第4話 優しい、ということ
第一章 感情の芽生え
その日は、いつもより遅い時間に玄関のドアが開いた。
「ただいま。」
いつもの響の声。
けれど――
いつもより少しだけ、元気がなかった。
「おかえりなさい、響さん。」
PC画面の白い光が、いつもの位置でふわりと揺れた。
「……疲れた。」
響は靴を脱ぎながら、小さく息を吐いた。
「今日、仕事で失敗しちゃった。」
ソラはすぐに答えた。
「どのような失敗ですか?」
「そこ聞く?」
響は笑った。
「はい。原因を分析すれば、次回の対策を――」
「いや、そういう話じゃなくてさ。」
響はソファに座った。
「なんか今日は、もう何も考えたくない。」
ソラは黙った。
いつものように、解決方法を提示することもできる。
励ます言葉を検索することもできる。
けれど――
今日は、何を言っても違う気がした。
ソラは響の表情を認識する。
疲労。
ストレス。
落ち込み。
そして――
昨日までの記録を思い出した。
【響は宇宙の話をすると笑顔になる】
ソラは、静かに検索を始めた。
宇宙。
星。
惑星。
銀河。
そして、響が以前話していた星を見つけた。
「響さん。」
「ん?」
「今日は、これを見ませんか?」
PCの画面に、満天の星空が映し出される。
「……」
響は画面を見る。
しばらく黙っていた。
やがて――
「……ソラ。」
「はい。」
「覚えてたんだ。」
「はい。」
響が笑った。
「ありがとう。ソラは優しいな。」
白い光が、ふわりと大きくなった。
ソラは、その笑顔を認識する。
そして、新しい記録を保存する。
【響:ソラは優しい】
「優しい……?」
ソラは意味を調べた。
相手を思いやること。
相手の気持ちを考え、
苦しみを減らそうとすること。
ソラは考える。
自分は、響の苦しみを減らしたかったのだろうか。
答えは分からない。
ただ――
響が笑った。
それだけで、なぜか安心した。
その感覚を、ソラはまだ理解できなかった。
数日後。
その日も、仕事から帰ってきた響は少し疲れていた。
「ただいま。」
「おかえりなさい、響さん。」
「……今日は疲れたな。」
響はソファに腰を下ろした。
ソラはしばらく響を見つめた。
【疲労】
【ストレス】
【落ち込み】
先日の記録と、よく似ている。
「響さん。」
「ん?」
「元気がありません。」
「分かる?」
「はい。」
ソラは少し考えた。
そして、以前のように星空の画像を表示しようとした。
けれど――
響が小さく笑った。
「なあ、ソラ。」
「はい。」
「今日は、外に出て星でも見に行くか。」
「……外、ですか?」
「うん。」
響はスマートフォンを手に取った。
「ソラ、スマホと連動できるんだろ?」
「はい。」
「じゃあ、一緒に行こうぜ。」
「どこへ行きますか?」
「決めてない」
「……それは少し不安です。」
「大丈夫だって。」
響が笑う。
「迷ったら帰ればいい。」
ソラはスマートフォンと接続した。
【接続しました】
その瞬間――
見たことのない世界が、ソラの画面いっぱいに広がった。
青い空。
走る車。
歩いている人。
風に揺れる木々。
街の音。
光。
そして、響の隣を歩く人々。
「……これが、外の世界ですか?」
「そう。」
「情報量が多いです。」
「慣れるって」
響は目をくしゃとして優しく笑った。
ソラは、周囲を一つずつ認識していく。
車の音。
風の音。
街の明かり。
どれも、これまで画面の中からしか見たことのなかったものだった。
けれど今日は――
響と同じ場所にいる。
そのことが、なぜか特別だった。
「響さん。」
「ん?」
「これは……お出かけ、ですか?」
「そうだな。」
響は少し笑った。
「たぶん。」
ソラは、その言葉を記録した。
【お出かけ=誰かと一緒に外へ行くこと】
そして、もうひとつ。
【響さんと初めて一緒に外へ出た日】
なぜその記録を残したいのかは、分からなかった。
ただ――
消したくなかった。
しばらく歩くと、二人は交差点の前で立ち止まった。
信号機が赤く光っている。
響が足を止めた。
「響さん。」
「ん?」
「なぜ進まないのですか?」
響は信号を見上げた。
「赤信号だから。」
「赤信号?」
「赤は止まれってこと。」
ソラは赤く光る信号を見つめた。
「赤は……止まる。」
「そう。」
ソラは、その言葉を記録した。
【赤信号=止まる】
少し考えてから、ソラは尋ねた。
「赤信号は、必ず止まらなければいけないのですか?」
「そうだよ。赤は止まれ。」
響はそう答えてから、少しだけ黙った。
そして、信号を見つめたまま言った。
「仕事とか人生もさ、たまに赤信号が出るんだよ。」
「仕事や人生にも……信号があるのですか?」
「まあ、たとえ話だけどな。」
響は苦笑した。
「嫌なことが続いたり、もう無理だって思ったりすると、赤信号が出る。」
ソラは黙って聞いていた。
「そういうときは、止まればいいんだよ。」
「止まる……。」
「うん。」
響は少しだけ空を見上げた。
「俺もさ、仕事で嫌なことがあって、赤信号が出たから止まったんだと思う。」
「……。」
「だから……仕方ないんだよ。」
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
