④
それから数日、まるで動きもないままに日常が過ぎていった。益美は益美で、千尋さんのことは沼井さんに任せっきりで観劇に熱を上げているし、旅館暮らしに飽きたU先生は、いったん住まいのある新潟へと戻ってしまい、あとには調査でかかりきりの悠一さんたちと、相変わらず暇を持て余している僕と弘之だけが残されてしまった。
「ここんとこ付き合い悪いよなあ、益美のやつ」
よその学校の演劇部が公開している稽古を見に、放課後のベルがなると同時に教室を出ていった益美のことを思い浮かべながら、弘之が不機嫌そうな顔をしてみせる。
「しょうがないよ。あいつ、二枚目に弱いから……」
放課後、久しぶりに僕の家へと上がりこんだ弘之は、行きがけに買った漫画雑誌とサンデー帝都を交互に読みながら、音を立ててポテトチップスをかじっていた。
「どうしてまあ、女って細い二枚目が好きなんだろうなあ。細いのに限らなきゃあ、男なんてそこらじゅうにウヨウヨいるだろうにさ」
「なんだ、嫉妬してるのかい」
ベッドの上で、借りたサンデー帝都を仰向けになって読んでいた僕は、面白半分に弘之を茶化してみた。すると弘之は鼻息荒く、
「そんなんじゃあねえけどよお! ……ちょっとくらいはチヤホヤされたいっていうか、なあ?」
「わかんないなあ、僕は。一人のほうが気楽だと思うんだけど」
「……それも、そうだな。デートは金がかかると、その雑誌にも書いてあったし」
荒れるのも早いが、収まるのも早い。曾野辺弘之という男はそういう単純なやつなのだ。
「それより失敗したなあ。今週号の『トモエ御前のお出ましじゃ』、先週の後編なんだな。いっつも読み切りだから、気にも留めてなかったけど……」
弘之の言葉に、あとでのんびり読もうと後回しにしていたカラー口絵付きの「トモエ御前のお出ましじゃ」を探すと、たしかにサブタイトルの脇に小さく「後編」と書いてある。
「そういやあ、金沢先生も今度の件で情報を探ってるんだっけ?」
「――だったっけ?」
推理作家U・Kの存在感の濃さに隠れてしまって、今の今まで、ユーモア作家である金沢先生のことを忘れていた。記憶が正しければ、U先生が会話の中でそんなことを言っていたような覚えがあるのだが、なにか具体的に動きがあった、というような報告には覚えがない。
「この雑誌の週刊連載だろ? あとはラジオにテレビ、雑誌のコラム……。案外、作家って忙しいんだなあ」
単にU先生がヒマすぎるんじゃない? とは一瞬だけ思ったが、口に出すのははばかられて、あいまいに返事をしておいた。と、そこへ会話に水を差すような、携帯電話のけたたましいバイブレーションがテーブルで増幅されて耳に飛び込んできた。
「――おい、これ、公衆電話からの発信だぜ」
「ほんとかい」
振動であっちこっちへ気ままに動いている携帯をつかみ取ると、確かに発信元には「公衆電話」と出ている。おそるおそる電話に出ると、低いうなるような音が耳へ飛び込んできた。
「――もしもし、高津くんかい? Uです、U・K」
それに交じって流れてくる聞き覚えのある声に、腕から緊張感が抜ける。U先生だった。
「先生、どうしたんですか」
「おうさ、今、東京行きの列車の中なんだけどね……」
低い音の正体がトンネル内の轟音とわかると、僕はU先生にいったい何が起こっているのか尋ねた。
「実は、おれもよくわかってないんだ。一時間前に金沢のやつから電話があって、なんでもいいから東京へ来い、って言うきりでね……」
「金沢先生からあ?」
僕とU先生の電話のやり取りを気にも留めず、サンデー帝都を読んでいた弘之がハタと立ち上がり、代わるようにせがんだ。渋々電話を代わると、弘之は一気呵成に、
「先生、僕です、曾野辺です。――ふん、ふん……で、待ち合わせは……? えっ、それっきりなんですか、しょうがないなあ。――わかりました、健壱と行きますから、そこで待ちあわせましょう」
