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醜い五線譜 ~狙われた美少女ジャズ奏者~  作者: ウチダ勝晃
第四章 ふたたび、日比谷公会堂にて~蠢く影と正義の光~

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 田谷京香が自転車ごと転倒して昏睡状態に陥った、という知らせを聞きつけた僕は、悠一さんの運転で彼女が入院しているという病院へと向かった。奇しくもそこは、千尋さんが転んだ時に担ぎ込まれたのと同じ翡翠ヶ丘の第二赤十字病院であり、夕闇の中で見覚えのある赤十字マークが僕たちを見下ろすように待ち構えていたのにはいささか辟易した。

 ロビーの中ほどで、先に病院へ来ていた沼井さんと千尋さん、原さんや瀬尾さん、佐々木さんといったテイルズの代表と合流すると、僕たちは彼女たちの案内で、南向きに窓の並ぶ女子病棟へと向かった。そして、その最果てにある特等個室のドアを叩くと、中から白髪頭の上品な老婦人が顔を覗かせた。渦中の人の一人である、宮脇夫人であった 

「――ヨシさん」

「ハルちゃん、京香ちゃんは……?」

 かつての恋人同士の間につかの間のアイコンタクトが交わされると、宮脇夫人は黙って顔を分厚いビニールカーテンの向こう側へそらした。病床の上には、酸素マスクを口元へ結わえた、穏やかな寝顔が横たわっている。うっすらと琥珀がかった艶色のボブカットに、白雪のような地肌の丸い顔。そして、それにはやや不釣り合いにも思える切れ長の、気の強そうな瞳は今は深い眠りの中にある。

 これが、千尋さんをいたぶろうとし、なおかつ沼井さんを脅迫した人物、田谷京香とは、にわかには信じがたかった。

「ハルちゃん、こちらはさつき探偵社の山藤探偵長。今度の事件を追っかけてた探偵さんだ」

 瀬尾さんの紹介に従うように悠一さんが深々と頭を下げると、宮脇夫人はまあ、あなたが……と大仰に言ってから、

「ヨシ……瀬尾さんから、お名前は伺っておりました。この度は、孫娘がとんだ恥をさらしまして……」

「まあ、そのお話はいずれ機会をみて、ということにしましょう。――で、いったいなにがあったんだね?」

 宮脇夫人をなだめると、悠一さんは一緒に病室へと入った三鷹支部のポニテ頭の少年が、慌ててズボンのポケットから手帳を取り出す。

「エー、目撃者の証言によりますと……。四時半すぎに、高校のある丘の上のから、ふもとの市道七号線の交差点へ続く細い道を、けたたましいベルを鳴らしながら下ってくる自転車があり、何事だろうとみているうちにハンドルが急に曲がって、ベーゴマのように回転しながら公園の生け垣へ突っ込んだ……ということです。自転車はそばのガードレールへ当たったために損壊が酷く、現在、翡翠ヶ丘署の鑑識班が必死に部品を探していますが、まだ全体の七割ほどしか発見されておりません」

 ポニテ頭の少年が手帳を閉じると、黙って報告を聞いていた悠一さんはため息をついてから、

「現状証拠を見る限りでは、単なる事故、ということになりそうですが――宮脇さん、お孫さんが何か、自転車の具合が悪いとか、そんなことをおっしゃってはいませんでしたか? どんな些細なことでも構わないのですが……」

「さあ、私は何とも……。息子たちなら、何か心当たりがあるかもしれませんが……」

 宮脇夫人のためらうような口ぶりに、ふと、千尋さんの時のように田谷京香の両親の姿がないことに気が付いた。

「たまたま、二人とも仕事の都合で出張中なんです。事情は伝えたので、今日中には着くと思うのですが……」

「息子さんはたしか、奥様と一緒に宝石のブローカーをなさっているのでしたね」

 悠一さんの問いに、宮脇夫人はええ、と力なく答える。どうやら、宮脇夫人の周辺に関する情報は一切合切、探偵社の手中にあるらしい。

「国内ならともかく、ともすると海外へ出ることもしょっちゅうでして、そのたびに、私と良人が面倒を見ておりますが……。監督不行き届きだったのでしょうか、あんなことを仕出かすなんて……」

