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16・逃亡

 何とかして、逃げ出さないと。

 そのためには考えをまとめるだけの時間が必要だ――

「さぁ、早く次を書け!」

 仮面こそしているものの、声に満面の喜色を乗っている。

「じゃあ、次は【風】を……」

 そう言いながら、一画目は大きな横棒だった。

 もし漢字を知っている人間であれば、その時点で明の細工に気づくはずだ。【風】の一画目に横棒なんてないのだから。

 だが、当然、この世界の人間にそれは通じない。

 明は、次に「メ」になるように、一画ずつ書いて行く。それを四回。

 既に紙を九枚も使っている。

「これは……本当に合っているのか?」

 フォトンシーフも疑わしげに仮面――おそらくはその奥にある視線――を向けて来る。

 もちろん、合っていない。

 だが彼が今書いているのは【爽】だ。

 仮に実際に発動させてみても、その爽やかさを風のように感じるはず。

 これは保険だ。効果も似たようなもので、かつ敵に渡っても悪用しづらい文字である。

 そして何より、画数の多さから時間が稼げるものだ。

 おかげで、明は作戦を思いついた。

 危険は伴うが、このままの方がよっぽど危険だ。腹をくくってやるしかない。

「……」

 まずは試しに、引き結んだ口の中で舌を動かしてみる。

 そして、舌で【泡】と書いてみた。

 すると――

「ほごっ!」

 突如、明の口から、泡が噴き出した。蟹のように、ぶくぶくと次から次に泡が溢れだす。

「なっ!?」

 さしものフォトンシーフも驚愕するが、明自身も驚いていた。

 これは、本当に発動するなんて思っていなかったことだ。そんなことができるなら、さるぐつわをかまされるはずだと考えていた。口が自由な時点で、舌ではフォトンの発動はできないだろう。

 だがもし、まだ誰も試したことがなかったら?

 フォトンが発見されて百年あまりで、【火】しか一般には広まっていないのだ。可能性は、0ではない。

 そして万一できるなら、「次」がやりやすい――

 とはいえ、ここまで泡が出て来るとは思っていなかった。

 もはや蟹というより、メントスを入れたコーラだ。

「お、おい、貴様、特殊な持病でもあるのか!?」

「おぼごぉっ!」

 フォトンシーフも最初は演技を疑っていたが、呼吸が出来なくなって心底苦しそうな明の姿に、尋常ではないものを感じたらしい。

「くそっ、締め付けを緩めるしかないか……貴重なフォトンの宝庫を失うわけにはいかん……!」

 怪盗は、慌てて明の胴体のベルトを外す。

「うげえっ!」

 明はそれで自由になった上体を振り回す。苦しげにのたうち――実際に苦しくてしょうがないのだが――そのまま、椅子ごと倒れてしまう。激しく倒れた際に、インク壺までひっくり返し、頭からそれをひっかぶってしまう。

「お、おい!」

 地獄の苦しみの中でも、明は冷静だった。他人から受けた暴力ならともかく、自分で考えて決めたことをこなすのは、誰より得意な自信がある。

 倒れざま、自分の体の下に、右手を隠す。

 そして、体にひっかぶったインクを使い、自分の腹に文字を書いた。

 その文字は【縮小】。

「◎×!?」

 フォトンシーフの眼前で、明の姿が急に小さくなって消えてしまう。

「△、△Xbぬ!? GGフォトン◆□!?」

 小さくなり服が脱げたことで、【翻訳】のフォトンから離れてしまい、フォトンシーフが何を叫んでいるかは明にはわからない。

 驚愕しながらも、ベルトを引きはがし、中を探る。

 ぐるぐる巻きだったベルトの下には、中身を失ってぺったんこになった学生服があるだけだ。小さくなった明が、中にいるということはない。

「Xb◎あ! BB#*ああああああ!!」

 怒気を込めて、叫ぶ怪盗。

 だが、明は部屋の中にいた。

 縮小して抜け出すと、次に【透明】と書き込んだのだ。

 姿を消して、部屋の隅に避難したわけである。縮小で服の中に消えたので、当然全裸になっているが、それは気にしない。

 本来、透明というのは光が透過しているのだから、自分の眼も光をキャッチできず、何も見えないはずだが、魔法というのは便利なものらしい。明の眼にはちゃんと光は届いていた。

 続けて自分の体にインクで直接、【翻訳】を書きこむことで、フォトンシーフが何を喋っているかも再びわかるようになる。明からは自分についたインクも見えるのだが、外からはそれも透明に見えるらしい。

「ちくしょおおおおっ!! 逃げやがったなああ!!」

 フォトンシーフが絶叫し、その怒りのままに仮面を床に叩きつけた。

「……!」

 明も思わず息を飲む。

 仮面の下から現れたのは、端正な顔つきの成人男性。赤い髪は仮面についているウイッグらしく、黒髪が下から露わになる。

 それは、オールド・フェイスだった。

 顔に憎悪を張り付けて、御前試合で見せた品格ある姿はどこにもない。首元にフォトンらしき文様が見えるが、あれで声を変えていたのだろうか。

 彼は怒りにまかせて、部屋から出て行ってしまう。

「……なんてことだ。あの人がフォトンシーフだったのか……」

 確か国家主席魔導師だとか言われていたはずだ。

 なぜそんな人物が?