こちらが止める間もなく電話を切ってしまうと、弘之は額の汗を指ではねてから、放り投げてあった鞄や制服を片付けだした。
「おい、出かけるぞ」
「出かけるって、どこへ」
「上野駅だよ。金沢先生がU先生との待ち合わせに指定したらしいんだ。ひとまず、地下の新幹線ホームで落ち合ってから、金沢先生を探そう。――先生、いつもと違って焦り気味なんだ。こりゃあ、ただごとじゃなさそうだぜ」
思い返せば、テイルズの楽屋や、その後のジャズ喫茶で先生と一番しゃべっていたのは弘之だった。短い期間ではあったが、探偵作家U・Kの人となりを一番把握しているのはこいつなのかもしれない。
ひとまず、U先生の乗った列車である「Maxとき」の到着に間に合うよう、帰宅ラッシュの中を潜り抜けて上野駅へ着くと、ちょうど五時半着の「Maxとき」がホームへ滑り込んできたところへと間に合った。
そして、構内放送とともに押し寄せてきた乗客の中にU先生の姿を見つけると、僕と弘之は腕をふり、周りの人口密度が下がったのを見計らって、先生の元へ駆け寄った。
「U先生!」
「やあ、ご無沙汰……」
よほど急ぎの旅支度だったのだろう。年季の入ったボストンバック一つきりの荷物の他は、今時珍しい上下の白い背広、カンカン帽子という出で立ちで、U先生は開襟シャツを汗でびっしょりとぬらしている。
「――おい、それより肝心の金沢はどこなんだい」
バックのジッパーをそっと開き、中から出した扇子をしきりに使いながら、先生があちこちを見渡して尋ねる。言われてみれば、言い出しっぺであるユーモア作家・金沢鉄平の姿がどこにも見当たらない。
「そういや、見当たんねえや。目立つツラだから、その辺にいそうなんだけど……」
と、あたりをきょろきょろ見回していた弘之が、気の抜けた声を上げた。そして、
「ありゃあ、探偵社ンとこの仁科さんじゃねえか」
「なんだってえ」
親指で器用に扇子を閉じ、帽子のツバをあげると、U先生も同じように妙な声を上げた。さすがに気になってふりむくと、霜降り色をした夏物の学生服を着た仁科さんが、こちらに気づいて駆け寄ってくるではないか。
「やあ、ここにいらっしゃったんですね。お迎えに上がりました」
弾む息を整えながら仁科さんが言うと、U先生は不満そうに、
「なんだ、金沢のやつ銀座にいたのか。急いで損したぜ」
と、言い切らないうちに、仁科さんがとんでもないことを口にした。
「――金沢先生が卒倒してしまったので、代理でお三方のところへはせ参じたんです」
「な、なにい」
金沢先生が卒倒……? いったい、なにがどうなっているのだろう。わけもわからず、仁科さんが運転してきた探偵社のコンフォートへ飛び乗ると、僕たちはそのまま、銀座の探偵社へと急いだ。
車寄せの前で待っていた悠一さんと猫目さん、そして、情報が回っていて呼び出されたのか、やや不機嫌そうな表情の益美の前に降り立つと、僕が尋ねるより前に、U先生が悠一さんに金沢先生の無事を問うた。
「おい、あいつは無事なのか――」
「心配なさらないでください、命に別状はありません。――詳しいことは本人が起きてからでないとわかりませんが、医者の見立てでは、精神的にかなり刺激の強いことを経験なすったことが原因のようでして……」
「刺激の強いことォ……?」
ひとまず、玄関先にいてもらちが明かないということで、金沢先生の休んでいる医務室にほど近い、こじんまりとした会議室へ入ると、僕たちは運ばれてきたアイスコーヒーをなめて、気を鎮めることにした。
「山藤探偵、いったい、どういう経緯でお宅へ金沢が来たんです」
幾分か冷静さを取り戻したU先生が尋ねると、悠一さんは深呼吸をしてから、おもむろに話を始めた。
「ちょうど二時間前のことなんですが、うちの世田谷支部から僕宛に電話があったんです。で、いざ出てみると、U先生の知り合いだと名乗る男が来ていて、事件の証拠につながるかもしれないものを手に入れたのだが、ことによると自分の命が危ないかもしれない……と半狂乱になっているんだというんです。ひょっとして、その男というのは先生のお知り合いである金沢鉄平先生のことではないかと思って、相手の人相を尋ねてみるとどうもそうらしい。そうなると、これは放っておくと危ないだろうからと、すぐさま銀座本部までお連れするように、と手はずを整えたんですが……」
