③
はたして、二人の人物の意外な関係が白日の下に明らかとなったのは、それから三日後のことであった。
「どういうことだい山藤探偵、あの沼井さんと瀬尾のダンナが犯人とグルだってえのは……」
尋常ならざる事態の進展に、ふたたび新潟からのぼってきたU先生は、しきりに煙草をふかしながら悠一さんに食いつく。狭い分室の屋根は、紫煙のせいで明かりがうすぼんやりとしか見えない。
「そうっスよぉ、いったい、どういうことになってんのか、教えてくださいよぉ」
「山藤探偵、もったいぶらずに教えていただこうか。宮脇夫人と瀬尾義文氏、沼井美咲嬢はどうつながっているんだ」
脇に控えた弘之と金沢先生の懇願に負けて、悠一さんは袱紗包みにくるんだ「極秘資料」という仰々しいゴム判をついた書類の束を、一部ずつ手元へ配った。
「説明が終わったら、これは焼却します。――よろしいですか?」
いつになく切迫した表情の悠一さんに、思わず息をのむ。しばらくの静寂ののち、悠一さんは資料をめくり、一切を説明してくれた。
「まず、瀬尾義文という人は、バンマスの原さんいうところの『非常な遊び人』でした。さまざまな女性ファンと一夜の関係、爛れた仲になることはしばしばで、しょっちゅう雑誌の餌食になっていたそうです。――十二ページ目、見ていただけますか」
言葉に従って紙をたぐると、あまり上手くはない金髪女性の絵が表紙のいかにも下品な印象を与える写真が目に飛び込んできた。解説に「出典資料 『芸能ホープ』(ホープ社・刊)昭和三十二年五月号『楽壇ゴシップ大会』」とあることから、いわゆるゴシップ誌らしい。
いつだったかU先生が見せてくれたファンの乱痴気騒ぎの記事を見た時のそれに似た感情が沸き上がるのを覚えていると、U先生が感心した様子で、
「山藤探偵、よくこんなの見つけたねえ。この号は部数が少なくて、国会図書館でも現物がないっていうんで、すっかりあきらめてたんだよ」
「ちょっと特殊なルートがありましてね。――んで、肝心の記事なんですが、内容としては次のようなものなんです」
ここで悠一さんが語ってくれた記事は非常に長いものだったので、必要なことだけかいつまんでいうと、内容としては「某ジャズバンドのテナーサックス奏者某氏が、某良家の令嬢に惚れこまれて心中寸前までいった」という、某という字がやたらと目につく三文記事であった。
「某ジャズバンドというのが仮に、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったテイルズだとすると、某テナーサックス奏者というのは、サックスでは古株にあたる瀬尾さんで間違いないんじゃないだろうか。そう思った僕は、警視庁にかけあって古い取り調べ資料を探してみたんです。そうしたら、廃棄予定だったものの中からこんなものが出てきたんです」
それまで部屋の隅で黙りこくっていた猫目さんが、膝に抱えていた鞄の中から出席簿のような綴込み表紙の資料を出して、一座の集うテーブルの上へと叩きつけるように置いた。
「昭和三十二年四月に発生した『犬吠埼アベック自殺未遂事件』の資料です。管轄は本来ならば千葉県警ですが、当時、上層部とつながりのあったご令嬢の父親の依頼で警視庁が動いて、事件は報道されずに闇に葬られた……。好事家の間じゃあ有名な、概要だけが伝わってるヤマなんですが、その全容がこの中に載ってるわけです」
「で、ここに貼り付けてあった写真を見たときには、僕もさすがに驚きましたよ。人間、年齢を重ねても、元の顔からはそうそう変わらないものらしいですね……」
悠一さんが表紙をたぐり、二、三枚ほどめくってからとあるページで手を止めたとき、僕は思わず腰から崩れ落ちそうになってしまった。たしかに、何十年もの歳月がたっているとはいえ、元々の顔の輪郭やパーツはまるで変化がない。