 張りつめていた緊張がほどけてしまったのか、宮脇夫人は顔をうつむけてむせぶように泣き出した。下手に声をかけるのは逆効果だろうと悟ると、部屋に瀬尾さんと三鷹支部の少年を残して、僕たちは部屋を出た。

「――状況証拠を見る限りは事故、ということになりそうですが、自転車の部品が全部集まらないことには結論が出しにくいですね」

 人数まばらな病院の喫茶室で、セルフサービスのやかんに入った麦茶をすすりながら、僕たちは今しがた見聞きしたことを整理しだした。バラバラになってしまった自転車のことを提起すると、悠一さんは軽く咳払いをしてから、

「あくまで個人的な見解ですが……鈴置さんの自転車に細工を施した人間が、同じようなシチュエーションの下でこのような目に遭う、というのはいささか出来すぎているような気もしますね」

「ってえことは、誰かが田谷の自転車に……?」

弘之の質問に、代わりに猫目さんが答える。

「そういうことになりそうだが、問題は、その誰かが誰か、ってことだよな。俺ァ、ずっと今度の一件は田谷京香一人の仕業と思っていたが、関係者を一度総洗い直したほうがいいかもしれねえなあ。沼井さん、今ンとこの吹奏楽部の人数ってどんなもんですか?」

 手帳を取り出し、鉛筆を二、三度なめながらメモを取る猫目さんに、沼井さんは宙で指を動かしながら、学年ごとの人数と補欠要員の数をそらんじてゆく。ざっと一学年当たり二十人前後、合計すると六十数人の部員がいるということだった。

「でも、その中で千尋に恨みを持っていそうな人間が他にいるかと言われたら……よくわからないんですよね。なにせあの日の出来事は、部員によってはこの上なく喜ばしいことだったんですからね」

「喜ばしいこと――? いったい、なにがあったんですか。どうやら、あなたは僕たち探偵社の人間が触れられずに困っていた内部の事情をご存知らしい。お話ししていただけますか」

 おろしたての手帳を開き、細身のボールペンを紙へあてると、悠一さんは沼井さんから話を引き出し始めた。

「――あれは、千尋がクラリネットの副パート長をしていた同級生から誘われて、初めて部活の全体練習に顔をのぞかせたときでした。大沢先生が研修でいなくて、いつもよりちょっと和やかな空気になっていたこともあって、何人かのパート長の提案で、簡単な自己紹介をしてもらったんです。千尋、あなたあのとき、どんなことを言ったか覚えてる?」

 沼井さんの問いに、千尋さんは顎へ人差し指を当てて天井を見つめてから、

「――普通に名前を言ってから、好きな奏者のこととかを言ったり……。あとは、クラリネットの子たちにせがまれて、『鈴懸の径』を吹いたぐらいだったかしら」

 別段、なにか人の神経を逆なでするようなことがあったとも思えない。千尋さんの演奏を名刺代わりに受け取れたのだから、クラリネットのパートの子たちにとってはかなりラッキーだったような気さえする。

「実は、それがちょっとした問題になったのよ。ここ数年、どこの学校の吹奏楽部でも起きていることらしいんだけれど、この頃の新入部員って、千尋みたいにプロの奏者の演奏をほとんど知らないのよ。大抵が、物心ついた時から吹奏楽一筋っていう子か、『歓迎会で演奏している先輩たちの姿に憧れて入りました』っていうのが大半なの。当然、みんなブレイキーやマイルスなんて知らないから、気になってどんな人かを調べるけど、そこに待ち構えていたのは上級生にとっては非情な現実と、下級生にとってはすさまじいカルチャーショック、だったわけ」

「――上級生は自分の演奏の腕前がどのようなものかを容赦なく知らされる羽目になり、かたや、下級生たちは上級生の腕がえばっている割には大したことないと、プロの演奏を見て知ってしまった……というところでしょうか」

 悠一さんの言葉に、沼井さんはそういうことです、と推察を肯定してみせる。

「もともとジャズ好きだった私はどうとも思わなかったんですけど、他の人たちは大変でした。落ち込むだけならいざ知らず、自信喪失を通り越して退部届をしたためだす人もいて、崩壊寸前だったんです」