そこまで話すと、悠一さんはアイスコーヒーを一口含んでから、
「いざ、こちらへ来て僕と目が合った途端、緊張の糸がほつれたのか、そのまま玄関ホールでバタンと伸びてしまったんです。そこからはもう、医者を呼ぶやらなんやらで、大わらわでしたよ」
「――なあるほど、いや、いかにもあいつらしい話だよ。探偵長、ご迷惑をおかけしました」
親友である金沢先生の非礼を詫びると、U先生は鞄からまた扇子を出して、今日はばかに暑いねえ、と、目を泳がせながら腕をしきりに動かす。
「あ、失礼しました。誰か、灰皿をお持ちして――」
「い、いや、いいんだ。なに、別に煙草がなくたって気分ぐらい落ち着くさ……」
口ではそう言いいながらも、U先生の手はつかんだグラスを小刻みに揺らしていて、氷がガラスにあたるたびにカチカチという音を立てている。
「ほら、我慢なさらず……」
運ばれてきた瀬戸の煙草盆を受け取ると、悠一さんはそれを先生の手元へ置いて、マッチを構えた。しばらく、U先生は煙草盆の表面に描かれた唐獅子を眺めていたが、やがて決心がついたのか、背広のポケットからピースの小さな箱を出して、抜き取った一本へ火をつけてもらった。
「……すまないねえ」
ピースの甘い香りが部屋をつつみ、先生はやや落ち着いたような顔色を僕たちに見せている。
「なんたって、あの男とは学生時代からのクサレ縁だからなあ。仕送りが残りわずかでピイピイ言ってた時に、よく飯を食わせてもらったっけ……」
「――そのころからだよな、お前の傍若無人な食いぶりはさ」
聞き覚えのある声に、部屋にいた面々の視線が入口の戸へと集中する。見ると、頭へ氷のうをひっかけた羽織姿の金沢先生が、やや頼りない足元で部屋の中へと入ろうとしているところだった。
「よかった、生きてたのか!」
大親友の無事がわかって、U先生は今にも泣きださんばかりに目元を潤ませている。
「危うく死んじまうとこだったけどな。イヤハヤ、金沢鉄平も歳を取ったもんだ」
ゆっくりと歩みを進め、U先生の向かい側へ腰を下ろすと、金沢先生は付き添ってくれていた探偵員の女の子にアイスコーヒーを命じて、U先生からピースをもらい、しばらく紫煙をくゆらせていたが、
「そういや探偵長、僕が持ってた信玄袋、どこにある?」
「ああ、あれなら探偵長室の金庫の中に入ってますよ」
「ほほう、そんな仰々しいところに収まっていたのか。いや、実はあの中に、今度のテイルズ事件の重要証拠物件が入ってるんだ。説明がてらお見せしたいから、持ってきてもらえますまいか」
「じ、重要証拠物件!」
さらりと言ってのける本人をよそに、僕や悠一さんは唖然とした顔で、呑気にアイスコーヒーをなめている金沢先生をのぞき込んだ。
「金沢っ、そりゃあ本当か」
「本当も本当、大冒険の苦心の末に手に入れたんだ。危うく死ぬとこだったよ」
それを聞くが早く、猫目さんはぼうっと突っ立っていた探偵員の男の子へ命じて、金庫の中から件の信玄袋を運んでこさせた。ほどなくして、銀のお盆に載せて、結城紬や別珍をないまぜにして縫い上げた金沢先生の手提げが応接間のこもった空気の中へと姿をのぞかせた。
「――で、例のブツは?」
U先生が食い気味に尋ねると、金沢先生は紐をほどいて、中からところどころスレて白くなっているジップロックを出して見せた。だが、くもり気味のビニール越しでは中身が何なのかうかがい知れない。
「金沢先生、これはいったい……?」
真新しい鑑識用の手袋をはめながら尋ねる悠一さんに、金沢先生はこともなげに、キジの羽根だよ、と言ってのけた。途端に、あの日沼井さんや千尋さんの口からもたらされた証言を耳にしていた面々の表情が険しくなり、頬を一筋の汗がつたった。