そこに並んでいたのは黒々した七三わけの髪が目立つ瀬尾さんと、エムエル製紙のホームページにも載っていた宮脇総裁夫人の、まだ可憐な少女時代の写真であった。
「これで、宮脇夫人と瀬尾さんの関係はつながったわけか――」
腕を組んだまま、金沢先生は苦虫を嚙み潰したような目でじっと写真へ視線を落としている。
「まさか心中まで行った相手が、ファンクラブの書記だったとはなあ。ほかの人たち、知ってたんだろうか?」
「ひょっとすると、知らなかったかもしれませんよ。女性は結婚すると装いがまるっきり変わるし、なんたって名字が変わりますからね。旧姓だと二村晴美で、結婚すると宮脇晴美。そんなに珍しい名前ではないから、見過ごされても無理はないでしょう」
猫目さんの言葉には一理あった。上流階級に限った話ではないだろうが、結婚すると「だれそれさんの奥さん」という呼ばれ方が主になってしまうことを踏まえれば、無理のある説とも思えない。
「――んで、結局宮脇夫人の親父さんは、控えていた宮脇総裁との結婚前の汚辱をひた隠しにするべく、お偉いさんと取引をした、ってえわけか。となると、テイルズに対する口止め料も結構な額だったんじゃないかねえ」
煙草片手に資料を眺めるU先生に、その通りです、と悠一さんが付け加える。
「当時のお金で二百万円……。それが、テイルズ&フラッツに支払われた口止め料だったそうですよ」
いまいち額面が分からずに、金沢先生に今だとどのくらいの金額になるのか尋ねてみると、しばらく宙でそろばんをはじいてから、ざっと二億か、と事も無げにつぶやいたので、声を張ってしまった。
「に、二億円!」
「――健壱くん、宮脇総裁の岳父、二村一丸は、敗戦後の混乱期が生んだ、通称を『ブラックマーケットの皇帝』という財界のフィクサーだったんだ。いざなぎ景気の頃にあったエムエルの大増資には、この皇帝閣下の闇金庫が一役買ったという黒い話もあるぐらいでね……」
「要するに、そんだけの力の持ち主がウラにいたからこそ、この案件はつぶせたわけさ。んで? 沼井ちゃんとのつながりも、大方ホレたハレたの延長なんじゃねえの? 探偵長」
真新しい煙草に火をつけたU先生の顔をまじまじと覗き込むと、悠一さんは肩透かしを食ったような表情をしばらく浮かべていたから、推理小説をお書きになる方だけはありますね、と掛け値なしで褒めちぎった。
「まったく、その通りだったんです。ウッドベースの佐々木さんが教えてくださったんですが、瀬尾さんは去年の暮れに、長らく内縁関係だった女性と入籍をなさったんだそうです。それで、瀬尾さんにとっては息子さんにあたる方が婿養子で入った先が――」
「沼井という名字の家だった、ということかね」
金沢先生の問いに、悠一さんは黙って頭を縦に振る。すると、納得した様子で煙草をふかしていたU先生がカブリを振って、
「ちょ、ちょっと待て。そうなると、あの毒チョコ事件、あれもひょっとして……」
「まだハッキリとしたことはわかりませんが、どこか演出された箇所があるかもしれませんね。鈴置さんの苦手なチョコレートに毒が仕込まれて、もらい受けた瀬尾さんが当たってしまった……」
「――いわれてみると、ちょいと出来すぎてるなあ。本気で殺したいなら、好物にしこみそうなもんだが、今度のヤマは違った。妙だなあ……」
悠一さんの広げた波紋の中で、U先生は驚きもせず、ひたすらにその理由を推察している。やがて、指に挟んだ煙草の灰が音もなく崩れ落ちると、U先生はそっと手を合わせて、閉ざしていた口を開いた。
「――毒を仕込んだのは、沼井さんだったんじゃあねえか? そして、なんかのはずみで、瀬尾のダンナはそれを見ちまった。問い詰めて事情を知った瀬尾さんは、疑惑の矛先を遠ざけるべく、危険な役を買って出た……」
