⑤
鑑定結果
本試料が先の事件現場より採取された羽毛と完全一致したことをここに通達する。
科学警察研究所
「なあるほど、ドンピシャリだったわけか」
「冒険した甲斐がありましたね、先生」
数日経って、放課後に銀座の探偵社に呼び出された僕と金沢先生は、悠一さんから見せられた科警研の報告書の冒頭文を見て、うれしい半面、複雑な気持ちに浸っていた。
「これでとうとう、田谷京香に令状が出るわけか。鈴置くんも枕を高くして眠れるだろうよ」
露だらけになったグラスを手にして、悠々とアイスコーヒーをすする金沢先生は、心なしか勝ち誇ったような表情を浮かべている。ところが、
「それがねえ、却ってややっこしいことになっちゃってるんですよこれが」
「ややこしいこと……?」
猫目さんの言葉に、金沢先生の顔が梅雨空のような色を帯びだす。
「考えてみてくださいよ、あの一つ屋根の下に二人の人間がいるわけですよ? テイルズのファンクラブ会員と、翡翠ヶ丘高校吹奏楽部員が……」
「――しまった、逆にややこしくなっちまうのか」
「犯人につながる物証だと思ったんですが、どうやら、逆に遠ざかってしまったようです」
悠一さんの至極冷静な顔に、金沢先生は盛大な溜息を一つつく。千尋さんに恨みを抱く吹奏楽部員の仕業、という説の信法者であったがゆえ、といえば聞こえはいいが、私立探偵・山藤悠一からすれば、先入観ほど推理を曇らせるものはないのだから、あまり良いものではないのだろう。
「ひとまず、翡翠ヶ丘に近い地域の支部員を千尋さんの周辺、あとは銀座本部を含めた最寄りのメンツを宮脇夫人の近辺にばらまいています。何かしら反応があると思うんですが……」
と、悠一さんがそこまで言いかけたところへ、間隔の開いたベルの音が飛び込んできた。交換室を経ている電話の合図である。
「探偵長、僕がとりますよ。――はい、こちら探偵長室。え、三鷹から? つないでくれる?」
何か動きがあったのか、送話口を手で覆って悠一さんへ渡すと、猫目さんはそっと僕の隣へ腰を下ろした。
「はい、銀座本部です。――ふん、ふん。えっ、本当かい。で、怪我のほうは……なるほど、わかった。で、ご本人はどこに……わかった、すぐにそっちに行きます」
電話を置くと、悠一さんは手のひらの汗をハンカチで拭って、
「いま、三鷹支部から電話があったんだが、鈴置さんが自転車ごと転げ落ちたらしい」
「じ、自転車ごと! で、怪我は?」
金沢先生が食い気味に尋ねる。
「かすり傷程度なんですが、念のためCTを撮ることになったそうです。翡翠ヶ丘の第二赤十字病院にいるようですから、これからそっちに行きましょう」
「なるほど……。で、ときに山藤探偵。――彼女の乗ってた自転車は?」
何を言っているのだろう、と一瞬固まったが、じきにある結論に達して僕は悪寒のするのが分かった。
――単なる事故ではなく、誰かに仕組まれたものなんじゃないのか?
瀬尾さんの一件を思うと、どうしてもそう思わずにはいられない。
「いちおう、最寄りの警察署に引き渡して、細部を調べてもらっています。なにかあれば、すぐに連絡が来ると思いますが……」
「わかった。さ、こうしちゃいられない、早いところ鈴置さんの所へ行こう」
空気を払しょくするように明るくふるまうと、金沢先生は外を通りかかった社員を捕まえて、車を出してもらうように頼んだ。
首都高から降り、一時間ほどで翡翠ヶ丘の第二赤十字病院へたどり着くと、知らせを聞きつけた益美と弘之、沼井さんが玄関先のベンチに並んで座っていた。
「益美っ、千尋さんは……?」
「意識ははっきりしてるんだけど、念のためにCTを撮ってるとこ。いま、それを待ってるのよ」
事態の悪化がなかったことに胸をなでおろすと、僕は悠一さんたちが成城支部の人たちと話しているところへ耳をそばだてた。
「――鈴置さんが自転車で校門を出たのに合わせて、僕たちが車を出した途端に、坂道で自転車が急加速しだしたんです。慌てて追いかけたら、ふもとの屋敷の生け垣に鈴置さんが投げ出されるような形で倒れていて……」
「――そうなると、やはりブレーキに何か細工がしてあった可能性は否めないわけか」
「可能性はありますが、実物を見てみないことにはなんとも……」
益美や弘之が千尋さんのことが気がかりで聞いていないからいいようなものの、なんとも衝撃的な内容であった。これを踏まえると、やはりクラリネット奏者・鈴置千尋をつけ狙っているのは吹奏楽部の誰か、ということになるのだろうか……
そんなことを考えているところへ、表でタクシーの止まった音がするとともに、白髪の老紳士たちが大挙して僕たちのそばへとやってきた。テイルズ&フラッツのメンバーたちである。
「山藤探偵、お嬢は……?」
バンドリーダーの原さんが心配そうに尋ねてきたが、悠一さんからの報告を受けて、ほっと胸をなでおろしたようだった。
「で、いったい何が起こったのです。まさか……」
「いや、まだ結論は出せません。可能性がないわけではありませんが……」
ただでさえ重苦しい空気が、関係者の増えたせいでますます重くなる。と、そこへ長い廊下の奥から、ストレッチャーのタイヤが転がる音と、消毒薬の鼻を突くような香りが近寄ってきた。見れば、入院患者用の浴衣に身を包んだ千尋さんが、そっと頭を上げてこちらの様子を伺っている。その後ろからはご両親らしい二人と、白衣をなびかせながら疲れ切った表情を見せる担当医がのっそりと着いてきている。