「で、一体全体、こいつはどんな大冒険の末に手に入れたもんなんだ、話してもらおうじゃねえか」
「ま、そうせかすな。――しかしまあ、心臓に悪いハナシだぜ、まったく……」
金沢先生はグラスに浮かんでいた氷を豪快にかみ砕くと、ため息をついてから徐に、ここに至るまでの経緯を語ってくれた。
本人説くところの大冒険はちょうど一週間前、金沢先生がU先生からの電話を受けたところから端を発する。
「――なにぃ、きさま、どうしてそんな大事なことをすぐに伝えないんだ」
探偵社の別室で聞き得た情報をU先生から知ると、蚊帳の外にされていたことを憤ってか、金沢先生は声を荒らげた。
「しょうがないだろ、こっちはこっちなりに情報をオッカケてたのに、全然収穫がないんだから……」
その晩、「トモエ御前~」のドライリハーサルに参加するべくテレビ局へ来ていた金沢先生は、合間に受け取ったU先生からの電話に、ややとげとげしく応答していた。それは、主演の俳優たちの演技があまりこなれていないことが大きかったが、何よりも連続もののリハーサルを三本分一気にやるため、いつまでたっても楽屋弁当が開けられないことに対する怒りのほうが勝っていたようだった。
「バカ野郎、お前の探し物のへたくそなのを同級生で知らないやつはおらん。どうして仕事をオレにまわさんのだ」
ひと気のないスタジオ外の廊下で、それまでやや落とし気味だった声音をあげながら、金沢先生はU先生の不手際をひたすらに責める。
「だってお前、いまドライリハに付き添ってんだろ? 次はカメリハ、お次は本番で、作者のお前の監修がないままオンエアできるわきゃあないだろう」
「そりゃあそうだが、オレだって年がら年中忙しいわけじゃない。それに、ちいとばかりこの頃のトモエ御前人気に飽き飽きしてきたとこなんだ」
「するってエと……?」
受話口から、U先生の期待に満ちた声が漏れ出る。
「ちょうどいい気分転換になりそうだ、付き合ってやろう。ひとまず、何回か分の原稿をカタしてから、オレもテイルズの周辺を動いてみよう。なんか進展がありゃあ伝えてやるから、お前は新潟でポッポ焼きでもかじってな」
「なっ、無礼なやつ――」
U先生を無視して電話を切ると、金沢先生はプロデューサーとディレクターに急用ができた、とだけ伝えてスタジオを出た。
そこから二、三日、原稿を渡しに編集者を呼びつける以外のすべての時間を割いて、金沢先生はテイルズ&フラッツの築き上げた一大帝国の謎を追うのに全力を注いだ。
「……これは、ともすると面倒くさい相手を敵に回すことになるかもしれないなあ」
隠れ家代わりに泊まっている安旅館の一室で、書き損じの原稿用紙をひっくり返してここまでに調べ上げた出来事を書き連ねていた金沢先生は、ペンを置くと軽く伸びをしてから、目を背けたくなるような現実を目の当たりにした。
――テイルズのファンに良家の子女が多かったのは知ってたが、ダンナ方までお偉いさんが多いとは思わなかったなあ。
ファンクラブの取りまとめ役を買って出ている政財界の有閑夫人のそうそうたる名前に、金沢先生はめまいがするのを覚えたという。U先生や悠一さんもぶち当たった問題に金沢先生もいっときひるんだが、気晴らしとばかりに立て続けに三杯渋茶をすすると、
「よし、安牌からあたろう」
長い付き合いのU先生言うところの「勇敢という名前の無茶ぶり」から、比較的自分たちに影響のなさそうな立ち位置にいる人物の奥方へ話を聞こう。決めるが早く、金沢先生はつむじ風のように宿を引き払って出ていった。
何日かぶりに浅草の自宅へ戻り、相手の気を害さないように身なりを整えると、金沢先生は手始めに、ファンクラブの書記を担当しているという某生命保険会社の会長夫人を訪問した。