「おそらく、それで間違いないと思います。ただ、そういう行動を起こすに至った発端が、推察の域を出ないのです。心苦しいですがやはり――」
「――本人呼びつけて、問いただすしかないわなあ」
それきり黙り込んだまま対峙する悠一さんとU先生に、僕と弘之、金沢先生は妙な感情を抱いた。それは、披露された推察がことごとく一致していたことへの感動の念も何割かはあったのだろうが、それ以上に、まったく違う種類の人間だと思い込んでいた二人が、根柢の部分でまったく同じ要素をはらんでいたことに対する驚きのほうが勝っていたようだった。
そして一晩が過ぎ、テイルズの面々に連れ添われて探偵社を訪れた瀬尾さんと沼井さんは、「聞き取り中につき立ち入りを禁ず」という物々しい紙の貼られた部屋へと消えていった。そんな二人の戻ってくるのを、僕たちは千尋さんや原さん、佐々木さんたちと一緒に応接室で待ち構えていた。
「高津さん、いったい、どこまでご存じなんですか」
それまで石像のように微動だにしなかった千尋さんが、閉ざしていた口を開く。事情を知っている僕と弘之は、ひたすらに気まずいのをこらえて、いいえ……と返す。
「きみ、お嬢の前で嘘はつかないほうがいいぜ。うちにトランペットの戸倉ってのがいるんだが、こないだ差し入れの羊羹をつまみ食いしたのを隠し通して、しばらくお嬢から口をきいてもらえなかったんだ。となると……」
佐々木さんのいたずらっぽい口調に、その手には乗るものか、と眉毛をひくつかせていると、今までずっとオランダ葉巻をふかしていた原さんがおもむろに、
「ま、瀬尾のやつのことだ、どうせろくでもないことには違いあるまい。最悪の場合はウチも世間様に頭を下げて解散、ってとこかな……?」
「ちょ、ちょっと、それはさすがに……!」
従姉妹の顔を伺いながら益美がたじろぐ。が、肝心の千尋さんは目線をオランダ葉巻の吸いさしが転がっている灰皿へ向けたまま、一言も発しない。
そんな状態がかれこれ一時間半ばかり続いたころ、部屋の隅に置かれた黒電話が静寂を破るようにうなりだした。
「健壱、出てくれよ」
交代で来ていた探偵社の社員がちょうどいないタイミングだったことも手伝い、渋々受話器を取ると、猫目さんの声が飛び込んできた。今からこちらに向かうから待っていてほしい、ということだった。
「みなさん、もうじき悠一さんが戻ってらっしゃいます。説明も、あると思いますが……」
待っていました、とばかりに、気の早いテイルズ&フラッツの面々はソファから離れ、じっと樫の木のドアを見つめる。遠くでエレベーターの止まる音がし、乾いた足元を踏み鳴らす靴音が少しずつ迫ってくる。
「――みなさん、お待たせしました」
悠一さんを先頭に、沼井さん、瀬尾さん、猫目さんと仁科さんが応接間へと姿を現し、それまでの緩慢とした空気が一気に張り詰めるのが分かった。
「山藤探偵、いったい、うちの瀬尾が何をしたというのです――」
「ここにいらっしゃる沼井美咲さんとの共同で行われた、狂言殺人です」
間髪入れない悠一さんの返答に、原さんや佐々木さん、むろん、千尋さんの目が凍り付く。
「ざっと解説しますとね、あの日日比谷公会堂であった事件はある女が沼井さんを脅し、それを知った瀬尾さんとの華麗なるチームプレイによって行われたオシバイだったわけですよ」
汗で形の崩れかけた開襟シャツのカラーを指で直しながら、猫目さんがけだるそうに語る。
「で、でも、いったいどうして瀬尾やんがこの子に……!」
反論しようとした佐々木さんは指を出しかけて、何か思うところがあったのか、慌てて腕をひっこめた。
「おい瀬尾やん、もしかして、カコちゃんとこの孫ってのは――この子なのかい」