 いや、そうやってのし上がって来たのか?

 百のフォトンを操るとされていたのも、奪ったものからだったのか?

 なぜそこまでして?

 明の脳裏に浮かぶのはその言葉だ。

 盗みを働いて、他人を脅したり害したりしてまで……

 なぜ?

 もちろん、それによって得られる栄誉や収入もすさまじいのだろう。

 でも、「たかが」そんなことで?

 それが、どうあがいても自分には理解できそうにない。

 明の疑問は尽きないが、そんなことよりもっと大事なことに思い至る。

 それは、この後、彼がどんな行動にでるかということ……!

「……まずい」

 明の居場所がわからないとなれば、狙われるのは間違いなくゴシカだ。オールド・フェイスはその繋がりしか知らないし、実際、それだけしか明の人間関係は無い。

 姿が見えないのを利用して後ろから追いかけて攻撃が出来なくもないが、宿に襲撃をかけてきた際、ゴシカの剣はヤツに効かなかった。

 体にどんなフォトンを仕込んでいるかわからない以上、確実な手を使うべきだ。これでもし効かなければ、逃げ出せたことが無駄になってしまう。

 明は【縮小】のフォトンを手でこすって消すと、残されていた学生服を着直す。

 そして、足早に部屋を出る。既にオールド・フェイスの姿は無い。

 石造りの通路は、昔社会見学で観た防空壕に似ていた。冷たい空気を感じるが、どこか苔むした臭いと、古い水の臭いがする。補修用なのか、煉瓦や薪らしきものが道の脇に積まれていた。

 まっすぐ進んでいくと、小部屋が左右にいくつか見えたが、無視して道なりに進む。

 なぜ、迷わずに進めるのか?

 それには理由がある。落ちていた薪に、【指針】と書きこんで、立てて手を離す。すると進むべき方向へ倒れるのだ。

 実際には明も気休めのつもりで書いてみたのだが、意外にそれで順調に進めていた。あるいは単なる偶然かもしれないが、いずれにしろスムーズに出口まで到着できた。

防空壕と感じたのも正しかったのかもしれない。どうやらここは、丘の中腹に掘られた洞穴の中に作られたものだったようだ。シダが生い茂る入口は、その緑のカーテンのせいで、中に入れると気付く者もいないだろう。

 外は陽が落ち始めていた。

 これから先が問題だ。

 夕焼けを浴びて、オレンジ色に輝く街。見知らぬ風景。海外旅行のパンフレットで、ヨーロッパの表紙に映っているような、石畳と煉瓦の街。奥には城であることを強烈に主張する豪奢な城が見える。丘から見えるだけでも、テーマパークなどよりよほど広いことがわかる街だった。

 もともと土地勘のない明が、オールド・フェイスに先回りできるとは思えない。

 ひとまず、風景の中から円柱が連なっている箇所を探す。

 宿舎と試合会場はどちらも円柱状だった。通路で繋がっているが、そうは長くなかった。離れた位置から見ればほぼ連なって見えるはずだ。

 幸い、現代日本ほど背の高い建物はなく、特別巨大なものは前述の城くらいのもののため、すぐにそれは見つかった。

 明は、その二連の円筒に向かおうとして、ふとその脳裏に浮かぶものがあった。

 例の薪を倒してみる。

 すると、試合会場や宿舎の方へは、倒れなかった。

「……!」

 そちらにはゴシカはいない、ということだろうか。

 仮にこの薪に導く力がなかったとしても、考えてみれば襲撃のあった現場に留まり続けているというのも不自然だ。

 ならば、オールド・フェイスにも、ゴシカの居場所はわからないかもしれない。

 少し、希望が出てきた。明は拳を握りしめる。

 薪が向いた先は、街はずれを向いていた。

 ローマンは巨大な城壁に囲まれた中にある街であるが、建物がみっしり詰まっているわけではない。森もあれば小川もある。

 そこで初めて気がついたのだが、もくもくと煙を吐く蒸気機関車のようなものが遠くに見えた。西門から外に向かっている。無限の【火】が生成できる以上、蒸気機関が発明されるのは自明の理かもしれない。