表向きにはテイルズをモデルにしたジャズバンドに熱狂する昭和の少女たちを主人公にした群像劇を書くための取材、ということでの接近であったが、幸いなことに夫人はやってきた小説家が日頃愛読しているユーモア小説「トモエ御前のお出ましじゃ」の作者であることを知るとすっかり警戒心を解いて、昔話から昨今の活動に至るまで、事細かに語ってくれた。
その流れで、特におネツであったという副会長代理へ紹介状まで書いてもらった金沢先生は、事の思わぬ進みぶりに驚いていた。それは、本人説くところの「割とやっつけで書いている三文小説」のつもりだった「トモエ御前」が思わぬパスポート代わりになっていることと、読者が多岐にわたっていることの二つからだったそうだが、とにかくU先生や悠一さんでは成しえなかった大偉業に、金沢先生は内心、笑いが止まらなかったという。
さて、日を改めて件の副会長代理の元へ向かった金沢先生は、世田谷の一等地・成城にデンと構えた数寄屋造りを前にして震えが止まらなかったというが、それは、こちらからぶつかったら骨が折れてしまいそうな門扉の横に控えめに掲げられている「宮脇」という名字のためであった。
話はそれるが、僕や悠一さんにとってはなじみの薄い会社の一つに、「エムエル製紙グループ」という一大企業がある。これは戦前に外資との合併で出来た「宮脇・ロイド製紙株式会社」という老舗から広がった、製紙、印刷、はては原料となるパルプや木材の買い付けなどを行う一連の企業を束ねる存在なのだが、そのエムエル製紙グループの総裁夫人というのが、テイルズのファンクラブで副会長代理を務めている宮脇和代だったのである。
――よりによってエムエルの総裁夫人なのかよォ……。
順調と思われた金沢先生の遊撃は、ここにきて思わぬ障害にぶち当たった。というのも、サンデー帝都を出している帝都新聞出版の印刷を請け負っているのが、よりにもよってエムエル製紙グループの傘下にある印刷会社だったのである。
――なんかの弾みでボロ出したら、今度は作家生命以前に、版元がツブレちまうかもしれねえ。
昔から愛妻家として有名な宮脇総裁の逆鱗に触れるようなことがあれば、自分が腹を詰めるだけでは済まされないだろう。そう考えただけで、金沢先生は毛穴という毛穴から粘っこい汗が噴き出るのを覚えた。
だが、そんな心配をよそに、宮脇夫人との面会はことのほかスムーズに動いた。紹介状の存在が相手の警戒心を解いたのもあったが、ここに来てもやはり、「トモエ御前」の作者であるという威光が燦然と金沢先生の背後から輝いたのであった。
「――いつも拝読しておりますの。本当に、弥生さんたちや日奈子さんのやり取りが面白くて面白くて……」
応接間のマガジンラックに差し込んであったサンデー帝都の最新号を手に取ると、宮脇夫人はパーマを当ててふんわりと整えた上品な白髪を揺らしながら、満面の笑みを浮かべて作品の感想を語る。そんな彼女を前に、緊張しきりの金沢先生はただただ、形式的にソウデスネ、とか、アリガトウゴザイマス、としか言えずに、すっかりアガってしまっていた。
「――あ、そうそう!」
そんなところへいきなり、宮脇夫人が頓狂な声を上げたので、金沢先生は正式なマナーにのっとって指でつまんでいたティーカップを転げ落としそうになった。
「な、なんでしょうか」
「昔、書生さんに頼んで撮ってもらった、テイルズの演奏を写した写真、この前息子に頼んでDVDに焼いてもらいましたの。状態がいいものばかりじゃありませんけれど、よかったら小説を書くのにお使いになりません?」
「おおっ、それはまた貴重なものを……! よろしいんですか?」
ローテーブルへそっとカップを置きながら金沢先生が聞くと、宮脇夫人はもちろんですわ、と明るく答えてからほんの少し応接間を離れたが、やがて、五枚組のDVDを持って戻ってきた。
「ほう、これがその写真データですか……」
年代順に細かく書き込まれたブックレットや、DVDに刷り込んだラベルは、はたから見ると素人の手によるものとは思えない、どこかのレコード会社が作った愛蔵版の付録のような趣さえある。