内縁関係にあった女性との入籍、という話に覚えがあった佐々木さんは、すっかり青くなって沼井さんを見つめている。どうやら、沼井さんにとって祖母にあたるカコちゃん、という人の若いころの面影が彼女の顔にはあるらしい。
「そういうことだ。――お嬢、みんな、黙っててすまなかったなあ」
「美咲、本当なの」
千尋さんの問いに、うつむいて絨毯に目を落としていた沼井さんは、大粒の涙を流して、嗚咽交じりにそうなの……と答えた。
「隠すつもりはなかったんだけど、あんなことがあったせいで、言うに言えなくなっちゃったの……」
「あんなことって、何があったの」
感情をあらわにする沼井さんをなだめながら座らせると、千尋さんは悠一さんと猫目さんの方へ頭を向けて、説明していただけますか、と頼んだ。
「――ざっくり言うと、沼井さんは部費横領の疑いをかけられて、それを知った田谷の言いなりになってたんだ」
「横領、ですって――」
驚愕する千尋さんに、いくらか落ち着きを戻したらしい沼井さんが付け加える。
「田谷さんから頼まれて、一晩だけ部費の入った手提げ金庫をロッカーに預かったの。それで、次の日になって渡したら、放課後に呼びつけられて問い詰められたの。『先生から預かった、楽譜の追加注文料を入れていた封筒が入っていない。どこへやったの』って」
「もちろん、手は付けてないわよね?」
心苦しそうに話を聞く千尋さんに、沼井さんは再び目元をにじませながら、
「金庫のダイヤルには一度だって触れてない。用事がないんだもの、開けるわけないじゃない」
「そうね……嫌なこと聞いちゃってごめんなさい。で、美咲はちゃんと、田谷さんに反論したのよね?」
いつの間にか、千尋さんの膝の上にうつぶせになって泣きはらしている沼井さんは、ひょいと顔を上げて、そうだったんだけど……と、力なく声を上げる。
「そうだったんだけど、『じゃあ、いったいどこにお金は消えたの? あなたのほかに、あの手提げ金庫に触れるチャンスがあった人間はいないのよ。あなた以外には考えられない。みんなのためのお金を何に使ったの、白状しなさい』って、矢継ぎ早に攻められてるうちに、怖くなって……」
「彼女はとうとう、覚えがない罪を認めてしまったわけです」
仁科さんの捕捉に、沼井さんは申し訳なそうな目を千尋さんに向ける。
「それで、『このことを先生や警察に言われたくなかったら、あたしに協力しなさい。あの生意気なクラリネット吹きをいたぶってやるから』って言われて……」
クラリネット吹き、という言葉に、それまで沈黙を保っていた佐々木さんが顔面蒼白になって、人差し指を沼井さんへわななくように伸ばす。
「ま、まさか、瀬尾やんの当たったモロトフの毒は――君が仕掛けたのかい」
「――そうです。わたしが田谷から渡された道具を使って、チョコレートに青酸カリを入れたんです」
沼井美咲の告白は、その場にいた関係者から冷静さを奪うには十分すぎる威力を持っていた。大なり小なりありそうな抗議の声や嘆きの言葉が何一つとして出ない、一幅の風景画のような光景がそこには繰り広げられていた。
もっとも、その静けさを破るように佐々木さんが瀬尾さんの胸ぐらをつかんだのにはもっと肝を冷やしたが――。
「瀬尾ッ、貴様どういうつもりだ! なんで孫の凶事に加担したんだっ! どうして止めなかった!」
「――俺はなあ、全部の罪をひっかぶるつもりだったんだっ」
腕をはねのけられた反動で、佐々木さんが絨毯の上に転がり落ちると、瀬尾さんはシャツの襟元を緩めてから、真一文字に結んだ唇をそっと開いた。
「長えことほったらかしにしてた倅と世間並みの親子関係になって、かわいい孫も出来た。ところがどうだい、倅ンとこに遊びに行って、プレゼント片手にこの子の部屋へ行ったら……」
そこまでどうにか威勢のよさを保っていた瀬尾さんは、目から大粒の涙を垂らして、頬をひくつかせる。