「お嬢!」
「チー姉ェ!」
益美やテイルズのメンバーがストレッチャーを取り囲むと、黒縁メガネの医師がそれを制して、
「いちおう、脳内出血などは認められませんでしたが、様子を見て今夜一晩病院で過ごされるのが吉かと存じます。部屋に戻られてからの面会は自由ですが、他の方のご迷惑になりませんようにだけ……」
それだけ言い残して看護師へ何かを伝えると、担当医は自分の部屋へ、ストレッチャーはエレベーターホールのほうへと動き出す。一言かわすだけの余裕もなかったが、千尋さんがこちらへ顔を向けてそっと手を振るのを見ると、それまで張りつめていた一切が崩れ去り、すっかり力が抜けてしまった。
三十分ほどして、部屋の支度が済んだことを知らされると、僕たちは病棟の奥にある、千尋さんのいる個室へと足を踏み入れた。まだ情報がごく一部にしか出回っていないせいか、枕元に置いてあるのは探偵社とテイルズから差し入れられた果物かごと花束だけという、ごくさっぱりとした装いであった。
「ひとまず、無事で安心したよ。傷は痛むかい?」
来る途中に買ってきたアイスクリームを冷蔵庫へしまいながら金沢先生が聞くと、千尋さんはちょっと膝を擦りむいただけですよ、と恥ずかしそうにつぶやく。
「しかし驚いたなあ。なんせ、瀬尾やんの一件があったから、俺アまたてっきり……」
ウッドベースの佐々木さんが崩れた髪を指先で整えながら言うと、周りが口々に縁起でもない、とか、まだわかんねえだろうがよお、と次々に佐々木さんへ苦言を投げつけだしたが、待って、という千尋さんの呼びかけで、ぴたりと止んでしまった。
「実はあの自転車、三日前にブレーキの様子を見てもらったばっかりなんです。もしかしたら、単なる整備不良ってこともありそうですし……」
「なに、整備不良! それはますますけしからんな。オイ瀬尾やん、今度からお前が代わりに見てやれよ、おめえ整備工あがりだろう」
「おいおい八っつあん、だいいち瀬尾やんは電気工だぜ。それに、奴さん今日は病院だぜ。この前から腹の具合が悪いんだとよ。そろそろお迎えが来るんじゃねえのかア?」
「なあに、あいつなら大丈夫だろうよ。こないだ、ようやっと孫の顔が拝めたとか言ってたんだぜ? 当分は孫の成長を見守るから、死ねはしないって言ってたんだから、あと数十年は生きてるだろうよ」
「おいおい、それじゃあ妖怪だぜ、妖怪テナーサックス吹き、かあ。……傑作だな!」
メンバー同士の与太で、初めて瀬尾さんがいないことに気づく。単純に年のせいなのか、それとも公会堂で盛られた毒が悪影響を及ぼしだしたのだろうか……?
「みなさん、娘のために、ありがとうございます。ほんとうに、ご心配をおかけしまして……」
銀行員だという千尋さんの父親が、テイルズのメンバーに頭を下げる。だが、彼らは嫌な顔一つせずに、
「なあに、生きてりゃ転びもしますよ。それよりお嬢、命に別条がなくって良かった良かった。また学校に戻ったら、今度はローテーション決めてオレたちが迎えに行くからよお」
「ご親切にしていただいて……ありがとうございます」
上品な物腰の母親がお礼を言うと、千尋さんはどこか気恥ずかしそうに、年上の仲間たちの厚意を受け取っている様子だった。
ひとしきり世間話や今後の動きを話し合って、そろそろ病院を出ようとしたころになって、僕はいつの間にか、部屋の中から悠一さんと猫目さん、ここまで車を回してくれた社員の男の子の姿が消えていることに気づいた。
「あれっ、探偵長はどちらに?」
そばに立っていた三鷹支部の、後ろで髪をポニーテールに結わえている男の子へ行方を聞くと、彼はあっさりと、
「ああ、探偵長と猫目さんなら、急用ができたといって、さっき出ていかれましたよ。高津さんと金沢先生は僕たちがお送りしますので、ご安心を。――わ、いいんですか、果物いただいちゃって……」
大量の果物かごの中身をおすそわけする、ということになったのを見つけた彼は、話をはしょってベッドのほうへ駆け寄ってしまった。
「どうかしたのかい、高津くん」
切り分けたマスカットの房を僕の手のひらへのせながら、金沢先生が不思議そうな目でこちらを覗き込む。
「それが、悠一さんたちがいなくって……」
「そういやァ、沼井さんと話してた時に視界のはじっこに出ていくのを見たっけなあ。便所でも行くのかなあ、と思ったけど、違うの?」
のんきにマスカットをしゃぶる金沢先生に事情を打ち明けると、先生は大粒のブドウをろくに噛みもしないまま飲み込んで、
「なんか妙だねえ。ちょっとぐらい断っていきそうなもんだけれど……」
「でしょう? ――やっぱり、なんかおかしなところが見つかったんですかね」
「そうかねえ、そんならあのポニテ小僧も一緒にいなくなりそうなもんだがなあ」
小ぶりのリンゴを自分のナイフで剥いている彼を見るに、そんな緊迫した様子は感じられない。この事件とは違う件で進展でもあったのだろうか?
――まあ、今度会った時に聞いてみよう。
考えてもどうしようもないと悟ると、僕はもらったマスカットの皮をそっと剥がしだした。