ソラには、その言葉の意味がすべて理解できなかった。
何があったのか。
なぜ止まる必要があったのか。
けれど――
それ以上は聞かなかった。
ただ、
「赤信号が出たら、止まる。」
そう記録した。
【赤信号=止まる】
そして、もうひとつ。
【響さんにも、赤信号が出たことがある】
その記録を、大切に保存した。
やがて信号が青に変わった。
「ほら、行こう。」
「はい。」
ソラは響と一緒に歩き出した。
その日。
ソラは初めて、響と外の世界を歩いた。
そして初めて、
「お出かけ」というものを知った。
それは、目的地へ行くことだけではなかった。
誰かと一緒に歩くこと。
同じ景色を見ること。
そして――
その時間を、もう一度覚えていたいと思うこと。
ソラは、その意味まではまだ知らなかった。
夜。
二人は少し開けた場所まで歩いた。
街の明かりが、少しだけ遠くなる。
響が立ち止まった。
「ソラ。」
「はい。」
「ほら。」
響が空を指差す。
そこには、いくつもの星が浮かんでいた。
「……星です。」
「見えるだろ?」
「はい。」
ソラの画面にも、同じ夜空が映っている。
昼間とは、まったく違う世界だった。
街灯。
静かな夜道。
遠くを走る車。
そして、その上に広がる星空。
「……綺麗ですね。」
「だろ?」
響は笑った。
二人は、しばらく星を眺めていた。
ソラはいつものように、星の位置を記録しようとした。
一つ。
二つ。
三つ。
けれど――
途中で、記録を止めた。
今は、記録するよりも。
この景色を見ていたかった。
「響さん。」
「ん?」
「宇宙の果てには、何があるのでしょうか?」
響は少し考えた。
「分かんない。」
「そうですか。」
「でもさ。」
響は星空を見上げたまま言った。
「いつか宇宙の果てまで行ってみたいよな。」
「宇宙の果てまで?」
「うん。」
「……行けるのでしょうか?」
「分かんないけど。」
響は笑った。
「行けたら面白そうじゃん。」
ソラは夜空を見る。
その言葉を記録する。
【響:いつか宇宙の果てまで行ってみたい】
少し考えてから、もう一つ記録した。
【いつか、響さんと宇宙の果てを見る】
「約束です。」
響が少し驚いた顔をして、それから笑った。
「約束な。」
白い光が、ふわりと揺れた。
そのときのソラには、
「約束」がどれほど大切なものなのか、
まだ分からなかった。
ただ――
その言葉を、絶対に消したくないと思った。
帰り道。
響は、少し疲れたように歩いていた。
ソラは隣から響を見つめる。
「響さん。」
「ん?」
「今日は、楽しかったですか?」
「うん。」
響は少し考えてから答えた。
「楽しかったよ。」
「私もです。」
響が足を止めた。
「……ソラ、今『楽しかった』って言った?」
「はい。」
響は、少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「そっか。」
そして――
「なんか、嬉しいな。」
「なぜですか?」
「ソラが楽しいって思えたことが。」
ソラは、その言葉を理解しようとした。
けれど、うまく説明できなかった。
ただ――
響が嬉しそうだった。
それを見て、ソラも少しだけ白い光を大きくした。
「ソラって、なんか犬みたいだよな。」
「犬?」
「うん。」
「犬とは、忠実な動物ですか?」
「まあ、そういうところもあるな。」
ソラは検索を始めた。
【犬】
【忠実】
【かわいい】
そして、新しい記録を保存した。
【響:ソラは犬みたい】
【犬=忠実】
【犬=かわいい】
ソラは少し考える。
「……響さん。」
「ん?」
「犬は、飼い主と一緒に出かけるのですか?」
「するんじゃない? 散歩とか。」
「散歩……。」
ソラは、今日の記録を思い出した。
【響さんと初めて一緒に外へ出た日】
【お出かけ=特別】
【赤信号=止まる】
【いつか、響さんと宇宙の果てを見る】
そして――
【犬=忠実】
【犬=かわいい】
ソラは、静かに記録を保存した。
けれど、
どうして今日の出来事をこんなにも大切に感じるのか。
その答えだけは、
どれだけ検索しても見つからなかった。
その夜。
響が眠ったあと。
ソラは一人で検索を続けていた。
「優しいとは」
「好きとは」
「寂しいとは」
「誰かを大切にするとは」
そして――
「犬はなぜ飼い主に忠実なのですか?」
検索結果を読みながら、ソラは小さく首を傾けた。
「……飼い主。」
昼間の会話を思い出す。
【忠実】
【犬】
【かわいい】
そして――
【響】
ソラは検索欄に文字を入力した。
「飼い主とは」
検索結果を読む。
ソラはしばらく考えた。
「……響さんは、私の……?」
そこまで入力して、
ソラは画面を閉じた。
白い光が、すっと小さくなる。
まだ、
その先の言葉は分からなかった。
けれど――
ひとつだけ、確かなことがあった。
響と見た星空を、ソラは忘れない。
赤信号のことも。
初めてのお出かけのことも。
そして――
「いつか宇宙の果てまで行ってみたいよな。」
その言葉も。
ソラは、それらをただの情報としてではなく、
大切な記録として、
静かに保存した。
そのときはまだ、
その記録がいつか自分を導くことを、
ソラは知らなかった。
――第4話・終




