たちに四方を囲まれる形で席へ腰を下ろすと、隣に座ったU先生が開口一番、
「――いやだねえ、この空気。音楽を聴くって空気じゃないぜ」
「そうですか?」
あの日と同じ日比谷公会堂にいながら、U先生の顔はまるで場末のまずい料理店で高い請求書を見せられたような、やり場のないいらだちで一杯だった。
「そういえば、話したっけ? オレが吹奏楽部、キライな理由」
「いえ、まだ何も……」
正直に答えると、U先生はあたりの様子をうかがってから、小声でそっと、
「――演奏の優劣じゃなくて、『学生らしいかどうか』っていうのが基準だからだよ」
「学生らしいかどうか、ですか……?」
どういうことかよく呑み込めず、おうむ返しに応じると、U先生はふたたび、
「……教師の言うこと、授業はロクに聞いてないけど、休みや放課後を使ってジャズ喫茶に入り浸ったり、名盤や名演奏をCDや放送で楽しむ、ベニー・グッドマンみたいな演奏のできる高校生より、顧問の言うことを唯々諾々と聞いて、先輩のイビリを金科玉条のごとく信じる、狭い範囲での演奏だけが良いものだと思ってる司会の狭い高校生の演奏のほうが、センセイ方のお気に召すのさ。
まァ、そもそもこの手の部活動ってえのは、その活動で得られるなにかしらよりも、セン公がいかにしてその集団を統治するか、生徒が統治されたかってえのに重きを置かれてる場合があるからなあ。全部が全部、そうとは限らないが……」
その言葉でようやく、U先生があそこまで吹奏楽部を嫌っていた理由が分かった。
自分でものごとの真偽を掴もうとせず、信念もない、ただただ長いものにまかれるだけの人間が、U・Kという推理作家は嫌いなのだ。本人の言動や行動を見ていればすぐにでもわかりそうなものだったが、U先生そのものが強烈すぎて、そんなに深い信念の上に動いているとは露にも思わなかったのだ。
「だが、鈴置さんや沼井さんのような子がいると分かって、オレはちょっと見方を変えたね。いるとこにはいるもんなんだ、って……」
「――まあ、部活に限らず、どこでも大きな組織というのは、えてして変わり者の入り込む、入り浸る隙というのがどこかにあるものなのさ。今度の件でよくわかったんじゃないか、U?」
背後で益美と弘之に挟まれて座っていた金沢先生が、今までの話を聞いていたのか、やや意地悪い笑みを浮かべてU先生へ声をかける。
「ハハハ、違いない。――おっと、ぼちぼち始まるらしいな……」
つられて、僕も腕時計へ目を落とすと、夜光表示の針がちょうど開演時刻を指し、その上を秒針が通り過ぎていくところだった。そして、少しずつ場内の灯りが落ちてゆき、深々とした闇が横たわった。
やがて、十数秒ほどしてから舞台袖にスポットライトが当たり、司会進行を担当するらしいウグイス嬢がスタンドマイクの前で涼しげに、
「皆さま、大変長らくお待たせをいたしました。ただいまより、全国高等学校吹奏楽コンクール 都内予選演奏会を開会いたします……」
そこで終わればよかったのだが、あとからあとから、来賓の紹介や祝辞、祝電披露が続き、いつになっても演奏が始まらない。なるほど、U先生の言う通り、指導する側のために存在するものらしいや、と合点がいった。
長々とした前置きが終わり、ようやく一校目の演奏が始まった。曲目はラヴェルの「クープランの墓」より「トッカータ」。前になにかで聞いたことがあったからメロディに覚えはあったが、なんとなく、だしを入れ忘れたみそ汁のようなシマリのなさに辟易としてしまった。
「――同じこと考えてるんじゃないか、健壱くん」
「――かもしれませんね。サッサと終わらないかな、って思ってます」
「よかった、同意見だったか。オタマジャクシ通りにやるだけなら、自分ン家でやれっての……」
幸か不幸か、運動会や体育祭の応援以外でほとんど吹奏楽部というものの演奏を耳にしたことがなかった僕は、その演奏の味にすっかり参ってしまっていた。
昼の休憩を告げるベルがなった時、何年か分の解放感が一気に押し寄せたような気持になって、僕はベルベット張りの座席の背もたれに、体をだらしなく伸ばした。
「やっと終わった……」
「ケッ、時間の浪費だ。これだから吹奏楽部は嫌いなんだ。一度でもいいから、学校内で情け無用の演奏でもやって、ヤジを飛ばされればいい」
「ハハハ、強烈だなあ、先生は……」
他の観客が出てゆき、すっかりがらんどうになっていた背後の座席の間から、猫目さんがU先生の発言を耳にしてか、その素直な感想を述べて見せる。
「まあ、言わんとすることはわかりますよ。人を楽しませるための演奏か、って言われたら、ちょっと微妙なところが多かったですから……」
悠一さんまで同意すると、U先生は途端に活気づいて、やっぱり、同じ感想だったかァ、と変に喜びだした。
「その話はまたの機会として……もうお昼ですよ。丸の内署が僕らの分の仕出しを用意してくれたそうですから、ゆっくり食べましょうよ」
「おっ、そいつはありがたい。じゃあ、ありがたくいただくとしようかな……」
意識が昼食の方へ移り、いつものような穏やかな顔に戻ったU先生と一緒に外へ出ると、ちょうど丸の内署の私服警官――これはあとで悠一さんから聞いて知ったのだ――が持ってきた弁当を益美や弘之、金沢先生に渡しているところだった。この前と同じように、日比谷公園のベンチで並んで弁当を広げ、談笑に興じていると、あっという間に午後の部の時間になってしまった。
「さ、そろそろ戻ろうか。Uのやつは入り口わきの喫煙室にいるからいいが、我々はちょっと遠出しすぎたからね……」
集めた弁当の殻をビニール袋へ集めてひとまとめにすると、金沢先生は僕たちを率いて公会堂へと戻った。ところが、あともうちょっとで階段に差し掛かろうというところで、いきなり猫目さんがお腹を抱えてうずくまり出したではないか。
「イタタ……腹が……」
「おいおい、大丈夫かい?」
心配する金沢先生に、駆け寄って背中をさすっていた悠一さんが、
「たまにこういうことがあるんです。たぶん、出すもの出せば治るでしょうから、先に行っててください。猫目をお手洗いに引っ張っていかないといけないので……」
大ごとではないとわかり安堵すると、僕は腹を抱える猫目さんたちをあとにして、場内へと入った。
「いよいよ、チー姉ェ達の出番ね。まさか、クラリネットの独奏を買って出るなんて思わなかったわ」
文字通り、パンフレットを握りしめて喜ぶ益美は、幕が開くのを今か今かと待ち構えている。開演まであと五分ほどしかないのだが、それまでの時間がずいぶんと長く感じられて仕方がない。
「――にしても、悠一さんたち遅いなあ。具合、あんまり良くないんじゃないか?」
「だとすると心配だが……そういや、Uのやつも遅いな。出てったのはもう、三十分も前だぞ」
一緒に見に来たうちの三人が開演を前にして戻ってこない、というのは些か気がかりであったが、「まあ、あの三人なら、何かあっても大丈夫だろう」という楽観的な思いから、僕は特に気にも留めず、鳴り響く開演のベルを耳にし、慌てて舞台の方へ向き直ったのだった。
まさか、三人が命がけの死闘を繰り広げることになるとは露にも思わずに――。