 その光景を目の当たりにしたせいか、沼井さんは過去の陰惨な思い出を語り終えたときの表情を顔いっぱいに浮かべてから、重いため息を一つついた。

「私の知らないところで、そんなことがあったのね……」

「しょうがないわ、あなただって、悪気があってやったわけじゃあないんだし……」

 落ち込む千尋さんをそっとなだめる沼井さんに、その様子を見守っていた猫目さんがそれで……? と切り出す。

「それで……そこから先はどんな風になったんですか」

「実は、そこから先は私もよくわからないんです。ちょうど、千尋が入部した直後にインフルエンザになって、長めに学校を休んでいたので……」

「――戻ってきたら千尋さんが見事なまでに村八分の対象になっていた、ってえわけかあ。探偵長ォ、こりゃあやはり、いけにえの羊にされたクチですかねえ」

 猫目さんの問いに、悠一さんは前かがみになって組んでいた腕をほどき、そう考えるのが妥当だろうねえ、と、けだるそうにつぶやいた。

「集団の結束を高めるために、同じ目的の元に対象を攻撃する……。一番原始的で、一番簡単で、なおかつ一番手っ取り早い方法によって、みごとに鈴置さんは吹奏楽部のいけにえとなってしまった――と、思われたが、現実は意外な方向へと転じることとなった」

「――それが、お嬢とオレたちとの出会いだったってわけですか」

 それまで黙ってお茶をすすっていた瀬尾さんが口を開くと、悠一さんは静かに頷いてみせてから、

「いったい、部活の首脳陣がどのような流れを考えていたかはわかりませんが、少なくとも、再起不能にまで追い込むという目算があった可能性は捨てきれないでしょうね。そうでなければ、テイルズ&フラッツへ加入したあとに、こんなことはしないでしょう」

「なるほどなあ……。いや、ある程度の事情は美咲から聞いちゃいたが、ますますもってとんでもない話だ、けしからん……」

「ただ、そうなってくるとますます、この一件が謎を帯びてくるんだよなあ。人を呪わば――ってな風に考えるのも釈然としねえし、仮に誰か、田谷を裏から操った人間がいたとしても、その目的が読めないしなあ……」

 猫目さんはやかんを手繰り寄せると、湯呑のへり目いっぱいにお茶を注いでから、それをひと息に飲み下してしまった。

「探偵長、これは恥を忍んで、また大沢顧問ンとこに顔を出してきたほうがいいかもしれませんね。今度は実害が出てるんですから、きっと向こうだって手ぶらで返すようなマネはしないでしょうや――」

 と、ひょうひょうとした口ぶりで猫目さんが話していたところへ、いきなり原さんがバネ仕掛けのように立ち上がったので、一座はシンと静まり返ってしまった。

「お嬢、大沢っていうのは、君と沼井さんの部活の顧問の名前かい」

「え、ええ……」

 途端に、立ち上がった時点で血の気の薄くなっていた原さんの顔から、壊れた体温計のように赤みが消えてゆくのが、端の方に座っていた僕にも分かった。

「や、山藤探偵、大沢という人の写真か何か、あなたお持ちじゃありませんか」

「え、ええ、確かここに……」

 原さんの動揺ぶりにやや引きながら、悠一さんが手帳に挟んでいた名刺判の写真を手渡すと、原さんは瀬尾さんと佐々木さんを呼び寄せ、食い入るように写真を見つめていた。が、やがて、

「こりゃあ、生き写しだぜ……」

「やっぱり、そう思うか?」

「ああ、これで同姓じゃあ、疑いようがねえや……」

 深い嘆きとともに原さんが大沢顧問の写真を返すと、悠一さんは間髪入れず、ご存じなのですか、と詰め寄る。

「――忘れようにも忘れられない、我々の罪の生き証人、とでも申しましょうか。山藤探偵、ひとつこの老いぼれの話を聞いてはもらえますまいか」

 力なく語る原さんの顔には、ここまでの人生の中の悲喜こもごもが詰まっているらしい、無数のしわが寄っていた。

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