「三男が孫娘の写真をよく、こうやってデータに焼いてましてね。たまに遊びに行くと、私の方からせがんで見せてもらうんですの」
「となると、お孫さんはかなり遠方に……?」
社交辞令的な質問に、宮脇夫人はいえいえ、そうでもないんですの、と恥ずかしそうに手を振ってみせ、
「頻繁に行くことはありませんけれど、いちおうは都内なんですの。ほら、この頃よく雑誌や新聞なんかでも出てますでしょう。『第二のつくば』とか呼ばれてる翡翠ヶ丘。あそこなんですの」
「ひ、翡翠ヶ丘」
U先生から大雑把に説明を受けていただけに、翡翠ヶ丘という地名が金沢先生に与えたショックは並大抵のものではなかった。
「そ、そうでしたか……。ときに、お孫さんは今おいくつで……?」
「もうじき十六歳ですの。息子が向こうの家に入り婿に行ったものですから、こちらの姓ではなくて、あちらの名字を名乗っておりますが……」
そこまで来て、金沢先生は「嫁ぎ先の名字はひょっとして田谷だったりしますか」と尋ねたいのを必死に抑えて、銀歯のはまった奥歯を強く噛み締めていた。と、それまで二人のやり取りの他は何の物音もしなかった応接間の中に、けたたましい電話の音が鳴り響いた。
「あら、ちょっと失礼します……。もしもし……。はい、はい……。あら、すぐにつないでいただけるかしら? ……もしもし、どうかしたの? ……あら、お食事の?」
急な電話のおかげで、金沢先生は張り詰めていた緊張の糸をほぐすことが出来た。夫人の目が届かないのをいいことに、砂糖壺に入った角砂糖を四つばかり口へ放り込むと、思いがけない言葉が耳へ飛び込んできた。
「――ここのところ、田谷のお父様方や京香ちゃんにも会ってないし、いい機会かもしれないわ。お父さんはもう少ししたらお戻りになるでしょうから、ちょっと聞いてみるわ。それじゃあ、またあとでかけますから……」
受話器を下ろすと、宮脇夫人は長々すいません、と頭を下げ、
「息子から、向こうのお父様方や孫と一緒に夕食でもどうか、なんてお誘いが来ましてね……。これもきっと、先生がいらしてくださったからかもしれませんわね」
久しぶりの孫娘との対面が楽しみなのか、宮脇夫人はどこか浮足立っているようにも見える。
「ハ、ハハ、そうかもしれませんな。そうなるとあまり長居してはいけませんね、僕はそろそろお暇するとしましょう……」
――驚いたな、繋がりやがった!
借りる約束を取り付け、信玄袋へDVDを入れていた先生はすっかり舞い上がっていた。無理もない。二つの方向から犯人を追っているうちに、無関係と思われたテイルズの取り巻きと、千尋さんの古巣である吹奏楽部が一本の線で結ばれたのだから――。
そして、さらなる一打が、興奮冷めやらぬまま玄関へ続く廊下を歩いていた金沢先生に加えられた。それは、ダイニングキッチンへと入るとの前で、掃除にいそしむ老齢のお手伝いさんとすれ違った時のことであった。不意に、出したばかりの春物を思わせるようなナフタリンの香りに顔をしかめると、金沢先生は匂いの出所である、棚の上にのったキジの剥製へと目を向けた。
「おタミさん、これ、薬臭いわよ。もうちょっと陰干ししてから飾ったほうがいいんじゃなくて?」
「これでもだいぶマシになったほうなんですのよ、奥様……」
「あら、じゃあ仕方ないわねえ」
長いこと務めているらしいお手伝いさんと夫人の、どこかほっこりとしたやりとりに金沢先生はいくらから頭が冷静になってゆくのを覚えた。が、二人の話題となっているキジの剥製に目をやったとき、先生はテイルズと吹奏楽部の点と線が結ばれた時よりも激しい衝撃に襲われたのであった。
件のキジの剥製は専門の店であがなったものではなく、宮脇総裁が何かの折に猟銃で仕留めたものらしく、台座には「昭和六十年 軽井沢で」と書かれた真鍮のプレートがはめ込んである。時折手入れをしているためか、羽根には生き生きとした艶が残っているが、かれこれ二十数年前のシロモノということもあって、惜しくも抜けかけた羽根をそっと糊で張り付けたような個所がちらほら見受けられる。