「運悪く、瀬尾さんは沼井さんがチョコレートに毒を仕込んでいるところへ出くわしてしまったのですよ。もともと電気工をなさっていて、部品のメッキに使う青酸カリのにおいをご存じだった瀬尾さんは、自分の孫がとんでもないことをしようとしているのに感づいて、問い詰めた。ところが、孫娘が標的としようとしていた相手が自分たちの新たな仲間となった鈴置さんであること。そして、孫を凶行へと追いやった相手が因縁多からぬ人物の孫であることを知って、瀬尾さんは非常に苦しまれました。そうでしたね、瀬尾さん?」
悠一さんの問いかけに、瀬尾さんは鼻をすすりながら返す。
「――驚いたねえ、一緒に死のうと誓うまでの仲になった相手の孫だったなんて。その話を聞いたとき、俺ァなんだか、今までさんざん女を弄んだ罰が当たったんじゃねえかと思ったよ。自分が酷い目に合うんじゃあねえで、孫同士がいがみあって、人殺しのまねごとをしようなんて……考えられるかい」
「普通は思いませんよ。そりゃあ、無理ない話です……」
ポケットに手を突っ込んだままやりとりを眺めていた猫目さんがぼそりとつぶやく。
「カコと正式な夫婦になってしばらくしてから、何十年かぶりにハルちゃんから連絡があったんだ。『良人がしばらく留守にするから、遊びに来ないか』って。今更そんなこともねえだろうと思ってノコノコ出てったら、なんて言ったと思う?
『ヨシさん、家族っていいものよ。子供はもちろん可愛いけど、孫はもっと可愛いものなの。今まで会えなかった分、ちゃんと可愛がってあげるのよ』って……。その時に見せてもらった家族写真の中にいたのが、後々、美咲に因縁をつけたムスメだったってわけさ。
それを聞いたときは、まァ驚いたね。男くさいところに入ってきたお嬢が恨みを買ってるなんて……てェのもあったが、それよりも、可愛い孫をいたぶった悪党を殺してやりたいってえ気持ちが強かった。けどよお、ちょいと落ち着いて考えてみたら、これを知ったらハルちゃんはきっと悲しむだろう、ってえことのに気づいたんだ。
だってそうだろう、可愛い孫が前科モンになっちまうんだから……。
結局、さんざ迷ってから、俺はハルちゃんに一切合切を打ち明けたよ。ハルちゃん、電話越しに泣いてたよ……」
「――そしてそこから、鈴置さんを田谷さんの魔の手から守るための狂言が幕を開けたのです。鈴置さんの苦手なモロトフへ毒を仕込んで、それが差し入れのボックスの中へ入るように仕向けると、瀬尾さんはさも偶然を装ってチョコレートをあおった。もちろん、毒は致死量以下にはしてあったのですが、ここで思いがけない人物の登場が、事態をより複雑にしてしまいました」
「U先生と金沢先生のことですね」
悠一さんの話を聞いていた千尋さんが、あの日の二人の大活躍を思い出して感慨深そうに瞳を光らせる。
「千尋さんの従姉妹である白石さんやその連れが楽屋へやってくるところまでは計算済みだったのでしょうが、まさか、隣の席にいた流行作家と探偵小説家までくっついてくるとは思わなかったでしょうね」
「あの二人にゃあ参ったねえ。たちどころに解毒をしてもらって、おかげで生き残っちまいやがった。――美咲、オレは最悪、お前たち二人のことは墓場へ持ってゆこうと思っていたんだ。すまなかったな……」
思いがけない告白に、沼井さんはしばらく戸惑いながら瀬尾さんを見つめていたが、やがて駆け寄って胸元へ顔をうずめると、小さな声でバカ、バカ……と呟きだした。
「んで、そこから先はなかなかなモンさ。こっちが大沢顧問相手にタンカ切ったせいで動けないのをヨソに、宮脇夫人も協力しての物証集めさ。宮脇夫人は、確たる証拠がそろった暁には孫を警察へ突き出すつもりだったらしい。しかし、まさかあのキジ羽根の大冒険が夫人の仕組んだことだとは思わなかったなァ」