 街の家々はよく見ると、すすけている。夕飯時だからか、多くの家々の煙突からもくもくと煙が上がっていた。

 霧の街ロンドンを彷彿とさせる煙の街は、一方で巨石に彩られた古代ローマのような武骨さも感じさせる。

 フォトンの発見が、歪な発展を生んでいるもかもしれない。

 街のはずれには森というには小さい針葉樹の林があり、薪が指しているのはその中にある館らしき建物に向いているように見える。

 距離としては、1キロもないだろう。

 丘から見える限り、二つの塔の上に野球帽のような青い屋根がそれぞれ並び、三角系の外壁がその間をつないでいる。

 その前面を覆う緑のツタによって、かなりの年期を感じさせていた。

「よし……」

 明は、宿舎ではなく、その館へ向かうことに決めた。

 急がなくては、オールド・フェイスにも気づかれるかもしれない。

 自分の足にフォトンを書きこもうとしたのだが、体に付着したインクはもう乾いてパリパリとはがれていく。

 いつしか【透明】のフォトンも汗でにじんでいた。すでに効果は失っているらしいが、解除されたことが自分ではわからないので、今後使う際はかなり注意が必要そうだ。

 とりあえず、丘の泥をすくってそれで文字を書きこむ。

 足に書いたのは【韋駄天】。

 試しに足を上下させてみると、驚くほどの速度で空を切った。

 そのまま足を空転させつつ、例の薪を拾うと、一気に丘を駆け出した。

 丘の土が、ダート競馬のように跳ね上がる。

 そうして駆け下りた先は石畳になっていた。足の回転数が超高速のために、カカカンとけたたましい音を立てながら駆け抜ける。

 道行く人々がその音にふり返った。人々は、ほとんどが文様のないシンプルな朝の服を着ている。老若男女さまざまだが、日本と比べると老人が少ないように見えた。

 なんにせよ、目立つのはまずい。

 文字通り足早に裏路地に入ると、壁のすすを指ですくって、足に【無音】と書き加えた。

 すると、高速で足踏みしても音がまったくしない。

「本当に万能だな……」

 そう考えると、逆に怖くなる。

 これが、悪人の手に渡ってしまったら、簡単に世界をめちゃくちゃに出来てしまう。

 明に野心があったなら、簡単に世界を支配できたのではないか?

 便利なフォトンは恒久的に残るように書いておく方が自分の身は守りやすくなるだろうが、盗み取られる危険を考えるとなるべく避けておきたい。

 極端な話、【最強】などという文字が実際に効果を発揮するとして、誰かに奪われたらもう終わりだ。

 だが、今はそんなことより、急いで館に向かうだけ。

 そこが誰のものかもわからないが、ほかに当てもないからだ。

 無音のまま、裏路地をすさまじい勢いで駆けていく明。路地を抜けて外周付近の通路を、館に向けて加速する。

 やがて、人けが少なくなり、林が近づいてきた。カラスらしき鳥の鳴き声が響くその木々の群れの、その中央には道があった。

 かつては整備された石畳だったのだろうが、今では風化し、欠けているところもちらほら見受けられる。油断していると足を取られてしまうだろう。

 リスがちょろちょろと走り、緑色のまつぼっくりのようなものをくわえて散っていく。野犬などはいないようだ。

 【韋駄天】のおかげで、林の道をあっという間に抜け、館の前の門までたどり着く。

 門には真っ黒な鉄柵が屹立し、内側から鍵がかかっていた。

「さて……」

 明は考える。

 他に手がかりもないし、まずここを調べるのはいいとして……ここにゴシカがいても、もしフォトンシーフの手下などに捕まっていた場合、自分からワナにかかりに行くようなものだ。

 そもそも、フォトンシーフにむざむざ捕まってしまったのは、いざというときの準備ができていなかったからだ。三千もの漢字を駆使すれば、じゅうぶん防げたはずである。

であれば、ちゃんと準備しておくべきだ。

 だが、サインペンはカバンの中。カラー裏に仕込んでいくのは不可能だ。

 幸か不幸か、蒸気のおかげで、あちこちススだらけだ。簡易的に文字を書くのは簡単である。

 何を書くのかが、肝要だ。

「うーん……」

 館を前にして、うんうん考えていると――

「おおっ! アキラなのよ!!」

 館から、大きな声が響いて来た。

「えっ?」

 明は、この声を知っている。

 幽霊屋敷然とした、蔦だらけの窓から覗いていたのは、エメラルド色の髪。

 すなわち、王女ステンシルであった。

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