①
明けた土曜日の午後、無事に帰宅を果たした千尋さんに招かれて彼女の家を訪ねた僕たちは、豪勢な庭のついた、大正末期の洋館のような鈴置邸に圧倒されながら、益美のあとについて門をくぐった。
「翡翠ヶ丘に開発が始まる前に、おじさんが土地の安さとかに目をつけて家を建てたのよ。そしたらまさかまさか、学校の招聘が始まっちゃって……」
そのあたりの事情を知らなかった僕や弘之は赤レンガを眺めながら、先見の明のあった千尋さんの父親にもまた圧倒されるはめになった。
「なるほど、一山アテたわけだな。――こんだけの家、ぜひとも住んでみたいねえ」
「バカ、お前みたいな遊び人はそういう固定資産と無縁だろうが。言ってて恥ずかしくないのかね、お前は……」
千尋さんの身を案じてはるばる新潟からやってきたU先生は、いつものように金沢先生と丁々発止のやり取りを繰り広げている。なんとものどかな、平和の象徴のような風景である。
「すごいんですよ、チー姉ェ。自分の部屋とは別に、オーディオルームを作ってもらったんだから。いつも、そこでクラリネットとか、息抜きにジャズピアノを弾いてるんですよ」
「――聞いたかU、これがお嬢様の暮らしだよ」
「――逆立ちしてもピアノは無理だな。せいぜいガシャポンのおもちゃがいいとこだ」
そんなやりとりを経て、玄関先で出迎えてくれた千尋さんと一緒に応接間へ向かうと、U先生が開口一番、
「元気そうで安心しました。金沢から聞いたときはどうなることかと思ったけど……うん、よかったよかった」
「ご心配をおかけしました。もう、月曜日からは学校に行っても問題ないそうです。ただ、大事をとって水泳の授業だけはお休みしたほうがいいって言われてるんです」
「水泳? まだ五月の後半だぜ、寒くないの?」
「うちの学校、屋内プールなんです。選択制の授業で選んだのがたまたま水泳で……」
「はあ、なあるほど……」
ますますのお嬢様ぶり――というよりは学校の設備のよさなのだろうけれど――に驚くU先生をしり目に、千尋さんは益美とガールズ・トークへ花を咲かせ、弘之は金沢先生に「トモエ御前」の感想を熱っぽく語っている。いつも通りで何の変哲もなく、非常に気ままなものである。
「――で、どうなの」
急に、右隣からU先生が声をかけてきたので、何がです? と、相手に合わせて小声で尋ねると、
「例の自転車だよ。銀座の探偵社に電話をしたんだが、受話器越しに追い返されてしまってなあ」
「え、それ、本当ですか」
きちんと状況報告を送ってくれるイメージしかなかっただけに、U先生の言葉はにわかには信じがたかったが、あの日いつの間にか行方をくらませたきり、一晩経っても何の連絡もよこさないことを思うと、なにか重大な発見があったのではなかろうか……と、勝手な想像が頭に浮かぶ。
「――健壱ぃ、先生ィ、オーディオルームにいきますよお」
気が付くと、みんなは応接間の入り口に立って僕と先生の来るのを今や遅しと待ちかまえている。慌てて立ち上がり、ひとまずこの話はいずれ……ということになった。
件のオーディオルームは、三十畳ほどの広さの豪勢な空間だった。どうやら丸々すべてが千尋さんのもの、というわけではないらしく、かっちりとした字で「父の。」と書かれた付箋のおどるCDラックやLPレコード、ジャズの評論集の詰まった書架が父娘ともに同じくらいの面積で並んでいる。
「金沢っ、ここの音響、みんなW・Eだぜっ」
見ると、据え付けられたスピーカー、アンプリファイヤー、ターンテーブルに、鈍く輝く「WESTERN ELECTRIC」という文字が躍っている。よくはわからないが、どうやらそうそう簡単に手が届くものでないらしいことは雰囲気でわかった。
「U先生、なんなんスか、ウェスタンなんちゃらって」
「――ウエスタン・エレクトリックってえのはねえ、ハマるとこの家が二、三軒建つようなとーんでもないヴィンテージオーディオの一ジャンルなのよ。たぶん、そこのスピーカー一つの値段で車が買えるぜ」
アップライトのピアノの左右を挟むようにしてそそり立つ、四角く口を開けたラッパ型のスピーカーの価値を知るや、弘之は引きつったような悲鳴を上げてのけぞった。