だが、そんな比較的丁寧な修復個所に交じって、あからさまにほかの羽根――曰く、募金の赤い羽根を染めてごまかしたようなシロモノだったそうだが――が混じっているのを見た金沢先生の頭に、ある考えがよぎった。
が、すぐに実行へは移すようなことはなく、金沢先生はおとなしく玄関先へと出たが、信玄袋を下げた右手で反対側のたもとをつかんだ途端、
「あっ、しまった――」
「どうかなさいましたの、先生」
「奥様、どうも応接間に扇子を忘れてしまったようでして……ちょっと、取りに行ってまいります」
夫人やお手伝いさんが止める間もなく、雪駄を脱いで廊下をかけると、金沢先生は一目散に応接間――ではなく、先刻二人が話し合っていたダイニングの手前にある、キジの剥製のところへと向かった。
そして、周りに誰もいないことを確認すると、先生は信玄袋からジップロックと真新しい鑑識調査用の手袋を出して、二、三枚むしってから、そっと羽根を袋の中へと放り込んだ。そして、右の袂に隠してあった扇子で顔を仰ぎながら、
「やあ、失礼しました。では、お借りしたDVDはコピーしてから郵便でお返しさせていただきますので……」
お手伝いさんが呼び止めたタクシーへ何食わぬ顔で乗り込むと、金沢先生はにこやかな表情を窓からのぞかせて宮脇夫人へ頭を下げていたが、やがて、エムエルの総裁宅が遠いかなたに消えてしまうと、運転席のヘッドレストへかじりついて、
「運転手さんッ、行先変更! さつき探偵社の世田谷支部へスッ飛ばしてくれっ!」
気力で止めていた冷汗がとめどなくあふれ、金沢先生は車が止まるまでの間、後部座席でガタガタと震えていたという。
「なるほど、そいつは確かに大冒険だったな。いや、ご苦労さんでした」
話を聞き終える間にピースの箱をすっかりカラにしてしまったU先生は、金沢先生の労をねぎらって、運ばれてきた二杯目のアイスコーヒーをしきりにすすめた。
「まったく、思い出すだけでも冷汗が出てきやがる。なんせ、あそこでボロ出してたら、お前や探偵長の必死の隠密行動がパアになるんだからなあ。こっちだけならとにかく、帝都にまで迷惑かけたら仕方がないし……大変だったぜ」
眉毛を八の字にして、金沢先生は先刻までの成城での出来事を思い出しながら、重いため息をつく。
「――てなわけで山藤探偵、奴さんが半狂乱になってまで手に入れてくれた重要証拠だ。超特急で鑑定頼むぜい」
そんなことを言いながら、ボストンバックの奥に突っ込んであった真新しいピースの封を切ると、U先生は安心しきった顔で、再び煙草へと火をつけるのだった。
キジ羽根が厳重に包装されたうえで、探偵社の社旗をかかげた黒いコンフォートで科警研へと運ばれてゆくのを見送ると、僕は弘之と一緒になって、U先生と金沢先生の呼び止めたタクシーへと便乗することになった。銀座の一角でかたや語り、かたや聞かされた武勇伝のせいで疲労困憊なのか、誰も言葉を発しようとしない。
と、それまでだんまりを決め込んでいた金沢先生がおもむろに、
「U、今日はランチョンあたりで一杯ひっかけてから、うちで出前の寿司でもつまもうや」
弘之を挟んで右側の座席で縮こまっていた金沢先生の提案に、U先生は二、三度咳き込んでから、
「――そりゃあ奢りかい?」
煙草代わりにかじっていたフリスクが強すぎたのか、U先生はむせるような声で金沢先生のほうを向く。
「心配かけた詫び程度には、な」
「……のった!」
居合斬りのように飛び出た右手の指がパチンと小気味よく鳴ると、金沢先生は満足そうに微笑む。
――邪魔しちゃア野暮だなあ。
――だねえ。
弘之とバックミラー越しに目配せをすると、僕は前に向き直った。だいぶ日も傾いて、ビルのはざまに茜色の夕日が煌々と輝いている。疲れも手伝ってか、いつも以上に車のライトが尾を引くように見えるのを感じながら、一刻も早い、事件の解決を切に祈るのだった。