「ど、どういうことですか、それ」
猫目さんの落とした爆弾に食いつくと、猫目さんは尻ポケットへさしてあった扇子を片手で開いて、襟元へ風を送り込みながら、
「田谷がリードの手入れにキジの羽根を使ってるのを知ってんのは、関係者じゃあおぼろげな記憶を持ってる千尋さんと沼井さんだけだが、なんと宮脇夫人もこん中に入ってくるんだよ。なんせ、昔瀬尾さんから聞いて、高くはつくが非常に便利なモンだと教えた張本人なんだから……」
「――あの羽根の混入は宮脇夫人の提案だったんですか」
「そういうこと。もっとも、孫本人の使ってるのは手に入んなかったから、押し入れにくすぶってた剥製の羽根を使ったらしいがね。考えてもみなよ、ナフタリンくさい羽根で、口に含むモンの手入れができるかい? どうやら、ゆくゆくオレたち探偵社やその別働部隊が動き出すとにらんで、いつでも手に入るような場所へあの剥製を飾ったらしい。出来すぎてるなぁ、とは思ったんだよ……」
ひとしきり話し終えると、猫目さんは扇子を指先で畳み、宙で一回転させてから胸ポケットへと押し込んだ。
「つまり、ずっとオレらはあの総裁夫人の手のひらでオドらされてたってわけさ。おかげでメンツ、丸つぶれだあ」
「だが、その代わりに僕たちは、事件の深層部へと一歩踏み込むことができたわけです。ここにいらっしゃるお二人の証言がある以上、あとは物的証拠さえそろえば――」
「――田谷京香を殺人教唆、および殺人未遂のかどで立件することが出来るってえ寸法さ。公会堂で起きたヤマも、翡翠ヶ丘で起きた自転車のヤマも、きれいに解決、ってわけだ」
自信たっぷりに言うと、猫目さんは隣に並んだ悠一さんの顔を覗き込んでにやり、と口元を動かす。
「そこでひとつ、沼井さんにお願いがあるのです。どうにかして、田谷さんの指紋を手に入れてもらえませんか」
「指紋、ですか……?」
悠一さんの突然の頼みに、沼井さんの顔はあわただしく変化する。
「彼女の指紋と自転車のブレーキに付着していた指紋が一致すれば、まず確実に、殺人未遂で引っ張ることは可能です。そこから、余罪として毒殺未遂の件も洗えるとは思うのですが……」
誰かを校内に潜り込ませることが難しいのを思えば、彼女に頼むよりほかに方法はないのだろう。だが、沼井さんは額に汗をにじませたきり、彫像のように固まっている。しかし、ほどなくして彼女のだらりと下がった右手がそっと宙に上がったかと思うと、
「わかりました。罪滅ぼし、って言うにはちょっと軽いかもしれませんけれど……」
「引き受けてくださいますか」
「ええ、もちろんです」
落ち着き払った態度で悠一さんに返事をすると、沼井さんは千尋さんのほうへ向き直る。
「――千尋、あなたの心を裏切った分は、裏切りで落とし前をつけてくるわ。それで赦してほしい、なんておこがましいことは思わないけれども……」
「美咲、もういいのよ。あなたのせいじゃないんだから」
「……千尋!」
胸元へ飛び込み、再び目元を緩ませて肩を揺らす沼井さんを、千尋さんは子供をあやすようにそっと抱き留め、頭をなでるのだった。
その数日後、沼井さんの活躍によってもたらされた田谷京香の指紋が、科警研によって行われた慎重な照合の末、ブレーキのネジに付着していた指紋と同一のものと見て間違いないという鑑定結果がはじきだされた。
この鑑定をもとに、関刑事と墨山警部補を通して作成の依頼がなされた捜査令状と逮捕状を受け取ると、悠一さんと猫目さんは両刑事を伴い、翡翠ヶ丘の田谷家へと向かったのだが、その道中でもたらされたある情報のせいで、二通の公文書は一瞬にして紙くずとなってしまった。
それは、ブレーキ不良を起こした自転車ごと、田谷京香が坂を転げ落ちて昏睡状態に陥ってしまったという知らせであった。