「これ、そんなに高級なものだったんですか? 音がいいなあ、とは思ってましたけど」
ターンテーブルのそばでLPレコードの支度をしていた千尋さんが、不思議そうな目で僕たちとスピーカーを交互に見つめる。いったい、いつからこのウェスタンの一式がこの家にあるのかはわからないが、当たり前のように身近にあると却って関心が湧かないものなのかもしれない。
「そりゃあそうさ、天下のウェスタンなんだもの。これとおんなじモンは二度と作れないだろうなあ。古き良き時代のシロモノだよ……」
千尋さんが慣れた手つきでターンテーブルにレコードをのせ、ピックアップを落とすのを横目で眺めていると、先にソファへ腰を下ろしていた金沢先生とU先生がしきりに手を招く。慌てて両隣へ座り込むと、スピーカーからピアノの軽快なリズムと吐息のようなトランペットが部屋いっぱいに飛び出した。
「――『モーニン』かあ」
「――いいねえ」
それきり口をつぐむと、U先生と金沢先生は目をつむったまま体を揺らし、ソファのベルベットの上でそっと小指でリズムを刻みだした。これが正しい楽しみ方かどうかはわからないが、直立不動で楽しむのが正解とは思えなかった。にしても、なんと心地い音なのだろう。激しく、また、ゆったりとのたくるオタマジャクシが、体を撫でるように動き回る。
――これも、ジャズなんだなあ。
公会堂で見たテイルズのようなビッグバンドスタイルとはまた違った味わいに、僕は抵抗一つ覚えず、
すんなりと身を沈めていった。
片面が終わり、運ばれてきた紅茶でゆったりとティータイムと洒落こんでいると、金沢先生が千尋さんに、一曲弾いてみてくれない? とアップライトを指さした。
「じゃあ、なにかリクエストをいただけますか? 大体の曲ならソラで弾けますから……」
すると、それを見ていたU先生が何か思いついたのか、にやついた笑みを浮かべながら、
「ほんとかい。よし、そいじゃあ一つ、メドレーでやってもらおうかな」
結城紬の袖を揺らしながら、どこかいじわるく笑うU先生をよそに、千尋さんは長い髪をゴムで一本にまとめてから、アップライトの鍵盤カバーを引き上げた。
「ほいじゃあ、頼むぜ。『危険な関係』」
この前の演奏会でもかかった、耳なじみのあるメロディが響き渡る。やや駆け足な、行進曲タッチの弾き方である。
「――『セントルイスブルース』」
交代に金沢先生がデキシーランド・ジャズの有名どころを頼むと、まるでクロス・フェードでもかけたようにきれいに、「危険な関係」と「セントルイスブルース」が入れ替わった。
「――『シング・シング・シング』」
千尋さんの指はもつれもせずに、見事に「シング・シング・シング」へと鍵盤をつないでみせる。
「――『鈴懸の径』!」
「――『嵐を呼ぶ男』!」
「――『タイガー・ラグ』!」
「――『聖者の行進』!」
「――『東京節』!」
「――『夜空の星』!」
とうとうジャズではない曲まで飛び交いだしたが、それでも千尋さんはソツなく、一音もトチることなくペダルを揺らしながらピアノをかき鳴らしている。
「お見それをいたしました。――チンチロリンのカックン、で」
テンテケテンテン、テンテン、と、でも表したほうがよさそうな弾き口で手を止め、椅子ごとこちらへ向き直ると、千尋さんは仰々しくお辞儀をして見せた。
「いやいや、こいつは本物だ。きみ、クラリネットと兼任で平成のビッグ・フォアが作れるんでないの?」
U先生が、かつて存在した日本のジャズ・カルテットの名前を引き合いに出すと、千尋さんは気恥ずかしそうに、中村八大先生だなんて恐れ多いですよぉ、と謙遜してみせる。
「なあに、テナーサックスの沼井美咲嬢がいるんだ、あとはドラムとベースがみつかりゃ、娘ビッグ・フォアの誕生よぉ」
「バカ、娘義太夫じゃねえんだぞ。そんなジジ臭い言い回しだからハヤんないんだよ」
「なんだとぉ!」
再び始まった二人の小競り合いに、その場にどっと笑いが巻き起こった。
ほんとうに、どこまでも平和の象徴のような人たちだ――。




